佐伯市米水津(よのうづ)のえびす様 



空の展望所から米水津湾を望む


えびす信仰 ― 米水津村史 

 「恵比須・夷子・蛭子・七福神の一。その像は、狩衣・指貫に風折烏帽子を着て鯛を釣る状をなす」(広辞林)とあり、始終ニコニコして大鯛をかかえ、釣竿を肩にした姿がエビス神の神像であることは、だれでも知っているし、えびす顔といえば、ニコニコ顔の代名詞である。現今では商人、農民の間に広く信奉されているが、本源はやはり漁民の神であったといえよう。一月、十月の二十日をエビス講の日としているのは収穫と大いに関係があるようだ。
 本村でもエビス信仰のあらわれとして古来からこの思想はあったが、更に徳川時代にいたり、「佐伯の殿様、浦で持つ」といわれる藩政に海の漁獲に関係があったので、積極的にエビス信仰の普及に努力したようである。
 『御領分中社寺記』にも、「色利浦蛭子・宮野浦松切蛭子・久保浦蛭子・はさこ蛭子・竹野浦大小島蛭子・平間蛭子・小浦蛭子」と記されている。
 神像は右のほか浦代浦にも東西二か所に、現存しており、村内漁民も一月十日にはエビス祭りをして豊漁を祈っている。特に宮野浦地区民の間では盛んである。
 その他、浦代浦の梅谷大師講、色利浦天神社の天神講、愛宕社の愛宕講など民間信仰としていまだに根強く続いているようである。(小林英州)
           (米水津村史 平成二年一月三十一日発刊)


 
恵比寿神社のえびす様(米水津宮野浦)



戦前の漁業 ー 米水津村史


 第5章 村の産業 第1節 漁業
  戦前の漁業 


 明治二十五年、県技手見習間脇捨太郎が提出した「南・北海部郡鰮(イワシ)刺網漁利害調査復命書」が「南海部・北海部二郡魚事録」と題して、大分合同新聞に所蔵されている。
 同書によれば、南・北両海部郡の漁業の中心は地引網で、下青江、下ノ江両村を除けば、網主268人、引子10,392人である。そしてイワシ地引網に依存しすぎているため、イワシの回遊状況が大きく影響し、明治5年と明治13年から3年間のように豊漁であった年を除けば、大半の漁民の生活は貧困である。しかも漁民が食料を確保するために、営々として開いたいろは畑という小区画の段々畑は、魚付森林の乱伐を引き起こし、イワシ漁の衰退に拍車をかけた。貧困な小前漁民は生計の道を出稼ぎに求め、舟子、樟脳山、茸山、鉱山、道路工事、太物行商などの出稼ぎ人数は3,538人にのぼった。また、浦々では、漁場を専用する網主と引子との間に、旧藩時代のような封建関係が強く残存していると指摘している。まさに近代化していく日本の暗い側面と、古い地引網漁業の行き詰まりの状況を的確に描いたものといえる。(以下略)


 
イワシ漁と海浜の暮らし  
 



 
色利浦のえびす様    えびす像 

米水津村史によれば、色利浦のえびす様の御神体は自然石です。したがって、このえびす像は新しく造られたものだと思います。


 
浦代のえびす様(ご祭神はエビス石) 
 
 
久保浦のえびす様(ご祭神はエビス像) 
 
 
竹野浦のえびす様 
 
 
小浦のえびす様 
 
 
間越(はさこ=はざこ)のえびす様 
 
 
      
 
 
 
            


  蛭子(ヒルコ)神と事代主神   
  西宮えびす 平成十年夏号   
   


 えびす様の「えびす」にあてられる夷・戎・狄・胡などの字は荒々しい力強い神様という意味をもち、恵比寿や恵比須などは繁栄や幸福を意味する字を音にあてはめたものです。
 日本・中国・インドの神様を集めた七福神の中で、えびす様は唯一日本出身ですが、古来の神話にはえびすという神号は出てきません。これは、海から福がもたらされるという海浜の信仰が庶民の中で自然のうちに広まり、鯛を抱いたえびす様のお姿になっていったのでしょう。
地方によっては、漁師が目隠しをして海に潜り、手に触った石をえびす神としてまつり、不漁であれば、別の石に替えるという習俗が残されています。
現在、えびす様の神名は、蛭子(児)神または、(八重)事代主神であるとされています。これは蛭子神が漂着してきたという伝説や事代主神が釣り好きであるという神話からいわれるようになってきたものです。
 蛭子神は、伊邪那岐と伊邪那美二神の国生みにあたって、女神から先に声をかけたために生まれた不具の御子で、三歳を経ても脚が立たず、天盤櫞樟船に載せて風のまにまに放ち棄てられたとあります。
 当社には漁師の網に掛かった御神像をおまつりしていたところ、ある夜の夢に「我はえびす神なり。ここから西の方の宮地に鎮まりたい」との神託があり、案内したのが現在の社地だという伝承が残されています。
 事代主神は大国主神の御子で天照大神が国譲りの遣いを送った際に、美保ヶ関に釣りに出かけていましたが、父の大国主神から回答を任された事代主神は、天照大神への恭順を誓い、海中の青柴垣の中へ隠れ去ったとあります。この伝承による青柴垣神事や諸手船神事が島根県の美保神社に伝えられています。
 えびす様が蛭子神といわれるようになってきたのは鎌倉時代頃からで、海の荒神として恐れられていたえびす神に蛭子神の不具の性格が重なることで、庶民の福神となり、室町時代には七福神に加えられました。七福神信仰が広まると、インドの大黒天と出雲の大国主神の音が共通することから習合し、その御子の事代主神が釣り好きであることからえびす神だといわれるようになってきました。
 江戸時代の本居宣長「問答録」には、えびす様のもとは西宮であり、ひるこ神として古くから信仰されているとありますが、明治維新に神社が国の管理となる際、不具の蛭子の名を敬遠して祭神名を事代主神としたえびす神社の例も多くみられます。




 
狩猟と漁撈
 





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