佐伯市上浦のえびす様 |
蒲戸地区 | ||
えびす様の祠 |
蒲戸のえびす様 |
三ツ石(福泊地区) |
夏井のえびす様 |
えびす様(蛭子・恵美須)は漁業神で、縁日は正月一〇日である。蛭子神は豊漁をもたらしてくれる福神であるから、家業繁栄の対象神でもある。当町では漁業者の崇敬が厚く、正月一〇日の初えびすを盛大に祝っていた。一〇日えびすは漁師の祭りで、網方に集まり年内の作業分担を決めた後で直会をする。費用は網元が負担して無礼講であった。蛭子神については、嘉永七年(一八五四)の福泊浦庄屋覚助の「記録」に次のような記載がある。 一 御代官より御用有之御触有之候、尤御志分又御用此節浦方一統打続不漁ニ付、有漁祭として、五所大明神・若宮八幡宮両所におゐて二夜三日之御祈祷仰付、例年之通七戎之御神酒は代銀にて被下有之難有事也。 嘉永七寅年七月廿四日御用 右の大意は「御代官所から次のようなお触れがあった。趣旨は、此の節佐伯藩内の浦方では不漁が続いているので、佐伯城下の五所大明神と若宮八幡宮で、二夜三日の御祈祷をするよう仰せ付けられた。従って両社での有漁祭に福泊浦の役人と網方は参詣するよう仰せ付けられた。また、例年のとおり七戎にお供えする御神酒は代銀で下された。ありがたいことである。」と読み取れる。 ここで、140年も前の佐伯藩からの命令を取り上げたのは、不漁の際には豊漁のための祈祷を命じ、浦々から役人を参拝させていることと、浦々に祭られていた蛭子様に毎年お神酒代銀を下賜されていたからである。「佐伯の殿様、浦でもつ」といわれた佐伯藩では、安永三年(1774)に藩主が豊漁を祈願して、領内の浦々に十躰の蛭子像を祭らせたという。七戎はそのうちの七体をさすものと思われる。 上浦町内の神社には、明治17年9月合祀された蛭子神五柱がある。「東上浦村史」(佐藤蔵太郎著)によると、蒲戸の石躰神社には字大浜より、長田の聖神社には字敷場より、夏井の愛宕神社には字蛭子島より、津井の瀬会神社には字川尻より、浅海井の瀧神社には字小島より、蛭子神がそれぞれ合祀されている。 蛭子様の祭神は事代主命で、この神は漁場付近に祭られ豊漁を授ける神である。それを「片っ端から移転して他社に併合するが如きは、神霊に対しても、また漁人の信仰上にも良策とは思はれざるなり」と喝破した佐藤蔵太郎は、福泊で大正五年(1916)に、蛭子神を合祀した天満社から、ふたたび元の蛭子山の森に分祀した事実を記して、地区の繁栄擁護と漁業の発展とを祈ったのは「洵(まこと)に美事と謂うべし」と述べている。 現在、津井地区の松原に祭られている蛭子様は、漁業協同組合の役員が祭りをしているが、元は中小路に奉斎されていた。現在は舗装されているが、えびす石祠の在った所は海浜で、半農半漁の地区の人々の崇敬を受けてお供え物が多かった。カブシ桶一杯の魚を供えてあるのを見た人もあるが、これは「荷(二)倍返し」の伝承があったことを示している。漁があったときは、えびす様にお神酒と魚を供えて浜辺で酒宴を催すこともあった。 地引網を海に入れるとき、真網と逆網の中央に付けるアバ(浮子)をエベスアバという。恵美須が降臨して豊漁をもたらしてくれると信じて神聖視しているのは他の浦々と共通で、年末にはエベスアバを外して家に持ち帰り、神棚に供えておく。網を使用するためエベスアバを付ける時には、「蛭子三郎」と唱えながらお神酒を注いでいたという。(以下略) *その昔、摂津国の広田神社に、「夷殿」と「三郎殿」という二神が祀られていたが、鎌倉か室町のころに、「夷殿」の神威が増したことにより「夷三郎」という一神になり、後に摂津国西宮神社に祀られたという。 *蒲戸地区の石躰神社の御神体は石だといわれます。昔、夜な夜な海中に白く輝くものが見えるが、誰もそれが何か分からなかった。ある時、一人の若者が海中深く潜って白く光る石を引揚げてきた。そこでこの石を神として祀ったといわれます。
(漁業・市の守護神)ニコニコの笑顔で大鯛をかかえ、釣竿を肩にした姿の老人が恵比寿神の神像であることはだれでも知っている。恵比寿神は中世以降七福神の一つに数えられ、恵比寿大黒と併称されて福神の代表格とみなされている。恵比寿は、恵比須・夷・戎・蛭子などの漢字も当てられているが、恵比寿そのものが異邦人を意味する言葉で、本来は異郷から来臨して幸せをもたらす客神(マレビトガミ)であったものであると伝えられている。
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