内海の海人の生活 | ||
海に生きる人々 宮本常一 |
海人というとすべて女が海底にもぐってアワビをとるもののように思っているが、必ずしもそうではなかった。アワビがいないところでとりようがなかったわけである。そこでアワビをとらぬ海人もいたわけである。沖縄の糸満人のような海人はさしあたってその仲間だということである。 ところで海人はどんなものをとっていたのであるか。それについては延喜式にかなりくわしく見えている。延喜式というのは醍醐天皇の御世に藤原時平が命をうけて編集した法令集で、延長五年(九二七)に完成している。 これには諸国から貢納せられたものの名も出ていて、当時の日本の産物の状況などを知るのに重要な手掛かりになる。そのうちの海産物について見ると、興の深いのは和名抄に海部郷のない日本海岸の石川県以北と太平洋岸の茨木県以北で、アワビを献上しているのは佐渡だけであり、たぶんこの海域にはその頃までもぐって魚介をとる人はまだ住んでいなかったことが推定せられる。そして海産物の主要な貢納地はどうやら海部のいるところなのである。したがって鹿児島県からは塩のほか海産物の貢納はないし、対馬もまた同様である。 そしてアワビの貢納のあるのは、日本海側では佐渡のほか、越前(福井県)隠岐・出雲・岩見(島根県)、長門(山口県)、九州では筑前(福岡県)、肥前・壱岐(長崎県)、肥後(熊本県)、日向(宮崎県)、豊後(大分県)、太平洋岸では伊予(愛媛県―豊後水道)、阿波(徳島県)、志摩(三重県)、相模(神奈川県)、安房・上総(千葉県)となって案外少なく、また瀬戸内海からは貢納していない。 アワビのほかはナマコ、ワカメなども竿でとることもあるが、もぐってとったものが多かったと思われ、それらもまた、日本海岸、九州、九州西辺、太平洋岸に見られ、内海には播磨などをのぞいて他の国々では見かけない。 そして海藻はワカメ・メノネをのぞいてはもぐってとるようなことは少なく、その海産物のみからいうと、十世紀の初め頃には瀬戸内海にもぐる海人はもうほとんどいなくなっていたことがわかるのである。そのかわり、釣ってとるものが多く、またヒシコのように網でとったと思われるものが多くなっている。あるいは内海の海人はその初めから網を使用したり、釣りやヤスを用いるものが多かったと考える。 もとより貢納されたものだけが海産物ではないが、いずれにしても、外海と内海の海人の性格は十世紀の頃にはかなりかわったものになって来ていたと思われるのである。 ではこれらの海産物のとり方をいま少し詳しく見ていくことにしよう。それには万葉集の中にたくさん海人のことをよんだ歌があるので、そのおもなものをあげて見ることにする。 志珂のあまの釣船の綱たえなくにおもいに思いて出でにけり (一二四五) 志珂の浦にあさりする海人家人の待ち恋ふらむ明かし釣る魚 (三六五三) 志珂の浦にいさりする海人明け来れば浦廻こぐらし楫の音きこゆ (三六六四) 志珂のあまの塩焼く煙風を痛み立ちはのぼらず山にたなびく (一二四六) 志珂の海人の一日もおちず焼く塩のあらき恋をも吾はするかも (三六五一) という歌によくあらわれている。 これらの歌の中に潜水の事は見えていないが、「魏志倭人伝」にもあるようにもぐっていたことはまちがいない。しかしそのほかにも釣漁もおこなっていた。その釣りも「釣船の綱」とあって糸ではない。綱をはえるのならば延縄であろう。長い幹縄にたくさんの枝糸をつけ、枝糸のさきに釣鈎をつけて海中へはえていく。この漁法は主に夜間おこなうもので昼間はいたって少ない。右のうたの中にも「明かし釣る魚」というのがあって、それを物語っているようである。さらに鉾突きもおこなわれたのではあるまいか。「いさりする」というのは内海から北九州にかけては魚を突くことである。とくに夜間の魚は突きやすくて、火をたきながら突く漁法がごく最近まで行われていたのである。ただし、万葉集時代のイサリは漁業全体をさしていたようである。 また海人は塩も焼いた。瀬戸内海では夜にはこれを主業とする者がいちじるしくふえて来るのであるが、志珂の海人もまた漁撈のかたわら塩を焼いていたのであった。このような北九州の海人に比して、内海の海人の生活を見ていくと、内海にもそのはじめは、さかんに潜水を行っていたことは「淡路の野島の海人、あわび珠さわにかづき出」(万葉集九三三)というのがあるので推定できるのである。「かづく」というのはもぐることである。 ところで、このもぐったものはどうも男だったらしく、内海の海人は、女はあまりもぐらなかったのではないかと思われるのである。中にはもぐったものもあったかわからないが、奈良時代になるとそういうことはすくなかったらしい。 あるいは糸満人たちと同じく、そのはじめから女はあまりもぐらない習慣をもっていたかと思われる。「万葉集」では海人の女たちをよんだ歌を見ると、 玉藻刈る あまおとめども 見に行かむ 船楫もがも 浪高くとも (万葉集九三六) 難波潟 潮干に出でて 玉藻刈る あまのおとめら汝が名告らさぬ (万葉集一七二六) これらこの 名におう鳴門のうず潮に 玉藻かるとう あまおとめども (万葉集三六三八) などがあり、これは海女が渚ちかくの海に入って海藻を刈っている姿をよんだと見られる。 あさりする あまおとめらが 袖とほり ぬれにし 衣ほせどかわかず (1186)とあるのも、多分は海につかりながら海藻を刈るために、着物をぬらしてしまったためであろう。 ではその刈りとる海藻はどういうものであっただろうか。「敏馬の浦の沖べには深海松採り、浦廻には名告藻刈り…」とあるごとく、ナノリソやフカミルをとったものであろう。両方とも食料にしたのであるが、ナノリソは食料ばかりでなく藻塩を焼く材料にもしたようである。これに海水のしみとおったものを日に干し、さらに海水をかけ濃縮した塩水を得、それを煮詰める方法がとられたようである。 淡路島松帆の浦に 朝なぎに玉藻刈りつつ 夕凪に藻塩焼きつつ 海人娘子(あまをとめ)ありとは聞けど (九三五) とあるのは、海人の女たちが朝刈りとったナノリソを一日中日に干して、夕方には藻のたれ水をとって塩を焼くと解したようである。 さて塩を焼くために藻を刈り、たきぎをとり、女の労働も当時からたいへんなものであったことがわかるが、それでは内海の沿岸で塩を貢納したのはいずれの国かというに、「延喜式」によると播磨・備前・備中・備後・安芸・周防・讃岐・伊予となっていて、沿岸ではほとんど生産していたことが分かる。 ところで縄文・弥生文化の時代には、西日本の遺跡からは骨製の釣鉤がほとんど出ないのが特色だと書いたけれども、「万葉集」の歌には釣漁の歌がいくつかある。しかも昼もおこなわれていたようで、播磨・淡路にかけてこの歌を見かける。そして釣りをしたのは男だけでなく女もおこなっており、もぐることは少なくなっても、沖に出ていくことは多かった。そして昼漁よりは夜の漁撈が盛んであったことは、漁火をよんだ歌の多いことで察せられるのである。 この場合、釣りを行ったという歌はない。拷縄(楮などの皮でより合わせた縄)をはえたというのがあるから、延縄漁をおこなったと思うが、多かったのは鉾突漁ではなかっただろうか。鉾突漁にせよ、延縄漁にせよ、今日なお夜漁をおこなっている漁村に古い海人系の漁村が多いのである。そして農業から転じて漁業をおこなうようになったものは昼漁が多く、瀬戸内海ではこの二つの漁村はかなりはっきり区別することができる。 さて夜漁の漁船は沖に出たまま家にはかえらないで岬のかげなどに船をとめて夜を明かすことが多かったようである。 磯ごとに 海人の釣船はてにけり わが船はてなむ 磯の知らなく (三八九二) という歌にそのさまを知ることができる。延縄漁の場合など、夕方から九時ごろの間に釣縄を海中にはえておいて、波のしずかな岬のかげや磯ばたに船をとめ、夜あけを待って漕ぎ出し、釣縄をくりあげていくのが普通である。
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