その文化と人間関係
第一節
海人漁民は古くは《海人》とよばれた。そして瀬戸内海には多くの海人の居たことが記録されている。これらの海人も二つの系統があったのではないかと考えられる。
その一つは、海人郷を形成した海人である。『和名抄』によると、瀬戸内海には安芸国(広島県)に海郷と安満郷の二つがあった。また淡路島南部に阿万があり、紀伊には海土郡、豊後には海部郡があった。
こうして郡郷を形成しているということは、海のみならず陸の生産にもたよる生活をしていたことを示している。これに対して、陸の生産にはほとんど関係をもたない海人も居たようである。瀬戸内海東部は海人の多く居住したところであり、中でも備前(岡山県)には勢力のある海蔀値もいた。
4世紀の頃、吉備海部直の娘黒日売は、仁徳天皇の所望によってその妃になっており、また雄畧天皇の7年(463)には、吉備海部赤尾が、田狭臣の子弟君とともに、新羅征伐の命をうけて出陣しており、敏達天皇の2年(573)には、高麗の使人が越海のほとりに漂着したのを、吉備海部直難波が命をうけて高麗におくりとどけている。この地方の海人を支配していたものと思われる。
3世紀から4世紀へかけて、瀬戸内海東部で海人の居たところは、摂津・淡路野島・淡路三原・播磨揖保郡石海里・播磨明石郡・阿波長邑・阿波名方・吉備などがあったし、その数もおびただしかったことが推定せられるが、郡も郷も形成していない。
ただ石海里の海人は陸上りして農をも営むようになった。とにかく3〜4世紀頃の内海東部の海人は、海岸に定住しても、土地をもとめて農民化することはほとんどなかったようで、小豆島のごときは当時備前に属し、海人のもっとも多く居住したところと見られるが、海部郡はおろか海部郷も形成していない。『和名抄』にはまったく小豆島の名をすらとどめていない。
当時の小豆島には、多数の人が居住しつつ、名すらも誌してないのは、それが海人だった為だと見ていい。つまり海上生活を主とした海人が居たことを物語る。そしてこれらの海人はきわめて自由に行動していたもののようで、本来海部直に支配されていたにもかかわらず、応神天皇の3年
(272)、ところどころの海人がさわいで政府の命令に従わないため、阿曇連の祖大浜宿弥を遣して、そのさわぎをとりしずめさせ、その後ずっと阿曇氏が海部を支配することになる。
これら海人が内海の東部に多数居住したのは、彼ら自身の意志ばかりでなく、政府の命令にもとづくものであった。当時政府は大陸と深い交渉を持っていて、たびたび半島へ兵を出している。そのために軍船を動かす人々を多数必要としたが、海人は船操縦の役を負わされたのである。遠征のもっとも多かった斎明・天智帝の時には、659年から663年までの間に毎年1回、計5回の遠征軍を出しており、そのうち3回は北方へ、2回は朝鮮半島への出征であったが、5回に出征した軍船の数は延べにして900隻。1艘に水夫20人をのせるのが普通であったから、18,000人が徴発されて出征したことがわかる。彼らは漂泊を事としつつも、政府の保護を受けていた間はまだよかったが、平安時代に入って外征のこともなくなり、大陸との交渉もうすくなると、彼らは彼らの力でのみ生きなければならず、その生活は窮迫をきわめることになり、つぎつぎに海賊化していったようである。
承和11年(844)「淡路国言上」(「続記」)によると、「他国の漁人ら三千人あまりが浜浦に群集して来て住民の財をかすめとり、山林を伐りあらし、雲のようにあつまったかと思えば霧のように散ってしまう。そして乱暴して「休むところがない」という有様であった。彼らがほとんど陸の生産に頼っていなかったことは、このできごとからも推察され、しかも海上漂泊をしていた様子もしのばれて来る。このような漁民の系譜がどこにつながるものであるかは明らかでないが、彼らの漁撈の方法を見ていくことによって、その系統が少しは辿れるのではないかと思う。
まず彼らがいかなるものをとったかを、927年に書かれた『延喜式』によって見ていくと、水産動物ではタイ・サメ・イワシ・カツオ・サバ・アジ・タコ・イカ・ヒシコ・クラゲ・アワビ、水産植物ではフノリ・アオノリ・ブゴノリ・ナノリソ・ワカメ・メノネなどであり、そのうちアワビは伊予・豊後から貢納しているにすぎぬ。これらのうち、タイ・サバ・サメ・アジなどは主として釣りによ って獲ったものであろうし、イワシ・ヒシコは網によってとったものであろう。すると、もぐってとるものは、きわめて少ないわけで、内海の海人は早くから潜水以外の漁法で魚をとっているものが多かったという推定が成立する。
また海藻類も種類がきわめて少なく、海女たちがもぐってとることもそんなに盛んではなかったのであろう。これら海人の生産物として、もっとも多かったのは塩で、播磨・備前・備中・備後・安芸・周防・讃岐・伊予の8ケ国から貢納せられて
おり、この頃塩生産のために定住した海人が多数居たことが想像せられる。
次に海人の生活についてその様子を知り得る手がかりとして、『万葉集』によって海人の生活を見ていくと、海人は男女ともに海で働いた。しかし女は海にもぐる
ことは少なかった。たとえば、玉藻を刈るのは干潮の時であったし、また袖通りぬれた衣をほすというのであるから、着物を着たまま海に入って働きはするが、もぐったわけではなく、袖や裾をぬらしたものであろう。
そして、とった海藻は、フカミルやナノリソが多かった。フカミルは深いところに生えているから、もぐることもあったかと思うが、ナノリソは渚近くに生じたから、袖ぬらしつつ刈ることもできる。「藻塩やく」の藻はナノリソであり、「玉藻刈る」というのは食料にするためにも刈ったであろうが、むしろこの藻を刈って浜に干し、またこれに少しずつ海水をまいて天日にさらし塩を結晶せしめ、これに塩水をかけてその塩分のたれをとり、煮つめたものであろう。
「淡路島松帆の浦に朝なぎに玉藻刈りつつ、夕なぎに藻塩やきつつ……」(932番)
という歌が、その間の事情をよく物語っている。
そして塩をやくのは、8世紀の頃までは主として女の仕事であったようである。近世に入って発達した入浜塩田で、砂をヌイにあつめて、塩水をかけてとる濃縮塩水を、《モンダレ》といっているのは、藻の垂れの意味であろう。そしてそれは、藻塩焼製塩時代の言葉の名残と見られる。
次には釣漁をおこなっている。釣漁は昼間おこなうものと夜間おこなうものがあった。昼漁の場合、女だけで沖へ出て魚を釣ることが少なくなかった。そして昼漁は一本釣が多かった。これに対して、夜漁は延繩漁が多くなる。夜の一本釣は、記録に残る限りでは、江戸時代の終り頃に考案され、盛んになっていったものである。延繩は、8
世紀頃には《栲繩》とよばれている。これには、《浮縄》といって、海面近くにはえて浮き魚をとるものと、海底にはえて底魚をとるものがあり、12世紀頃の歌集には「あまのうけなわ」という言葉をいくつも見かけるから、浮延縄が多かったと思われる。夜漁をおこなう場合には、篝火が必要になる。しかし漁火を用いるのは釣漁だけでなく、鉾で魚をつく場合にも夜間が有利で、しかも夜間海底を見るためには篝火は絶対に必要であった。漁火のことを万葉集ではすべて「イサリ火」といっている。
《イサル》というのは、現在瀬戸内海では鉾で魚をつくことである。イサリの《イ》には「射る」という意味も含まれているかと思う。しかも瀬戸内海では、夜間に漁業をいとなむ漁民は、古い伝統を持つ者とされており、また漁業に対する気構えもちがう。これに対
して、農民で漁業をいとなむようになった者は、昼漁が主になる。男女が海に働 き、しかも夜間漁業をおこなうことによって、船を家とする生活もおこなわれる。そしてその生活が陸に依存することが少なければ、移動漂泊が多くなる。移動漂泊についての資料はそれほど多くを見かけないが、これは漁民自身が記録を持たなかったことに原因しよう。
しかしその乏しい資料によって見ていくと、「賀茂社古代庄園御厨」の寛治4(1090)の文書に、「御厨の供祭人は要所 に付して居住せしめないのであるから、本所役を免ぜられるところである。そ して櫓棹通路の浜は当社の供祭所になすべし」という興味ある記事がある。こ こにいう「供祭人」とは、漁撈によって神社の供物を貢納する人々のことで、漁民であることは云うまでもない。それが一定のところに住まないから本所役は免ずるというのである。それだけでなく、その漁民の通路一ここでは仮泊の地を指すものと見てよいが、そこが供祭所になるというのである。
賀茂神社は多くの神領を持っているが、それとは別に全国に賀茂の地名を有する所がきわめて多い。それらは必ずしも賀茂の神領の記録は残していないが、多分はこうした漂泊する供祭人の定住を見た所と考える。
供祭人は、陸地の場合の狩入のような ものではなかっただろうか。それが海上の場合は漁民であった。これら漁民が仮泊または定住した島には、山口県柱島・長島・八島・佐合島など小さな島が少なからず存在しており、これらは陸地を求めて開墾することが目的でなかったことも推定せられるのである。ただし、漂泊漁民のすべてが賀茂の供祭人であっ
たのではなく、漂泊漁民のうちに賀茂の供祭人も含まれており、彼らは賀茂供祭人たることによって、特権を与えられていたのである。
賀茂社にかぎらず、古 くから勢力のあった神社には、漁民の供祭人がいたようで、貞和2年(1346) の文書に「備前国吉備津宮供祭人らが漁船に神輿をのせて尾道浦の浄土へもっていったというが、事実とすればたいへんおだやかでない。そういう強い沙汰はやめるべきである。くわしいことを注申すべきの旨、社人らに相触れよ」というのがある。
吉備津宮は尾道の東80kmほどのところにある。吉備津宮の漁民が、こうした挙に出たというのは、尾道の漁民が備前の海へも進出していて、吉備津宮漁民にとっては目にあまるものがあったためであろう。
14世紀の頃には、こうして漁民も徐々に根拠地をもって来るようになってはいたが、行動半径の広い活動をつづけていたことがわかる。
このように、供祭人としての特権を持 った者はよかったが、そうでなかった者は、窮迫すれば海賊行為をとらざるを得なくなる。内海に海賊の多かったことは、いろいろの文献の端々にうかがわれるところであり、中には勇ましい物語も見られるが、その大半は貧しさからの行為であり、また彼らに定住性のすくないことが、そういう行為をさせ、追えば四散し、取り締まることが難しかったのである。
この事情を物語るのは、応永27年(1420)日本を訪れた朝鮮の宋希環の書いた『老松堂日本行録』である。同書によると、当時の重要な港の付近には、必ずといってよいほど海賊が居た。
海賊行為のもっとも大きな目的は、食料をうばうことのようで、尾道で18隻の賊船が13日間も朝鮮使船をうかがっていた。海賊船がそれとわかるのは、簡単な甲胄をつけているからであり、しかも賊船はきわめて小さかったと記されている。
日頃は漁業に従がいつつ、生活に困ればすぐ賊にも変じ得たものであろう。これら漂泊の漁民が、海岸定住をして来るようになるのは、豊臣秀吉の海賊禁圧政策によるものである。
秀吉は天正16年 (1588 )海賊禁圧令を出しているが、それによると、「諸国の海上で賊船の儀は堅く停止されているが、今度備後と伊予の聞の伊津喜島(斎島)で盗船する族が居る由であるが、これは曲事である。国々浦々の船頭漁師など船をつかっている者は、その土地の地頭代官が取調べて、すこしも海賊させないように誓紙連判させ、その国主がとりあつめ秀吉に出すこと。そして今後は領主が油断なく海賊の輩を成敗し、曲事があれば、給人領主の知行その他を末代とりあげてしまうこと。」を申しわたしている。
文章は簡単であるが、取締方はかなり徹底したもののようで、斎島はそれ以後しばらくの間無人島になっている。ここに居たものは他へ逃亡してしまったものであろう。斎島だけでなく、海賊の首領であった村上氏の根拠地の能島・務司島・中途島・古城島は、そのころから無人島になったまま今日にいたるのである。
そのほかにも、小さい島では無人島になったものが多いし漁浦に漁民の居なくなったものも多かったと思われる。たとえば広島県蒲刈島(上下両島)のごときは、同島を支配していた多賀谷氏の16世紀の文書によると、船数が200隻以上あったのだが、宝永
2 年(1705)の明細帳には船数18隻、家数120軒に減っているのである。おそらく漁民群はほとんど消え去ってしまったものであろう。 この島にして、この船数と家数は少なすぎるのである。なぜなら、それから約
100余年後の文政年間(1818− 25)に編纂せられた『芸藻通志』では、戸数1240戸、船数310隻を数えるにいたっているからである。人家で10倍、船数で16倍の増加を見ている。これは単なる自然増加ではないし、またこれが多すぎる人家及び船数でもない。他の島々については十分な資料を持ちあわせていないけれども、ほぼこれに似た事情があったものと推定せられる。つまり、近世初期において、海賊行為をおこなう漁民は、島々から一掃されたのであるが、それらの人びとが、すべて殺されたはずはない。彼らは捕えられる前に、その多くが逃亡して別のところに移ったはずである。
瀬戸内海西部の島々の漁民は、多く中国地方本土の海岸に、あたらしい居住地を見出したようである。音戸・阿賀・長浜・仁方・川尻・吉・二家・能地・吉和などがこれである。そして漂泊漁民は、一応これらの海岸集落の一隅に住みついたと見られるのである。
これらの海岸集落は、漁民定住以前からすでに存在したものが多く、さきに淡路の漁村で述べたように、漁業集落が中心になって町が発達したものではない。このように後から来て住みついた者に対して、在来住民は軽蔑の眼をもって見る風がある。したがって、淡路の漁民とはその社会的身分にかなりのひらきがある。
では島々の漂泊漁民が四国側にはそれほど移住しなくて、中国側へなぜ移住しただろうか、ということになるが、四国は秀吉の海賊禁圧令の出る3年まえ、すなわち天正16年(1585)秀吉によって征服され、長曾我部元親は土佐一国の領有をみとめられ、伊予の河野氏は亡ぼされた。そして河野に一応臣従の形をとっていた海賊の首領であった村上氏は、中国を支配する毛利氏の勢力下に入ってしまうのである。毛利の領内にあれば、漁民もやや安全だったはずである。
こうした漂泊漁民は、それぞれ海岸に定住すると、秀吉の九州征伐、小田原征伐、朝鮮征伐などの、軍船や輸送船の水夫として徴発され、それによって居住地を中心にした沖合での漁業の権利をみとめられるようになる。後に毛利藩の5 御立浦の1つとして、瀬戸内海の漁村中でも もっとも勢力のあった周防大島の安下浦のごときも、天正の頃あらたに定住を見た所ではないかと思われる。
寛永11年(1634)の文書に、「安下庄浦は家数が29軒で、屋敷は砂の上にようよう家を作り申すばかりのところで、新居のこととて野菜一本もつくりつけるところがなく、漁業のみのところである」と誌されている。ここの漁民は朝鮮征伐に出たロ碑をもち、そのとき記念に植えたという唐松という松が最近まであり、庄屋はその松のそばに住み、江戸時代の初め頃から唐松を苗字にしていた。多分朝鮮征伐の前ごろに定住したものであろう。新たに砂浜の上に住みつき、野菜一本もつくれないというのであるから、その条件は決してよいものでなかったことがわかる。
こうして、近世初期にどこからともなくやって来て、定住をはじめた漁民の数は、かなりおびただしいものであった。ところが一たん定住したものが、水夫役や税などの負担から逃れるために、定住地をはなれ、あたらしい漁場をもとめてまた漂泊をはじめてい く。
ただ宗門帳の関係で、旦那寺のあるところへ年に何回か帰っていかなければならないが、それ以外は自由で、ひらい漁場で働き、漁撈に都合のよいところを見つけると、海岸に小屋掛をして稼ぐ。安芸豊田郡能地におちついた漁民たちは、特にこの傾向がつよく、同地善行寺の過去帳には、各地で死んだ人々の名と、その死場所がしるされ、それらを辿っていくと、宝永元年(1704)から明治末までの間に100ヶ所をこえる枝村のできていることがわかる。
能地は手繰網を主業とするが、能地と肩をならべる二窓は、延繩を主として海上漂泊をおこない、方々に枝村をつくっている。
そのほか長浜・川尻・音戸・蒲刈などもいくつかの枝村をつくっている。彼らは地元の者には軽蔑せられていたけれども、舸子役もつとめず、税もおさめず、世話になる港ヘエビス金をおさめる程度で、地元漁師の邪魔をしないようにして、主として沖合でかせぎ、渚近くで稼ぐときも夜漁が多いから、地元の漁民の邪魔になることは少なかった。
だが明治以来、教育が義務制になってからは、船を家として稼いでばかりは居られなくなり、まず老人と子供の陸上りが進んでいった。これら漂泊漁民の一つの特色は、もと船を家としたために、船の小さい関係から、一艘の船に二家族以上住むことは困難で、長男に嫁をとると、若い者には船を一艘持たせて独立させ、親は二〜三男たちと同居して漁撈をつづけていく風が見られた。いわゆる末子相続形式である。
一般に延繩・手繰の家船では、こうして末子相続制が見られ、陸に居住を定めても家はきわめてせまく、しかもそれらが借家であるものが多かった。元来漁家に大きいものはないのであるが、こうした仲間は特に小さく、それもほぼ各戸一定しており、十九世紀半ばまでは、小便所はあっても大便所は持たぬものが多く、浜へいって用をたして来る風が見られた。
また父系制でありつつ、女も共稼ぎをする関係から、同業者との間の婚姻が多かった。女はまた漁獲物があると、これをハンボウに入れ頭にのせて売り歩いたものである。しかし頭上運搬は今日ほとんどすたれている。
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