第2節 漁民定住と漁業権

 以上、今日まで海上漂泊をつづけて来た漁民について見て来たのであるが、漁民の中には、早く陸上りして定住したものも少なくなかった。そうした定住の重要な動機になったものの一つに製塩作業のあったことは、さきに述べたところであるが、その事について、もっとくわしく述べることにしよう。
 製塩方法については、最近岡山大学の近藤義郎氏によって、各地の製塩土器が発掘せられ、海水をいれた土器をいくつもならべて火をたき、水分を蒸発させて塩を得る方法のあったことが明かにされたが、これは必ずしも漁撈民のおこなう製塩法ではなく、農耕を主とする者の間にも見られたものであると思う。

 製塩は必ずし も海人のみがおこなったものでないことは、最近までの僻地の入浜以外の製塩法を見ればわかる。東北北陸などでは、農民が農閑期び浜に出て製塩をおこなう風があった。彼らは燃料をもっていることによって強かったし、製塩そのものには特殊の技術をそれほど必要としない。しかし、農民だけでなく漁民もおこなった。瀬戸内海では漁民のおこなったものが、藻を利用して濃縮塩水をつくる方法であったと思われる。

 これはどこまでも想像にすぎないけれども、「万葉集」 の歌がそのことを暗示してくれる。そして海人が塩をやくために定住するとすれば、そこで容易に燃料を入手することができる条件がなければならぬ。そこは山が海にせまって大した平地もなく、したがってほとんど水田をひらく余地もないようなところであるか、または海藻の得やすいところであっただろう。 つまり、陸上にあって農耕をおこなう者にとっては、大して魅力のないようなところ、後に上ゲ浜塩田が発達すると、細砂の浜のあるところも条件のうちに入って来る。

 さて、さきにも述べたように、東部瀬戸内海には政治的な理由もあって、海人がきわめて多かったが、そのためそれらの者が製塩条件に適した所に住みついて製塩を主業とするようになる。小豆島はその代表的なものであると言える。その他淡路南部の阿万地方、塩飽諸島、内海中部の田島・横島・因島・弓削島・大崎上島南部、内海西部の能美島・倉橋島・柱島、周防大島東部などにも海人の定住が見られ、製塩がおこなわれたと推定せられる。そこに上ゲ浜塩田あとが存在するからである。彼らは小さな船によって生産と生活を立てていたために、平等観と協力体制がととのっていたであろう。それらが陸上り した場合も、その体制は容易にくずれなかったと推定せられる。ということは、そこにはまず砂浜の平等分割がなされて、そこで濃縮塩水がとられ、さらにこれを煮つめるために、山林が平等分割せられていることが、これを物語る。そして、山林伐採跡地を拓らいて畑をつくりはじめる。そこに均分整形開墾が見られるわけである。

 さてこのような社会には、海人的な性格がどれほど残っているであろうか。まず末子相続制は徐々にくずれていったと見られるが、消えてしまってはいない。調査に際して、思いつくままに明治時代の相続がどういうものであったかを訊いて見ると、長子相続制が次第につよくなっているが、そうした 中に、10〜20%程度の末子相続や隠居分家の存在しているところが多い。今日それを支えているのは家庭の事情であるにしても、元はもっとその比重が大きかったと見え、淡路鳥飼の家の系図を見ると、近世初期には隠居分家があたりまえであったことが分かるが、後には老人のみの別居隠居にかわっている。そして旧上ゲ浜塩田地帯でも、末子相続や隠居分家がかなり存在している。次にこれ らの旧上ゲ浜塩田地帯には、海藻採取の慣行をつづけているところが少なくな い。今日では畑の肥料として用いており、夏一斉に海に出て刈り、乾して畑に入れる。しかし島によっては、地先海面だけでなく、遠方へまで海藻採取に出る村がある。それらの島は、因島重井や佐木島・伊予中島・周防大島東部をはじめ、かなり広範囲にわたっている。佐木島のごときは、東西 40km 以上の範囲の海藻をとっている。その慣行の起原をあきらかにすることはできないが、藻塩を焼くための藻の採取に起因するものであるとすれば、重要な問題を含んでいることになる。が、これを追及することは困難である。そのほかでは、これらの土地では本家すじにあたる家々の屋敷の面積がほぼ一定している。それはまた各戸の土地所有面積が比較的平均していることと表裏をなすものである。

 このように海人のはやく定住したと思われるものには、製塩を契機にしたものの多かったことがわかるが、中世末、豊臣秀吉の海賊禁止によって陸上りしたと見られるものは、必ずしも製塩をおこなわなかった。広島大崎下島や下蒲刈島など、この範疇に入る。これらの島の島民は海賊禁圧と小早川氏没落によって、島をすてるか漁業をやめるよりほかに方法がなくなり、漁業をやめて陸上りしたものが多かったと見える。大崎下島沖友の18 世紀初の検地帳を見ると、1戸当 り所有高が 5 斗から 2 石までのものが 81%をしめている。これを面積にな おすと 1 反から 4 反程度ということになる。 また下蒲刈島の場合は、宝永 2 年(1705)に 1戸当り3 反以下の農家 が80%をしめしている。これはそこの土地がせまいためではなく、開墾する余地はありつつ、それをおこなう意欲にかけていたからであろう。つまり漁民の 製塩を目的としないで陸上りした場合には、依然として農業には魅力を感ぜず、多くは船大工、帆船乗りなどに転じている。しかし陸上りがおくれていただけに、末子相続制はなおつよく持続していたものと見えて、下蒲刈島や大崎下島や大三島には、他の農業部落に比して多くのこっている。

 大崎下島の大長のごときは、この末子相続制が、後にこの島の渡りづくりを促進する力にもなった。大長は明治時代までは 1戸当りの耕地面積は少なかった。1つには長子を別家させる風のあった事が原因する。親は 2 ・3男をやしなうだけの財産を手もとにのこして、長男を出す。耕地の広い家を除いては、分家したとき与えられただけの土地では生計がたてられない。そこであらたに土地を求めなければならぬ。それが明治末この島で蜜柑を栽培するようになり、それが畑作物中もっとも有利である ことに気付くと、島民は島外に土地を求めて開墾し、蜜柑を植付けるようになった。
 船を利用して耕作に出かけるのであるが、船の動力化にともなってこの傾向は特につよくなり、現在島内に300丁歩、島外に400丁歩を持つにいたった。これを 630 戸が耕作している。島外の耕地は広島・愛媛2県にまたがり、 20ケ町村におよんで、大体動力船航行 1 時間以内のところに分布している。

 渡り作りは、ひとり大長のみの特色ではなく、海藻採取のために遠方へ出かける所にはそれが見られ、豊島・大三島・佐木島・閃島重井などは特に盛んである。そういうところでは、専業漁民の姿はほとんど見かけなくなっているけれど、家族制度や土地所有慣行の中に、最初から農民や武士の定住したものとは違った要素が見られる。また整形均分開墾のおこなわれたような島では、分家の仕方が 複雑になる。多分そのはじめは一人の所有地であったと思われるものが、細分化 されてゆくが、表面はもとのままの単位形式をとる。この単位になるものを、組または株、株内などと言っている。株の代表名儀者には、最初その株を持った者 の子孫がなるのが当然なはずであるが、途中交代も多かったと思われ、また株内の耕地だけで生計をたてる事ができなければ、他株の耕地を購入することもなされる。19世紀初頃までの土地所有状況を、名寄帳などによって見ると、その錯綜しているさまがよく分る。その上、分家しても土地を与えられない者、 所有地を売ってしまう者もできる。

 耕地・屋敷を持たない者を、萩藩では「門男,亡土 、無縁」などとよび、広島蒲では「小家・浮過」といっている。モウトの語は塩飽諸島にもあって、「毛人」と書いている。こうした株または組制度が藩政時代に存在し、それが明治まで残存した所は、私の調査した範囲では、祝島・八島・柱島(以上 山口県)、忽那諸島(愛媛県)、大崎下島(広島県)、塩飽諸島(香川県)などがある。こまかに調べてゆけば、さらに多くの実例をあげることができるであろう。しかもこのように土地所有を複雑にしていった大きい原因は、その初めに均分所有や割替制度のあったことで、原則的にはこれをくずすまいとしつつ、内容においては再分化せざるを得ない事情のあったことである。と同時に、農以外の職業一水夫・大工・石工・行商などがひろく存在し、農地にたよらなくても生計をたてる方途のあったことが、人口を増加せしめて零細所有者を増大し、かつ所有関係の複雑さに拍車をかけていったとも言える。

 以上は漁民が陸上りし農耕をおこなうにいたったものの姿である。彼らは陸上りして農耕を主業にしてゆきつつ、島の周囲の漁業権を持っている場合が多い。最初から農耕をおこなっている場合には、漁業権を持っていないのが普通である。だから家々が海岸にならんでいても、漁村とは限らないのである。しかし中には佐木島のように、漁民の陸上りしたものと思われつつ、漁業権を持っていない島 もある。これは宗教的な意味から領主が殺生を禁断した事に起因する。だから採藻だけは残してあって、今日にいたっている。そしてそれが島周辺だけでなく、島外にもおよんでいる。

 小豆島や塩飽諸島では、早く陸上りして製塩・農耕に したがい、さらに航海業に従事するものを多数出して、漁撈とは絶縁に近い形を とりつつ、漁業権だけは持っている。これは水夫役をつとめた代償として与えられたとも見られるのであるが、同時に、それ以前に漁撈をおこなっていた事を物語るものであろう。しかし彼らが漁業をおこなわなくなっていることによって、他から新しく漁民の入漁があり、また定住がはじまって来る。それら新来の漁民には、能地の手繰漁師、二窓の延縄漁師の系統のものが多かった。また岡山県下津井のように、すぐ眼のまえに好漁場をひかえていても、そこが塩飽諸島の漁場であるということによって、一々入漁料を支払って入漁しなければならない漁村も生じて来る。
 それは下津井漁村か塩飽漁民の定住よりもおくれていることを意味するものであろう。こうして古い漁民群が漁業をやめたとしても、なお漁業権は彼らの手中にあった。愛媛県の旧松山藩領と広島の広島藩領の島々は、前者は中世にあっては村上氏、後者は小早川氏の勢力のあったところであり、同時に漂泊漁民の多かった所であるが、前者は河野氏減亡のため村上氏 の転出、ひいては漁民は逃亡するか陸上りし、後者も秀吉の海賊禁圧や、毛利氏が関ガ原戦役にやぶれて防長に移転してから、漁民もまた移動定住したことについては前に述べた。元来古い漁浦は、藩主の参覲交代や藩政府の海上交通の水夫をつとめることによって、漁浦の地先および沖合の漁業権をみとめられることになり、そうした浦々を舸子浦とよんだが、松山・広島には前記のような事情から、はっきりした舸子浦の制度をもたなかった。
 広島藩では漁民定住が久しく、また居住移動のすくない広島湾内の江波・淵崎・向洋・呉・吉浦・瀬戸などを舸子浦とよび、また藩の海上交通の水夫役をつとめてはいる。しかしそれ以外の浦々では、水夫役をつとめる者のために水夫米を貢納することにし松山藩領では島の住民が交代して水夫役をつとめることにしたから、特定の舸子浦はなく、広島藩の場合は漁場を大きく区劃して漁民の共同出漁をみとめ、松山藩預では島の周辺をその島の漁場にする制度をとっている。このような漁業権は、慣行漁業権として、昭和23年まで、海上に生き、漁業に生きる人々の生活を支配したのである。彼らが生きぬくための生活権はこのようにしてひきつがれていった。(了)



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