佐伯市鶴見のえびす様 




佐伯市公設水産地方卸売市場鶴見市場内のえびす像 
 
この「えびす像」は、皇太子 同妃殿下の行啓を仰ぎ開催された第一回全国豊魚祭を記念して有志のご芳志により海の町のシンボルとして大漁を そして海上の安全を祈念して建立したものである

   昭和五十六年九月二十九日
        




えびす祭り(鶴見町史) 

 旧暦3月10日、桜の咲くころ沖松浦二又の恵比須様のお祭りをする。佐伯より宮司を招き神事をして、豊漁と海上安全を祈願する。その後地区の人が御馳走を持って御籠りをし、夕方各家庭に御幣とお供えを配って盛大な恵比須祭を終わる。この日、吹浦の金毘羅講の人々も重箱に煮付けなど詰めて、祠の前に集まりお籠もりをしていた。


 えびす様
 
 町内各所に祭られており、各所とも1月・3月・9月にそれぞれお祭りをしている。特に正月10日は10日えびす(初えびす)と言って賑わう。沖松浦では3月10日を大えびすと言ってえびす祭りをしている。祭日以外でも新しい漁船が進水したり、豊漁の御礼や不漁のマンナオシとかで、お祭りは絶えない。吹浦泊のえびす様の祠は元禄五年(1692)9月建立で文化財的存在であり、現在も御神酒の絶えたことはない。
大島では、昔から島は七浦七えびすと言われてきたが、現在は小間島と二か所しかその面影は留めておらず、あとは不明である。
 漁師の家では漁の神様として祭られている家が多い。大正から昭和の初期にかけて、えびすさんまわしという人たちが門前を歩いていた。この人たちは正月から春にかけて、えびす様を持って、服装は袴の裾を絞り、頭はえびすさんの帽子をかぶって家々を回った。
 「舞い込んだ、舞い込んだ、えびすさんが舞い込んだ。生まれつきから漁師が好きで、沖を眺めりゃ大鯛小鯛がチンコシャンコと跳ね回る。これを釣らんとお船を漕ぎ出した。金の釣り竿・錦の糸にゆうべ生まれたエビの子さして、沖は大漁・おか満作で飲めや大黒、歌えよ恵比須、弁天様のお酌にて、ああめでたいな、めでたいな。」子どもたちはその身振り。手振りの面白さに後をついて歩いた。こうしたえびすまわしも昭和の初期で姿を消してしまった。
 漁師の間では、漁網を海に入れた時の目印となる浮子(うき)などをエビスアバと呼んでいる。また漁師が糸を垂れる時など豊漁を願って「えびす」と唱えたりする。

えびす様の信仰が今日のように全国に広まったのは、室町時代以降、西宮の散所村(現在の西宮市散所町)に住んでいた人形遣い達が人形操りをし、えびす様の神徳を全国に広めた事が大きな要因の一つだと考えられている。この人形遣い達は江戸時代になると、西宮を離れ、淡路島に移って行き、現在は国の重要無形文化財の人形浄瑠璃や大阪の文楽になったと言われている。西宮えびす成二十三年新春号 平成二十二年十二月一日発行



   
  沖松浦漁港  


沖松浦の神社

 鶴見町史 981ページ 第五編 第一章 神社

 沖松浦二又の恵比須神社

 沖松浦二又の半島がちょうど二つに分かれた付け根の小高い丘にあり、33段の階段を登りコンクリートの細い道を登っていくと、右手に凝灰岩製の五輪塔が三基分バラバラになって置かれている。拝殿左には胸高直径60センチメートル、高さ約25メートルの大きなヤマザクラがある。拝殿の入り口中央には大きな鈴が掛けられており、その右横に鰐口が下げられている。本殿には、木製の恵比須像が祭られている。
 二又は松浦地区の中でも古くから漁業の行われてきた所である。先人たちが豊漁の神を祭り、海上安全祈願のために恵比須様の本社である兵庫県の西宮本殿より御神託をうけ、この地に祭ったと言われている。
 創建は不詳であるが、古くから伝わる鰐口に「宝永3年(1706)7月、清家伝兵衛寄進」の文字が刻されている。

 祭神 事代主命
 絵馬 天井絵七二枚 絵馬二四枚
 祭日 毎年桜の開花ごろにエビス祭りを行っている。


 
沖松浦二又のえびす様  



 沖松浦野崎のえびす様 (ヤナギさん) 

 沖松浦野崎の先端に位置し、道はない。海岸の岩場を通って行かなければならないため、海岸の岩には所々にロープがはられている。満潮時には行くのが困難になることもある。海岸から細い山道を登っていくと、小さな祠が祭られている。
 八代目佐伯藩主毛利高標公のとき、佐伯藩の豊漁と海上安全祈願のために献納されたという。「佐伯藩御用日記」によると、朝廷での祈祷に携わっていた柳沢大炊之介が豊漁祈願のため夷宮のお札を祭るよう申し渡したという。
 安永3年(1774)5月に創建された。祭神の贈り主柳沢の姓を末永く称える意味で柳さんと呼ばれている。地元の漁師の信仰は厚く、毎月のお参りは欠かさない。


 野崎鼻のヤナギ様(お堂内に掲示の案内文)
 佐伯藩主の毛利さんは禄高わずかに二万石に過ぎませんでしたが、佐伯の殿様浦で持つと言われるように、浦辺の漁師達から納められる物納で財政は非常に豊かでした。当時の百姓達からは年貢米を取り立てていましたが、浦辺の漁師には運上銀(税金)として網一統に対し年額六百五十目を割り当てていましたので、網元はその代わりに十六貫(六〇キロ)入り干鰯(肥料)八〇俵を上納していました。佐伯藩ではこれを阪神地方に売りさばきましたので、十数万石の殿様ほどに裕福でした。中でも八代目の毛利高標公は非常な名君で、文学者で大実業家でもありました。そのため、佐伯藩はいろいろな産業が急速に発展していきました。
 安永三年(一七七四)五月に江戸徳川の家老職柳沢大炊介より佐伯藩の豊漁と海上安全の守護神にと、えびす像九体の献納を受けました。
 高標公はこれを広く藩内の浦々の然も船の往来の激しい鼻ばなに安置しました。
浪太岬(上浦)日向泊(大入島)四浦崎(保戸島)千怒崎(津久見)曳崎(米水津)堺崎(畑の浦)名護屋崎(九市尾)に鶴見町の野崎鼻と宇戸崎の九か所と依然より祀られていた竹ヶ島の一体を併せて十浦えびすと唱えて毎年春夏の二回殿様から酒樽を戴いて、賑やかな祭礼が行われてきました。
その為か漁業は益々盛んになりました。
 大正八年、当時の沖松浦総代広津留吉三郎が、各網元に計って御堂の新築を提唱し進んで世話人を志し、四方の人々にその意を告げて寄付金を仰ぎました。
 二又の網元清家金蔵より野崎鼻の土地三十坪の寄贈を受けて立派なお堂を完成させました。此れを期に毎月一日と十五日を礼拝日と定め、御堂の中で豊漁祈願の祭礼を続けてきました。その後四十数年の星霜を経て、御堂の方もひどく損傷してきました。これを見かねた地元の老人たちが一念発起して御堂の改築に取り組んで昭和三十七年、現代のブロック造りを完成させました。
 過ぎし歴史と共に二百余年間、地元の人々は祭神の贈り主である柳沢の姓を末永く称える意味で御堂のことをヤナギサワさんと呼ぶようになり、今でも豊漁と海上安全を祈り続けているのです。
      文化財調査委員 広津留


「佐伯藩御用日記」が紹介する柳沢大炊助は「禁裏御祈祷ヲも相勤」める人物で、江戸幕府の家老職とはなっていない。恐らく柳沢という姓から幕府老中柳沢美濃守吉保にすり替わったものと考えられる。(鶴見町史)

 祭神 恵比須像
(*えびす像はありません)
 祭日 毎月旧暦の15日を拝礼日と定め、海上安全と豊漁祈願を続けている。


 
沖松浦・野崎のえびす様(ヤナギ様)  


 浦々の漁業と干鰯 (鶴見町史 第四節 漁業と生活)

 我々の食卓を賑わす魚は、海流・水温などの条件で獲れたり獲れなかったりすることは、昔も今も変わらない。漁業に携わる人々の生活も豊漁・不漁によって大きく左右されることも同じである。
 不漁が続けば飯米に事欠き、運上も上納できなくなる。そこで、漁民はもとより藩主催の漁祭り・有漁祭が実施されることになる。このことについては、「有漁祈願と拾社蛭子」の項で述べる。
飯米については「飯米拝借と唐芋生産」の項で述べた(下記参照)。本項では浦々で行われた漁業・漁事と干鰯に焦点をあわせて述べてみたい。
 まず、不漁と運上の関係から述べてみよう。
 「佐伯藩御用日記」宝永二年(一七〇五)一一月七日条に、網運上は不漁につき、お定めの運上は去年の状況を調査して、妥当な額を決め、一部は免除する。去年は全般に漁もあったので、豊漁の浦は運上を増し、所によっては前年通りとしたところもある。今年は漁事の模様により運上を決定するとみえる。同月三日条には、去年は不漁につき網運上は用捨されたが、今年は漁事があったので増税を命じるのが妥当であると見える。



飯米拝借と唐芋生産    藩庁から夫食麦の給付 



 有漁祈願と拾社蛭子

 漁業の漁・不漁に天気が深く関係していることは古くから知られていた。日照りが続けば漁は減り、雨天が続いても漁は減る。そこで漁民は魚を引き寄せるために魚付林を大切にし、藩も保護してきたのである。
しかし、現代科学でも解明されていない潮流や水温の変化など知る由もなかった江戸時代の漁民は、神への豊漁祈願に頼るしかなかった。
 元禄十三年(一七〇〇)、保戸島の漁民が大島のうちの水の子島に「ゑびす」を建てたのも、その一例である。建てた理由について保戸島肝煎清助は、水の子島で漁をするので、去年春に建てたもので、別に意図があったわけではないと弁明した。ところが「ゑびす」には寛文十三年(延宝元・一六七三)と刻まれていたことが指摘されたが、双方の申し分に取り立てて問題にすることもなかったので、清助から入念な証文を取り、「ゑびす」はそのままにしておくように裁決された。
 宝永五年(一七〇八)四月十七日条、浦々は現在まで漁がなかった。先年も、漁祭を命じられた大日寺が浦々を回って祈祷した。今年はどこに祈祷を申し付けようかということになり、戸穴村の大宮八幡宮宮司権之進に漁祭を申し付けるように決定した。翌十八日、権之進への依頼が会所でなされ、明後二〇日から実施されることになった。しかしどのような規模と内容であったかの記録はない。
 正徳元年(一七一一)八月二十九日条によると、沖にイワシの群れが見えるが、陸地に寄ってこないので漁にならない。そこで「漁祭」を実施してほしいと願ったところ認められ、臼坪大明神で神楽を奉納することになったという。同三年四月二十三日条によると、最近、浦方の漁がないので、「漁祭」祈祷が実施されることになり、二十五日に臼坪大明神で神楽を奉納するよう命じられた。藩から御供米一俵と御初穂銀一枚が奉納されたほか、社人宮内と惣社人へ各々銀一枚が下賜されている。
 享保八年(一七二三)七月も浦々は不漁であったので、臼坪大明神で漁祭祈祷を実施することになった。神意をお神籤によって伺ったところ、三種の御祓いと二千度の御御籤を引くようにお告げがあった。神主播磨は二十一日の御願成就を書き付けにして提出している。
 翌九年五月四日の漁祭りは旱魃との関係がよく示されている。不漁に困った浦々は藩に内緒で立願祈念を行っていたが、いまだに漁がない。そこで浦々はもちろん両町酒屋諸商人が協議して漁祭を実施したいと願い出た。当時、浦方に木付(杵築)の放歌(放下師=大道芸人)が来ていたので、戸穴村大宮八幡宮の御旅所で来る十二日に踊りを実施させたいというのである。五月四日は大明神への雨乞い祈祷を申し合わせた日でもある。惣庄屋茂右ヱ門・両町年寄・浦方庄屋・肝煎が連名で申し出た願いは了承された。なお前日の十一日には郡代・目付・浦奉行が八幡宮御旅所に出向いている。
 享保十三年八月二十日の漁祭も同年六月十三日の雨乞いとの関係が考えられる。この場合は八嶋権現での祈祷で、藩から御神酒が奉納されている。八嶋は現佐伯市鶴見八島のことと思われる。 以上のような神社等での漁祭は安永三年(一七七四)からまったく違ったものに変わった。同年五月十三日条によると、朝廷での祈祷を勤めている柳沢大炊之介という人物が、漁祭は社人や山伏に頼んで御祓いなどする必要はない。夷宮の札を四浦・上浦・中浦に各二枚、米水津浦・入津浦・蒲江浦に各一枚配布し、各浦の島あるいは地方でも向き寄りのよい所に、沖に向かって小さな箱を造って札を納めて夷宮を勧請し、三月二十日・五月二十日・七月二十日に浦人が参詣して祭るようにせよと役人を通じて申し渡し、ずいぶんと信仰するように伝えている。
 夷宮を勧請した場所は五月二十三日、次のように報告された。上浦は浅海井浦浪太崎と日向泊浦一ツ組、四浦は深良津鼻と千怒崎ウニ嶋(現在の聖島)、下浦は色利のうち白浦えびす岩、入津浦組のうち造網代、下浦組のうち名護屋崎、中浦は野崎鼻と宇戸島となっている。
 しかし、蛭子信仰だけでは不安だったのか、文政三年(一八二〇)二月十九日には盛大な有漁祭が実施されることになった。藩は両町に酒一挺、八嶋に九挺を支給することとした。それには両町・上浦・中浦・嶋の地方の役人はもちろん、網持ち、船持ち、そのほか頭立つ者たちが寄り集まり、賑々しくすることという条件付きであった。祈祷に参加する社人・山伏たちは賄い付きで、浦方が交替して賄いに当たった。さらに四浦に三挺、米水津浦組三挺、入津浦組三挺、蒲江浦組三挺が各蛭子の祭り用に支給されている。派遣される社人は各所一人の四人となっており、賄い付きであった。
 このほか、「御漁祭り御入用」として三〇匁九分が支出されている。このうち一二匁九分は一か所、二匁一分五厘の六ケ所分の御初穂となっている。六ケ所は八嶋、竹の嶋、津久見浦赤崎、米水津白浦、入津洲崎、蒲江屋形嶋の蛭子である。続いて一五匁は五か所分の祈祷料となっているが、竹の嶋・赤崎・洲崎・白浦しか示されていない。残る三匁は八嶋龍王での祈祷料で、般若院に納められている。一九日は天気の都合で延期されたらしく、二〇日の条によると、明二一日八嶋で有漁祭が実施されるので、両町の者たちが八嶋に渡る旨、番頭に報告されたという。 翌四年二月九日、藩は浦々役人・網持ち・船持ちたちを会所に呼び出し、「浦々拾か所蛭子」での有漁祭実施を命じるとともに、それぞれに酒を支給するのでずいぶんと賑々しく実施するよう申し渡している。惣庄屋平右衛門は有漁祭実施を請ける御礼を申し上げている。酒は上浦・嶋ノ地・四浦・津久見浦・米水津浦・入津浦組・蒲江浦組・大嶋各一挺と中浦二挺の計一〇挺となっている。同年八月一四日、浦々役人たちを会所に呼び出し、浦々一統不漁につき有漁祈祷として「魚鱗供養」を実施するよう命じた。供養を担当する寺は、上浦・中浦・嶋ノ地は大日寺が、下浦三組・四浦・津久見浦は養賢寺末寺となっている。「魚鱗供養」は今回が初めてで、一般庶民にも好感を持って迎えられた。
 天保五年(一八三四)五月二七日条によると、近年どこも沖合の模様は良いが、魚の引き留まりがないらしいので、有漁祭用として浦々へ酒を支給するので、浦々で勝手に賑々しく大漁を願うよう浦役人たちに会所で申し渡している。酒は三斗五升入りの樽で合計一五挺支給されている。
 翌天保六年七月九日にも、浦々拾か所蛭子での有漁祭を賑々しく、しかも大漁を願うように申し渡され、酒樽一〇挺が支給されている。同八年三月二二日も酒樽九挺一斗が支給されている。同年六月二三日の有漁祭は通例の「拾か所蛭子」での祈祷に支給される酒九挺と一斗樽のほか、惣浦中へ下される分として別途一二挺の計二二挺が支給されている。なお、惣浦中を対象とした酒支給は、文政一三年二月二六日、六月二五日、天保四年六月九日に酒樽一五挺が支給されたという。
 天保一一年(一八四〇)七月二七日条によれば、四月に有漁祭を実施したところ、沖合の状況はよく、魚の大群が確認されるようになったが、いまだに漁獲量は少ないという。そこで有漁祭を実施した浦々へ酒を下賜したところ、再び有漁祭を行えということかと浦奉行へ照会があり、浦奉行からその通りだと申し渡したという。この場合の有漁祭は浦々で行われているので、先の「蛭子宮」での有漁祭であることは確実である。
 嘉永二年(一八四九)三月二八日条によると、祈祷には社人を派遣し、酒を支給するので、有漁祭を賑やかに実施するようにとのことである。

鮪浦(しびうら)のえびす様

宇戸祭り
 中浦湾の東側、宇戸鼻から約四〇メートル北側に宇戸島がある。周囲二〇〇メートル程の小島であるが、好漁場として人々によく知られている。島の標高は三〇メートル程しかないが、島一面にウバメガシが繁茂している。昭和四〇年ごろまでは枝振りの良い海岸特有の大きな松があり、島の景観を良くしていたが、松食虫の被害により今はその姿がない。この島の山頂には三~四坪程の平地があり、その中程の祠にえびす様が祭られている。昔は御神体(柳沢大炊之介が献納したえびす像)があり、お参りする人が、その都度自分の家の方向にご神体の向きを変えていたので、度々悶着があったという。いつのころか御神体はなくなり代わりにエビスアバが祭られている。
 宇戸祭りがいつごろから始められたかは定かでないが、江戸時代中期にかなりの地引網があったので、そのころからではなかろうか。祭りは網方が廻り番で当番にあたり、宇戸島で神事の後、当番の網方の家で網代番のクジ引きをして、その後に祝宴を開いていた。
 昭和二十八年ごろになると、漁業従事者の不足により廃業する網方が多くなったため宇戸祭りは自然消滅した。その後、昭和六一年に地区漁業振興会の総会で宇戸祭りの再開が提案され、その年に地区漁民の一大祭りとして第一回宇戸祭りが開催された。当日はまず網方をはじめ関係者が宇戸島に渡り神事を行った後、地区内を全漁船が満艦飾に大漁旗を掲げ湾内パレードを行う。当番にあたった地区では子ども相撲やボート競走、魚のつかみ取り、その他いろいろな催しがあり、後に宴が開催される。昔は春と秋の氏神様の祭りには、沿道に店が並んで賑やかであったが、今は秋だけの祭りになりお神楽があるだけである。この宇戸祭りは中浦地区の最大のイベントとして地区民から喜ばれている。


 
   
     
 
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