飯米拝借と唐芋生産 | ||
鶴見町史 |
第二編 歴史と現代 第三章 近世社会 第三節 人々の生活と規制 四 飯米拝借と唐芋生産 朱印村中浦、つまり現本町(鶴見町)域は漁業中心で農業生産は極めて低いし、その基盤は畑が大半を占めていた。したがって、日々の食料にも事欠いたことは想像に難くない。これらを裏付けるものが史料中にみえる。「飯米拝借」である。 「佐伯藩御用日記」と「郡方町方御用日記」で実態を眺めてみよう。 元禄14年(1701)3月、沖松浦善右衛門・桑野浦喜右衛門両人で合計9帖の「おろし網」と、丹賀浦庄九郎の「鰯網」一帖を条件に飯米拝借を願い出て、一帖4石あて代銀5月6日立てにして合計40石を借りられることになっている。「おろし網」とは他の例から新調した網を初めて使用することの意で、鰯網や鯵網などのように目的別の網の呼称ではないようである。また、網一帖の運上銀も、180目、250目、270目、400目など差がみられるのは、おそらく網の使用目的が異なるためであると考えられる。この拝借の理由は記録されていないが、単なる飢えによる拝借ではなさそうである。 宝永2年(1705)2月1日条では、「浦の者共飢えに及び候間、御米拝借仕りたき旨」という理由での拝借願いであることが、冒頭に書かれている。この申請は浦奉行を通じてなされ、返済は磯請を取り差し上げるとの書付を提出している。各浦の拝借高をみると、吹浦8斗、桑之浦8斗、日野浦3石6斗、帆波浦5斗、鮪浦3石、羽出浦2石4斗、中越浦2石4斗、梶寄浦2石4斗、下梶寄浦4斗、大嶋6石、丹賀浦8斗、地松浦4斗、沖松浦4斗とみえる。この拝借願いは石間浦など13浦とともになされている。 同3年12月14日条によると、浅海井浦肝煎仁兵衛と梶寄浦肝煎伊兵衛は、「網方百姓共越年兵糧」として浅海井浦16石、梶寄浦7石2斗の拝借を申請している。代銀は翌4年4月期限で上納したいとして拝借を認められている。 飯米拝借の理由としては、飢えや越年兵糧があげられているが、宝永6年2月26日条では、桑野浦網持三郎兵衛が今まで鰯網を片手廻し網で実施してきたが、今年は一帖で実施したいと述べたあと、「飯米差し詰まり候」という理由で米6石の拝借を願い出ている。返済は4月限りで上納するという。6石という米は宝永2年の大嶋と同じ料で、桑野浦8斗の7.5倍の料となり、6石の産出の基礎を飢えに求めるには疑問が残る数字である。 正徳元年(1711)12月11日にも、「浦々百姓共飯米ニ差し詰まり難儀に及んで」いるとして飯米拝借を願い出ている。返済は来年3月の蔵相場で代銀を上納するという。拝借を願った浦と料は、吹浦7石2斗、日野浦13石2斗、帆波浦5石6斗、鮪浦10石、羽出浦15石2斗、中越浦26石のほか合計16浦193石となっている。地松浦など残りの浦の状況は分からない。 同2月16日の条には、飯米に差し詰まった理由は「不漁」にあるとして、浦々百姓共網持共が飢えに及んでいるという。代銀は4月限り、蔵相場で上納するという。このとき、丹賀浦が10石を申請している。同3年12月の拝借申請には吹浦・沖松浦各8石がみえる。同5年12月21日の条は不漁を理由に拝借を願い出ているが、このときは27浦がみえ、本町域では日野浦10石、桑野浦3石2斗、梶寄浦3石6斗、丹賀浦5石2斗、地松浦5石2斗、沖松浦8石4斗、羽出浦10石がみえる。 享保4年(1719)9月の条によると、今までの「当年不漁故勝手差詰まり難儀仕候、御米拝借被仰付候・・・」という拝借から、「・・・・・飯米ニ差詰まり申候、御米拝借被仰付候…」とあるように買い上げを前面に打ち出してくる。同年12月21日条では、御米の拝借代銀は翌年2月10日限りの上納を約束している。この年の拝借は沖松浦2石、丹賀浦6石4斗、鮪浦4石、吹浦1石2斗のほか桑野浦が4石、大嶋勘次郎が8石の拝借を願い出た。 返済は翌年2月10日限りで、そのときの御蔵直段で上納すると庄屋・肝煎・頭百姓・地目付が連判して願い出ている。9日後の25日には、吹浦8斗、帆波浦2石5斗、中越浦6石の拝借がみえ、返済については前と同じである。 享保8年12月4日の拝借願いは、代銀は命令次第上納すると述べ、例年申請していることでもあるので、米100石は除外したいという。願い出た浦は29浦で、本町域は吹浦8斗、地松浦2石5斗、桑野浦2石、帆波浦4斗、鮪浦2石8斗、中越浦3石2斗、梶寄浦3石2斗、日野浦6石4斗、羽出浦12国、丹賀浦5石2斗、大嶋3石2斗となっている。最後に宝暦4年(1754)11月21日の例をみると、従来のように飯米差し詰まりなどの理由は述べず、ただ御米拝借を願っている。ただし、返済については命令次第上納すると約束している。日野浦10石、丹賀浦12石、梶寄浦8石、大嶋10石の拝借である。 以上、拝借の状況をみてきたが、拝借の有無や拝借料の差についての答えになるよう記事は見当たらない。これらは浦ごとの生産高や人口数によるものと考えられることから第5表(省略)を作成してみた。浦ごとの生産高は明治初年の『旧高旧領取調帳』まで時代が下がるので、人口との対比だけに留めた。しかし、拝借料の差がどういう理由で生ずるのかヒントは得られない。 次に、返済に当たっては御蔵相場によるとみえる。この相場については、正徳5年(1715)6月条に「蔵米直段諸方高直に候間、石別160目ニ相極め然るべき旨、何れも相談の上相定むるの由・・・」とみえ、8月7日には石別180目に決定されている。また、享保4年の9月の条には一石は四宝銀で170目とみえる。四宝銀は幕府が正徳元年から2年にかけて鋳造した丁銀及び豆板銀のことで、丁銀は目方約43匁、豆板銀は丁銀の補助的役割をもつもので、丁銀を適宜の量目に切って用いた。一升別に引き直すと1.6目、1.8目、1.7目ということになる。 次に、享保9年5月12日条にみえる両町米相場は、米一升代4分、大豆一升代3分5厘、大麦一升代1分5厘、小豆一升代4分となっている。以下、史料中にみえる相場をまとめると第6表(省略)のとおりとなる。宝暦2年正月を除けば4分代で安定している。 飯米拝借は本来飢えをしのぐのが立前であるが、本音の部分は越年兵糧あるいは網おろしや網子への手当などのためのものであったようにも思える。また、返済についても当初は磯請を取ってそれに当てていたものが、やがて銀による返納、さらに銀による購入と大きく変化していく様子が見て取れる。 以上を総合的にみると、庶民の生活は徐々にではあるが裕福になっていっているといえそうである。その背景には唐芋生産が考えられる。 享保19年(1734)の青木昆陽の試植に始まる我国の甘藷生産は急速に各地に普及していった。佐伯藩領内での栽培開始の時期は不明であるが、宝暦4年(1754)10月2日条には浅海井浦から唐芋を旅船に売りたいととの要望が出されたとみえる。藩は新粉糠5斗入り一俵につき一分九厘の運上という御定をもとに吟味して、10貫目入り一俵につき銀一分の運上をかけている。升目にして二斗五升、一斗につき400目が積算の基礎である。 以下「郡方町方御用日記」によって天保期以降の状況を抽出してみると、まず天保8年(1837)3月12日条に、「大嶋・丹賀浦の者共、当時必至と差しつかえ飢に及び候躰の者共これあり」と浦役人の嘆願があり、吟味の結果「夫食麦」を下し置くべきであると番頭に報告したとみえる。夫食とは農漁民の食料のことで、この場合は麦の支給が検討されており、従来の「飯米拝借」とは大部異なって来ていることになる。翌13日、会所に番頭・担当・目付・浦奉行・代官が揃い、両浦役人・頭百姓と惣庄屋吉野半大夫に対し夫食麦を下し置くと通告している。同24日には梶寄浦の極めて難渋の者たちに「御救」のため夫食麦を下賜している。同年7月5日には不作・不漁の難渋につき、翌6日には帆波浦の難渋につき夫食麦の下し置きが番頭に進言され、6日には日野浦に、8日には帆波浦に「御救」のため下されている。17日には中越浦難渋者への夫食下し置きが進言され、」16日には御救として下賜されている。同年8月3日には羽出浦、同7日には吹浦への夫食麦下賜がなされている。 以上のように「御救」の名のもとに下し置かれた夫食麦は無償ではなく、代価を支払わなければならなかった。11月3日、帆波浦夫食麦の代金をめぐって「不埒の筋」があったとして、庄屋・浦役人・頭百姓が会所に呼び出され吟味を受けた。その結果、取り扱い方の「不埒の筋」が判明したとして、庄屋常五郎は揚屋(あがりや=牢座敷の一つ)に入牢させられた。5日には庄屋以下帆波浦役人たちの吟味が、惣庄屋吉野半大夫同席のもとなされている。 12月8日、揚屋入牢中の庄屋常五郎への判決が明9日に出され、地目付についても咎が科せられるはずであるから、庄屋・地目付の跡役を決定する運びとなった。庄屋には百姓専太郎が推薦されたが、地目付跡役は明日決定となった。 9日、藩は常五郎に対し、今秋帆波浦百姓たちに下された夫食麦代料の百姓方への渡し方が減少していること、上前をはねた分を自分用・村中用などに取り扱い、村算用向きは自分の料簡で配分したことは不埒至極として、役儀取り揚げの上追放が申し渡された。 一方、地目付平太郎は、庄屋の不正を見逃したのは役儀怠慢不行届きとして役儀取り揚げの上、三日間の町宿預け、皆合役の久部村浅五郎は年若で精通していないが不審に思ったならば直ちに申し出るべきところ、それを怠ったのは不行届きとして三日間の町宿預けとなった。あわせて当日、庄屋を命じられた専太郎に対して、万端入念廉直なる勤務に出精するよう番頭から申し渡しがなされている。加えて、地目付には定吉なる者が選ばれ、庄屋専太郎同様の出精が申し渡された。 安政期に入ると、安政元年(1854)3月22日梶寄浦の夫食麦下賜の進言、26日に下賜の決定、同28日丹賀浦75軒の難渋と夫食願、4月2日の下賜決定、4月15日に大嶋65軒の難渋と夫食願、18日の下賜決定がみえる。以後「郡方町方御用日記」中には夫食麦下し置きの記事は見えなくなる。やがて明治維新を迎えることになる。
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