藩庁から麦の給付―その事情と年代の考証― 

 
 

佐伯史談104-19(1976)  

 
 

賛助会員 安部弥右衛門  

 

 昔、藩政時代に私達の住む羽出浦(南海部郡鶴見町)が、しばしば旱魃や飢饉、疫病の流行に見舞われ、時に蕨(わらび)、葛(くず)の根まで掘りつくして食べ、疫病大流行の時には一家ほとんどが枕を並べて患い、三つの柩を同時に葬送したという痛ましいこともあり、家族の数も村の人口も甚だしく減ったことがあったという。そんな伝承も残っている。

 この羽出浦に保存している享保五年以降の庄屋古文書によって見れば、度々藩庁に米麦の貸し下げを願い出て、家々に分配して食べている記録が多い。これら貸し下げの米麦は、その翌年分割払いの方式で、代銀を返納しているようである。幸いにして飢饉のために多くの餓死者を出したというような哀話は残っていない。

 当鶴見半島は、地図を開けばすぐおわかりのように、九州の東端、豊後水道に突出した細長い半島であり、急傾斜の山が高くそびえ、平坦な広い耕地はほとんどない。この急な斜面をけずって、幅の狭い畑が雛壇のように海岸から山の峰まで積み重なった形になっており、耕土は浅く、その上砂礫質で、日照りが少し続けば、すぐ干害を被るという状態である。明和から天明にかけてあったような大干ばつが続くと、収穫皆無に近い年が度々あったようである。

 今年三月二三日、大分県図書館の赤嶺先生を講師に迎え、佐伯文化会館で古文書の研修会が開かれた。私も出席してお話を聞くことができたが、当日の研修資料として配られた古文書のコピーの中に羽出浦についてのものが加わっている。にわかに興味を覚えて読んでみると、「不漁につき難儀しているので、夫食麦(その日の食料としての麦)を給与する」というのである。私はすぐ赤嶺先生に「この古文書は私の村のことです」と申し上げたところ、先生は「そうですか。それは偶然でありました」とお答えくださった。

 その文書をまず掲げてみよう。

一 羽出浦百姓共打続不漁ニ付必至と差支及難儀候段相聞へ候ニ付夫食渡可被下置候哉ト伺書金兵衛ヘ差出候処伺通被下置候段江申聞候ニ付庄屋地目付頭百姓共当所ヘ呼出シ御郡代御目付御代官共列座書付ヲ以申渡書左之通

       

 家数四拾弐軒
    羽 出 浦
 一 麦 弐拾壱石八斗七升
     人数 弐百四拾三人 但日数三十日分
           一日壱人ニ付麦三合宛

 右者羽出村百姓共打続不漁ニ付必至ト差支及難儀候段右浦庄屋共御代官迄申出ニ付唐物方足軽差遣見分仕ラセ候処及飢候程之者共相見ヘ候趣相違無御座候旨別紙書付差出申候依之書面ノ通夫食麦可被下置候此段申上候以上

  二月廿三日
               並河 杢
               佐久間仲

(上の文書 読み下し)

 羽出浦(はいでうら)百姓共、打続く不漁につき、必至と差支え、難儀に及び候段相聞こえ候に付き、夫食(ふじき)麦下し置かる()()と伺い書を金兵衛へ差出し候処、伺いの通り下し置かれ候段江申し聞け候に付、庄屋・地目付(じめつけ)(かしら)百姓共当所へ呼び出し御郡代・御目付・御代官共列座、書付を以て申し渡し候。右伺い書申し渡し書、左の通り。

      (おぼえ)

 家数 四拾弐軒  羽 出 浦

  麦 弐拾壱石八斗七升

  人数 弐百四拾三人  但し 日数三十日分

         一日一人に付麦三合宛て

 右は羽出浦百姓共、打ち続く不漁に付必至と差支え難儀に及び候段、右浦庄屋共、御代官まで申し出で候に付、唐物方御足軽差し遣わし(けん)(ぶん)(つかまつ)らせ候処、飢えに及び候程の者共相見え候趣、相違御座なく候旨、別紙書付差出し申し候。

依って書面の通り夫食麦下しおかるべく候。此の段申し上げ候。

  二月廿二日     
    並河 杢   
    佐久間仲   


 私は不審に思った。そのころは風水害、干害、飢饉、疫病などが続いていたので、農作物凶作のため食料不足となれば、なるほどと思うけれども、「打ち続く不漁につき、必至と差支え難儀するから、夫食麦を与えよ」とあるので、了解に苦しんだ。

 もっとも漁業を唯一の職業とし、その収入によってようやく家族の生活を支えている漁民が、不漁ともなれば、食料を買う金に事欠き、ただちに生活に差し支えることは明らかである。

 その頃の佐伯湾の鰯漁は、獲っても獲っても尽きない文字通り無尽蔵であったが、それで、「佐伯の殿様、浦でもつ」と言われていたほどである。それなのに「打ち続く不漁」といえば、あるいは潮流異変で鰯が来遊しないためか、鰯の来遊はあるが天候不良が続き漁業ができないか、または悪疫の流行などで出漁不能が続いたためか、何かの原因があったのであろう。

 そしてこの文書(部分コピー)は佐伯藩の御用日記から抜いたと見えて、年代元号が書いてなく、僅かにこの文書のすぐ前に「辰二月」とあるのみである。

そこで年代確定のために、佐藤鶴谷先生の「佐伯志」と、増村隆也先生の「佐伯郷土史」下巻の中から、辰の年の前年卯の年の災害を拾ってみた。

 二十何回かあっている災害のうち、該当しそうなのは次の二つである。

〇明和八卯年夏干趣、田畑一万百三十二石余損毛。

〇天明三卯年より同八年迄大飢饉続き、餓死者多し。

これではどうにもならない。やはりこれはコピーした原本で年次を知るのが正確で、早道である。

 次に、羽出浦の家数、人数から、大体いつごろかを推定してみようと、羽出浦庄屋古文書から拾ってみた。

〇享保五年八月調 家数三〇軒 総人数 三三〇人

〇享保十二年二月調 家数三〇軒 総人数三一二人

〇寛保元年六月調 家数三〇軒 総人数三四七人

佐藤鶴谷著「佐伯志」によれば

〇文化七年三月調 家数六七軒 総人数三四七人

とあるので、これだけから「家数四十二軒の年次を求めると、寛保元年(一七四一)から文化七年(一八一〇)の間ということに想定される。どうも佐伯藩八代毛利高標(たかすえ)公の代らしく考えられる。

 ところで総人数から見ると前記の四例にくらべて、二百四十三人は著しく 少ない。何故であろうか。猛烈な疫病の流行で、その犠牲となっての減少であろうか。それにしては人口減少の率がひどすぎる。
 その頃、辰の年であったのは、宝暦十年、明和九年、天明四年、寛政八年で、その中の明和九年または天明四年の頃が、もっとも食料に困窮した時期ではなかったか。
 またこの時代は、庶民ばかりでなく、藩公までも神仏に祈っていた。それで私は、部落内のあちこちに散在する蛭子(えびす)様や、お地蔵様などを調べてみた。蛭子様の方は、その大部分が祠が壊れて改修したものが多く、奉祭年次も記されていない。地蔵様の方は次のように字が刻まれていた。

 地下のお地蔵様

     (左側面)  天明五巳年建之

     (正面)   一切衆生平等利益

     (右側面)  当浦 願□□

 作網代のお地蔵様

     (左側面)  安永四年未

     (正面)   継祖父志

     (右側面)  作網代講中

             木屋宇三蔵

 以上探求の結果から考えれば、羽出浦の漁民が、藩庁から夫食麦の給付を受けた年号は、安永二辰年か、または天明四辰年の何れかであろうが、軽率に決めるわけにはいかない。また「打ち続く不漁」の原因が、長期にわたる潮流異変か、天候不良が続いたためか、その他の事情によるものか、これを調べる史料も方法も今のところ見つからない。また古文書について検討したいこともあるが、今回はこのくらいに止めておきたい。(おわり)


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