狩猟と漁撈 |
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海に生きる人々 宮本常一 |
日本は島であるために内陸に棲む野獣類にはおのずから限界があって、野獣を追うてあるく者の数もまたおのずから限界があった。なぜなら、野獣が減ってくれば狩猟民は狩猟をするだけでは生活を立てることができなくなる。そして狩猟民社会は次第に解体せざるを得なかったのであるが、漁撈の方は海岸づたい島づたいに行けばそこに海がある限りは魚介を取って生活をたてることができる。 現代日本につながるもっとも古い文化は一応、縄文文化と見て差し支えないと思うが、縄文時代の生活者の中には海岸近くに住んだものが多かったことは、今日残されている貝塚の数からも推定せられる。もとより人は海岸のみに住んだものではなかったが、遺跡の分布などから見て海岸地方に集落の多かった事実をみとめなければならない。 ではこれら海岸居住民は、海岸づたいに移動していったものであろうか。この疑問にやや回答を与えてくれるのは九州における曽畑式土器の分布である。細型刻文または細直線文土器といわれるもので、灰黒色か黄褐色をした尖底か丸底の土器で、熊本県宇土郡曽畑貝塚からその典型的なものが発掘されたことから名づけられたものであるが、この型の土器は実は九州の西海岸にひろく分布し、南は屋久島にまで及んでいるが、九州山脈の東側にはほとんど分布していないのである。 ところがこれに似た土器は朝鮮半島にも分布している。櫛目文土器とよばれるもので、土器面に平行単線列や綾杉文が見られる。この土器は朝鮮半島各地に分布しているが、海岸か大河川のほとりにあり、貝塚をともなっている。そして貝ばかりでなく釣針や銛も出土しているものがあるから、海または川からの獲物を主要な食料として生活を立てていたことがわかる。そうした生活様式を持った人々が、大陸から北九州に渡って来て、主としてその西海岸に生活の場を見つけていったと考える。 関東においても南部には撚糸文や無文土器が多く分布し、とくに撚糸文は最古のものとして認められ、文化は海岸から内陸に入って来たとも見られるが、ではこういう土器はどこから来たかという疑問がわく。撚糸文土器は東北地方にも分布するが、それには時代の下がったものが多い。そしてそれらは海路によって広がっていったとは簡単に考えられない。 また縄文時代には貝類のみをとって生活したとは考えられない。貝がもっとも得やすい食料だったから、自然その採取が最も多かっただろうけれども、食用になる植物の利用も多かったであろう。 ただ、一気に遠くへ移動することはなかったにしても、近い距離の間の回帰性移動や徐々に居住を移していったであろうことは考えられる。なぜなら貝塚はそれぞれある一時期そこにつくられていて、永続したものはない。小さいものになると数年を待たずして移動したのではないかと思われるものもあり、また大きいものでも二、三〇〇年をこえるようなことは少なかったのではなかろうか。そこに埋められている人骨などで想像せられるのである。仮に長く住みついているかに見えるものでも中絶して、また後から別の系統の人が来て住み着いた例が多かったようである。土器などの出土の層序によって様式の異なったものを見かける場合には、こうした例も少なくなかったと考えるのである。 さて、一定の場所に住みついたものが、やがて消えていってそのあとが続いていないというのは、単にどこかへ移動していったばかりでなく、一村死絶するようなことも少なくなかったと考える。つまり一つの部落の寿命にもおのずからなる限界があったようで、一つところにとどまって生活する集落が縄文式時代以来、継続しているものであることの立証せられた例がいくつあるであろうか。 ただ野獣をとって生活を立ててきた人々のうち、ごく一部をのこして大半は、その集団を解体し、後には村々の狩人として村人や村の生産物を害獣から守る役目を引き受けて、生きついでくるまでに、狩猟経済とは縁遠くなって来たのに対して、海の方は漁獲する魚の量が容易に減らず、漁具、漁船、漁法の改良によって、かえって大量の漁獲をあげるようになり、漁撈を専業にして生計を立てる者が、原始漁撈時代の次にあらわれて来ることになる。その展開過程をここには追うてみたいのである。
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