イワシ漁と海辺の暮らし |
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イワシとニシンの江戸時代 第一部 イワシから見た加賀藩 | ||
日本近海のイワシの産卵場は、関東沖、足摺沖、薩南沖、北九州沖、能登沖の五か所にあり、日本列島を軸として時計回りに主産卵場が移動し、豊・不漁を繰り返すとみられている。外房沖で捕獲される太平洋系群は天保から増加し元治年間に豊漁とピークとなる関係上、氷見地域を含めた日本海系群では減少期であり、全体的に不漁期であったと推定される。ただし全体的な傾向とは別に、局所的に豊漁となることもあったといえる。また、豊漁期よりも不漁期のほうが漁業期間の寒気は厳しく、そうした気候の変化と漁況との関連もみられる。 祈るという行為 豊漁に喜び、不漁に悲しむ、変動する漁況とともに人々の暮らしはあった。江戸時代の当時に比べれば、さまざまな科学技術の恩恵にあずかっている現代でもなお、漁業、とくに天然の魚介類を相手にしたものは、人間の思い通りにはならないところが多くあろう。現代よりも自然の動向に左右される性質の強い江戸時代の漁業ならばなおのことであろう。それでは不漁となってしまった場合、人々は、ただ座して状況が好転するのを待つだけであったろうか。そうではない。そこには祈るという行為がみられた。 打ち続く不漁にて、もはや浦方困窮に逼り、町方も不景気至極につき、蛭子祭りつかまつりたき旨あい願い候につき、すなわち聞き届け遣わし、今明日町中簾をおろし軒灯を出し、浜へ仮小屋を建て蛭子神を集めたてまつり、神主大勢呼び寄せ明日大祭、光禅寺・上日寺にても祈祷ござ候はずなり、(中略)四ツ頃帰宅、同時光禅寺へ参詣、七尾屋にて揃い申し候、大般若転読ござ候、もっとも上下着用し、組合頭も町々四人とも上下にて参詣つかまつり候 (弘化二年九月十七日条) 翌日の記事では、実施された蛭子祭りの様子が記されている。 五ツ半朝日観音堂にて、漁業祈祷の護摩供御執行ござ候につき、上下着け参詣、仲間ならびに組合頭一統、昨日同様、四ツ頃あい済み、その座にてすぐさま御神酒・供物等頂戴つかまつる、同時過ぎ北方仲間中組合頭は浜町の浜へ、北方蛭子神御遷座の小屋へ参詣つかまつり、帰り懸け会所へ立ち寄り休足つかまつり候、九ツ頃過ぎ南方仲間、河原町宮へ参詣つかまつり候ところ、御祈祷ござ候、もっとも朝日祭礼のみぎり御
出の蛭子大黒、同町浜へ小屋を立て錺りござ候につき、ついでに参詣つかまつり候 祈りが行われたのは、不漁の際ばかりではない。大漁の際にも行われた。 九ツ半頃常願寺へ仲間一統上下着け参詣つかまつり候、(中略)右法事は当春巳来近年覚え申さざる鰯大漁につき、供養として浦方五町より
あい頼み、町方東西庵までの仏事、今日中まで西方待夜より東方の勤めにござ候 春以来の近年にないイワシ大漁に対する供養のため、町内の常願寺にて法事が執り行われたのだという。人々にあっては、不漁や豊漁どちらか一方ではなく、漁業という営み全体において、神仏の存在が意味を持つものととらえられていたのだといえよう。
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