佐伯市の宇目を歩く
 
酒利・河内・神田 

佐伯市宇目大字千束の交差点から県道53号線を進み、酒利(さかり)・河内・松河内・神田(じんだ)を訪ねた。


酒利山中の宝篋印塔(寛永四年建之)
総高164cm(基台から宝珠の先端)  
 
 
塔身正面の文字 
 
 
 
 
 
寛永十年銘の宝篋印塔もある 
この塔は、相輪を組み合わせると総高180センチになる 



現在の酒利付近

(県道53号線は大字千束から河内を経て本匠地区に進み、臼杵市野津に至る) 


酒 利 

酒利村 [現在の地名] 佐伯市宇目大字千束字酒利

千束村の北、酒利岳(753・2メートル)の南東麓に位置。「栂牟礼実録」によれば、大永七年(1527)佐伯惟治が大友氏に反して討たれたが、このとき宇目酒利村を領有していた惟治属将の森嶽周防守は惟治を裏切ったという。
享禄元年(1528)11月23日、大友義鑑は惟治退治での恩賞として一万田与十郎に「宇目村内拾五貫分さかりの内」の畠中・して・をしも・へんさし分と光蓮寺を含む一町三反半二〇歩を与えている(「大友義鑑宛行状写」一万田文書)。
 『日本歴史地名大系』(平凡社)


酒利代官所跡 
 

宇目郷代官 深田家の歴史 (宇目町誌より)

 天正14、5年の島津軍の豊後侵入で、豊後・日向の堺目、宇目郷内各地の戦いで、宇目七人衆は討死、四散し、宇目郷は中川氏が入部時、渡辺・深田両氏の勢力圏となっていた。
この時、渡辺・深田両氏は、いち早く竹田におもむき中川氏に恭順の意を表した。中川氏はこれに対して、深田氏を宇目郷支配役、渡辺氏を割元役(年貢割当役)に任命した。その後、関ケ原の戦いの余波で、臼杵城を攻撃する羽目になった中川氏は、勢力不足のため領内の郷士(地侍)に地下人(家来)を召し連れて参陣するよう命じた。従った郷士は、宇目郷の深田弾右衛門父子が自分鉄砲30挺、役鉄砲250挺、割元役の渡辺父子は100人の地下人を引き連れ参陣している。(御年譜では)深田弾右衛門忠豊、養子新三郎忠親が、御先手として三重通り有智山を越え臼杵で働く様子が記載されている。


     
  深田弾右門忠豊墓     
  寛文二壬寅(1662)年十二月十一日 考嗣内蔵丞立焉   



深田伯耆守の墓  (「大分県郷土伝説並びに民謡」 大分県教育会編 昭和6年6月19日発行より)

 切畑村(現在の佐伯市弥生切畑地区)字深田部落に、佐伯惟治の士臣なる深田伯耆守の墓あり。此の深田部落の内久保ノ平と称する字あり。(四五戸あり)皆深田姓を称ふ。老女の曰く、「明治の初め頃、宇目郷(大野郡)代官深田某来り。伯耆守のお祭りを年二回する様金若干を或家に與たり。(当時最も勢力あり資産家たりし由。)且宝刀を一振り授けて帰郷せりと言う。近くこの宝刀を授かりし家其の後不幸続きしにより、或る卜者より卜ひもらった所、其の宝刀のためならんと言う。依って惟治を埋めたる小手高山に持ち行きしと言う。明治の初年の間はお祭りもせしも其の家運盛んならず。ために之をなさず。故にか近所の家は之れがために栄えずと称し居れり。」とぞ。

     
  佐伯市弥生切畑深田地区の地図    
     
  佐伯市弥生切畑の深田地区    
     


(以下、宇目町史より)
大永七年(1527) 佐伯惟治、菊池義武に通じ謀反。深田忠実、野下孫左衛門、惟治無実の陳弁の使者として府中に赴き討たれる。惟治自刃後、大友義鑑、深田忠実の次男忠豊に宇目村を与える。酒利村領主 森嶽周防守、酒利村を深田忠豊に譲る。
慶長三年(1594) 中川秀成岡城主となり、宇目郷は岡藩となる
萬治元年(1658) 宇目領惣支配深田内蔵丞が宇目筋御境目〆のため酒利村居住にて宇目代官に任命される。




正覚山崇圓寺 
 
 
 崇圓寺境内の宝篋印塔
 
崇圓寺宝篋印塔

 この宝篋印塔は、宇目町では珍しく優雅な形をし、中央色豊かな塔である。総高250センチメートルで、下から基礎・台座・塔身・天蓋・相輪からなり、塔身の四方に金剛界の四仏の梵字が陰刻されているところであるが、残念ながらこの塔の塔身ではない。
もともとこの宝篋印塔は崇圓寺の川向にあったといわれる見徳寺内に有ったが、その後、崇圓寺の裏山に移し、さらに現在地に移したと伝えられている。その時に破損したのか、紛失したのか、いずれにしてもこの塔の塔身ではない。
この塔は、基礎に彫られている格狭間や、笠の隅飾突起などの作風からみると、南北朝末期の作に間違いない。崇圓寺の建立は、慶長六年(1601)深田弾右衛門忠豊の命により、正覚山崇圓寺秀翁大和尚が開山したとあるが、この時すでに見徳寺は無くなっていた。
               『ふるさとの文化財うめまち』 宇目町教育委員会編より

宝篋印塔 墓塔・供養塔などに使われる仏塔の一種である。五輪塔とともに、石造の遺品が多い



 崇圓寺の前の道をそのまま進むと、鋭角に右に曲がって、山中に入る道がある。松河内に通じる林道だが、山の尾根付近から右上に進む林道が分岐している。この分岐した林道に入ると、すぐ右横の低いところに「通山庚申塔」がある。この分岐した林道をそのまま進むと、熊野神社まで車で行くことができる。熊野神社の狛犬はユーモラスな表情が面白い。
 また、崇圓寺の前から左手の道をまっすぐ進む道は、「伏野越」の道である。峠の山中には法華塔や庚申塔などが立っている。
 山に入らず、右に曲がって集落の中の道を進むと、前方の「米の山」の山頂に小さな神社が見える。いわゆる山神社だが、以前は樹木に覆われていて山頂の神社はまったく見えなかった。山神社には
罔象女神 (水の神=明治の神仏分離までは龍神)も祀られている。
米の山の右下に古墳状の小山があり、ここに庚申塔があるが今は藪に覆われてしまっている。


 
通山の庚申塔群 
通山庚申塔

 この庚申塔は慶安二年(1649)に造立されたものである。材質は凝灰岩で、高さ150センチ、幅70センチと堂々たるものである。ここには外に凝灰岩のもの26基、自然石のもの6基がある。造立された年代も慶安・明暦・寛文・元禄など、時代が下がるにつれ多くなっている。
 庚申は十干十二支によって六十年あるいは六〇年(ではないかと思う?)ごとに廻ってくる庚申の夜に、特殊な禁忌を要求する信仰で、中国の道教に基づく信仰と仏教がからんだものといわれている。庚申の神は作の神であり、病魔厄除けの神であり、家内繁栄の神であった。そのため、土に生きる農民の身近な心のよりどころであった。それがためか道路の分岐、村々の境界、田の端、峠などにある。室町時代から、このような庚申板碑が現れ、江戸時代にはいろいろと意義付けられ、各種の形式の庚申塔が作られた。
宇目町教育委員会 
 


 
伏野越の法華塔と有年塔



 
「米の山」の頂きに小さな神社が見える    米の山の神社から集落を見下ろす 
 
 
米の山下の庚申塔は草藪に覆われていた 
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