千人間府と木浦女郎の墓 |
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道路の状態は良い | |||||||
木浦山千人間府 | |||||||
約3キロメートルほど進むと大切峠に至るが、その少し手前で右側に広場が見え、「千人間府」の標識がある。雑草に隠れている可能性もあるので注意して見る(この先は路面が悪いので、自動車はここに駐車する)。路面状態の悪い道を登り下りしながら300メートルほど進むと、前方に階段が見える。 | |||||||
路肩の右側が大きく壊れている。このままでは通行できなくなる恐れがある。 | |||||||
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木浦山千人間府
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木浦女郎の墓 | |||||||
千人間府の駐車場所に戻り、大切峠から女郎の墓を目ざして進む。大切峠を越えれば、道は下りになる。注意しながら進むと、ほどなく道の右側に「木浦女郎の墓」の標識が見える(字が消えかかっており、見えづらいので注意!)。 この道を進むと、道は左右に分かれるので左に進む。道路左側を注意しながら進むと、「木浦女郎の墓」の案内標識がある。なお、この道はそのまま進むと「天神原山」の登山口に至る(舗装道路の終点)。 | |||||||
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木浦女郎の墓 町指定史跡 大字木浦鉱山字大切 宇目町所有 バスの終点木浦鉱山から木浦~藤河内線を三キロ余り、時間にして一五分ほどで標高七五〇メートルの大切峠につき、この峠から一キロほど下った所の雑木林の中に石塚が二〇基ばかり散見される、これが女郎の墓である。墓は川石の一つを真中に立て、一メートル四方を同じような川石で囲んだ集石墓である。現在確認さているのは一七基である。 木浦山は鉱山の発達に伴い木浦内村より新しく成立した鉱山町である。ここは江戸時代中期に木浦町と呼ばれ、金具町、横町、梅木町、万屋町、船座町、仲町、上町、竹田町、長戸町、生木谷、下川、森下の一二に区分されている。 人口が最も多い元禄一二年(一六九九)には木浦・尾平(緒方町)の両山で五六八人であった。木浦・尾平とも同じ位の規模であったので、木浦山は三〇〇人足らずであったと思われる。また、山師数は江戸時代を通じて三五人前後とあり、これから推測すると小規模経営で家族労働を主体としたものであったことがわかる。 しかし、良鉱が発見されたとき、あるいは茸取りの時期には周辺の村々からの出稼ぎもあったと思われるので、こうした人の集まるときには、赤提灯や木賃宿が繁盛したであろうと思われる。こうした人の集まるところに「女郎」と呼ばれる人達がいたであろう。 これらの人々には小規模鉱山ゆえに生活は苦しく、一般的にテレビや映画で見る女郎とはイメージがまったく違い、極めて貧しい人達であった。したがって死去した時は葬式や埋葬など論外で、このような雑木林の中にうち捨てられるか廃坑に捨てられるかであった。 このように埋葬したところに申し訳程度に川石で簡単に墓碑らしきものを作っているものが多く、人間の末路としては極めて悲哀を感じるものがある。
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木浦ー藤河内林道を藤河内から木浦に向かって進んだ。この「木浦ー藤河内林道」の全体を「大峠」と呼ぶべきではないか。スケールの大きな峠道だ。なお、路上に大きな岩がいくつか落ちていたが、猪が山中の岩を掘り返して落としたのだろう。落石注意。 |