千人間府と木浦女郎の墓


 
 
   
唄げんかの湯」の先で左折する(藤河内渓谷に向かう道)   正蓮寺の前を通り、道なりに進む
 
 
 
道路の状態は良い 
 
木浦山千人間府
 
 約3キロメートルほど進むと大切峠に至るが、その少し手前で右側に広場が見え、「千人間府」の標識がある。雑草に隠れている可能性もあるので注意して見る(この先は路面が悪いので、自動車はここに駐車する)。路面状態の悪い道を登り下りしながら300メートルほど進むと、前方に階段が見える。
 
 
路肩の右側が大きく壊れている。このままでは通行できなくなる恐れがある。
 
 
階段を上がる   坑口と案内板
 

木浦山千人間府

 
町指定史跡 昭五三・八・一八指定
 大字木浦鉱山字大切
 三代 茂氏 所有

 千人間府とは木浦鉱山の大切坑のことで、木浦山で一番規模が大きく産出量も多かったことから付けられた総称である。
 木浦鉱山は鉱山の開発によって村が成立したのではなく、木浦内村の中に鉱山が発見されたために木浦内村には小庄屋、肝煎、村横目などの役人と、乙名、組頭、山目代、宗旨横目などの役人が別に置かれた特異な支配体系となっていた。

 木浦鉱山の開発起源については各種の説があるが、史実に表れるのは慶長三年(一六〇七)に鉛が産出されたことが記されている。また、江戸中期に記された鉱山開発のことを伝えた一子相伝書と言われる外財根元目録略記には「銀山の根元は豊後大野郡木浦山を始めとして・・・・」又「錫山の始めは豊後大野郡天神山を始めとして・・・・」とある。
 開発当初は露天掘に近い方法で採掘されていた。江戸時代になると岡藩中川氏の支配となり、藩は木浦鉱山奉行、両山調役、見計役等を置き、吹上錫・鉛の検査又は木浦内村などで産出する椎茸、木炭、楮の検査業務を兼職させていた。さらに、鉱山は農地が皆無であったので小野市組等から送られてくる米・大豆の管理、保管又運上金徴収の任に当たっていた。

 鉱山の経営方式は御手山方式、請山方式、直山方式が繰り返された。しかし、食糧の生産を伴わない鉱山では、米・大豆等の生活必需品の全てを藩よりの供給に頼らねばならなかったので、山師は山を見立てると開発にかかる一切の経費、いわゆる銀穀を藩から前借りし、生産された錫・鉛を藩の指定した商人に売却して前借を返済するという御手山方式がとられた。

 鉱山は藩にとっても有用金属入手の場であったが、経営は小規模で家内労働を機軸としていたので、山師が積もり積もった前借を産出した錫・鉛代で皆済した例は見当らない。むしろ山師が前借した銀穀を「捨り」(返済免除)又は「浮置年賦」(据置年払)の借置をとり、山師の経営を立ち直らせ生産の拡大を図った。
 ちなみに、宝暦二年(一七五二)から安永元年(一七七二)までの二〇年間の前借は、米六七〇〇石、大豆一二〇〇石、大麦一二〇石、銀一貫、銀札六貫であったが、藩はこれを返済免除にしている。
 前にも述べたが、小規模経営であるため山師数も元禄期(1688~)が最も多く五〇人程度で、その後は三〇人前後の小規模経営であったと推測される。つまり、山師およびその家族労働を主として細々と続けられていたことがわかる。
 こうした木浦山の中で開発された松木平、米原、姥山、茸ヶ迫、天狗平、田近山、天神山、桜山、尾越などがあるが、中でも大霧嶽の大切坑は一番規模が大きく産出量は木浦鉱山全体で最大の鋪であった。

宇目町教育委員会

 
坑口に土砂が堆積している(状態が悪化した)   これ以上進まないで、引き返した
 
木浦女郎の墓 
 
 千人間府の駐車場所に戻り、大切峠から女郎の墓を目ざして進む。大切峠を越えれば、道は下りになる。注意しながら進むと、ほどなく道の右側に「木浦女郎の墓」の標識が見える(字が消えかかっており、見えづらいので注意!)。 この道を進むと、道は左右に分かれるので左に進む。道路左側を注意しながら進むと、「木浦女郎の墓」の案内標識がある。なお、この道はそのまま進むと「天神原山」の登山口に至る(舗装道路の終点)。 
 
 
ここから右に進入する   標識の字が消えかかっているので注意!
 
 
 
木浦女郎の墓」の標識   女郎の墓と案内板
 
木浦女郎の墓 町指定史跡
 大字木浦鉱山字大切
 宇目町所有

 バスの終点木浦鉱山から木浦~藤河内線を三キロ余り、時間にして一五分ほどで標高七五〇メートルの大切峠につき、この峠から一キロほど下った所の雑木林の中に石塚が二〇基ばかり散見される、これが女郎の墓である。墓は川石の一つを真中に立て、一メートル四方を同じような川石で囲んだ集石墓である。現在確認さているのは一七基である。
 木浦山は鉱山の発達に伴い木浦内村より新しく成立した鉱山町である。ここは江戸時代中期に木浦町と呼ばれ、金具町、横町、梅木町、万屋町、船座町、仲町、上町、竹田町、長戸町、生木谷、下川、森下の一二に区分されている。
 人口が最も多い元禄一二年(一六九九)には木浦・尾平(緒方町)の両山で五六八人であった。木浦・尾平とも同じ位の規模であったので、木浦山は三〇〇人足らずであったと思われる。また、山師数は江戸時代を通じて三五人前後とあり、これから推測すると小規模経営で家族労働を主体としたものであったことがわかる。
 しかし、良鉱が発見されたとき、あるいは茸取りの時期には周辺の村々からの出稼ぎもあったと思われるので、こうした人の集まるときには、赤提灯や木賃宿が繁盛したであろうと思われる。こうした人の集まるところに「女郎」と呼ばれる人達がいたであろう。
 これらの人々には小規模鉱山ゆえに生活は苦しく、一般的にテレビや映画で見る女郎とはイメージがまったく違い、極めて貧しい人達であった。したがって死去した時は葬式や埋葬など論外で、このような雑木林の中にうち捨てられるか廃坑に捨てられるかであった。
 このように埋葬したところに申し訳程度に川石で簡単に墓碑らしきものを作っているものが多く、人間の末路としては極めて悲哀を感じるものがある。

宇目町教育委員会


   
  藤河内の天満社  

 木浦ー藤河内林道を藤河内から木浦に向かって進んだ。この「木浦ー藤河内林道」の全体を「大峠」と呼ぶべきではないか。スケールの大きな峠道だ。なお、路上に大きな岩がいくつか落ちていたが、猪が山中の岩を掘り返して落としたのだろう。落石注意。
     
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