宇目を歩く |
小野市・楢ノ木・釘戸・上津小野 |
小野市の八柱神社 | ||||||
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八柱神社 大字小野市字新徳寺 祭神 埴安命 保食命 倉稲魂命 金山彦命 金山姫命 蛭子命 軻遇槌命 伊弉冉命 但し、伊弉冉命、軻遇槌命は元宮上ノ園鎮座の愛宕社と称せし処、明治40年8月19日許可本社に合併。右、愛宕社創立年月不詳なるも境内に神木と称え一本の大杉あり、天明22寅年10月大風の為耕地中央に倒れ、翌卯年2月18日旧領主に乞い伐採致さんとせしに其の夜に突如立ち直りしと云う。明治25年7月28日大風の為右大杉倒る、依って伐採す。 由緒 人皇36代孝徳天皇の御宇国々に御勅旨を遣し賜う。然るに本郡重岡村にて宝算尽き給いければ其の霊を下爪八柱神社と奉し、文亀年中其の分霊を小野市村に祭る。明治6年村社に列せらる。
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長徳寺の宝篋印塔 | ||||||
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長徳寺の宝篋印塔 | ||||||
長徳寺宝篋印塔 宇目町大字小野市字上小野市 長徳寺所有 一般的な塔の形式と違い、基段が大きく重厚で、その上に基礎、基礎には格狭間が彫られ、そして連弁、その上には敷茄子があり、返花、塔身となっている。塔身には金剛界四仏の種字の梵字が鮮やかに陽刻されている。その上に天蓋があり、天蓋は階段状をしており、四隅に隅飾り突起があえる。天蓋の上にが露盤、伏鉢、請花、鬼面、火焔宝珠となっている。優雅な形をし時代を反映した豊かな塔で総高3メートルもある。 制作年代は基礎に彫られている格狭間や笠の隅飾り突起などから判定すると室町時代末期の作と推定される。
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深田家墓所 | ||||||
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長徳寺の深田家墓所 | ||||||
岡藩は入国初期、宇目郷の統治体制として宇目郷惣支配、惣支配副役、割元、小庄屋を置いた。惣支配には深田弾右衛門忠豊が任じられて酒利村に居住、惣支配副役には深田弾右衛門忠豊の義弟深田忠左衛門忠房が任じられて小野市村に居住した。 | ||||||
小野市村
江戸期~明治22年の村名。豊後国大野(おおの)郡宇目(うめ)郷のうち。文禄3年から岡藩領。小野市組の中心村。村位は中。村高は「正保郷帳」「見稲簿」ともに81石余,「天保郷帳」103石余,「旧高旧領」199石余。小野市組を管掌する大庄屋がおかれ,深田氏がこれを世襲,庄屋給として大豆21石9斗を藩から給付された(地方温故集)。寛文年間に小野市堤を築造。藩の大制札場があった。豊後と日向を結ぶ日向道が当村を貫通。年未詳の覚に岩茸7斗・木海目3斗・河茸70本・干椎茸9斗の物産が見える(深田文書)。明治8年上津小野(こうづおの)・釘戸(くぎと)・楢野木(ならのき)・中津留(なかつる)・古屋園(ふるやぞの)の5か村を合併。同17年,南田原(みなみたばる)村・木浦内(きうらうち)村・木浦鉱山と連合し,当村に戸長役場を設置。同22年大野郡小野市村の大字となる。
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楢野木の五輪塔群 | ||||||
楢野木の五輪塔 | ||||||
楢野木五輪塔群 宇目町大字小野市字楢野木 小椋琢磨氏所有 五輪塔とは方形の地輪、球形の水輪、三角の火輪、半球形の風輪、団形の空輪、この地・水・風・空の五輪より成る。平安時代後期に密教系の塔としてあらわれたが(初期のものは一石成型の塔で、これが五輪塔の祖系であるという)間もなく宗派を越えて盛行した。わが国石塔の二大主流を一つである。全然無地のものと各輪に五輪塔特有の四門の梵字を刻むものが多い。方柱状の上に五輪塔をつけた長足五輪塔や五輪塔婆などがある。 この五輪塔群は、七基の五輪塔と三基の一石五輪塔と板碑一基からなっており、県南屈指の五輪塔群である。制作年代については、文字が無いので推定の域を出ないが、全般的にみて室町時代中期から江戸時代初期にかけての造立であろう。 この五輪塔群は現在に地表から160センチほど地中にあったものを復元したものである。材質は凝灰岩で、地中に埋没していたため保存状態は極めて良好である。 中央の一際大きい五輪塔について述べる。総高160せんち、地輪高さ50センチ、幅60センチ、水輪の高さ45センチ、直径60センチ、火輪の高さ47センチ、軒幅60せんち、軒の厚さ10センチ、空風輪の高さ27センチである。 水輪の四面にわずかに梵字を書いた墨痕が見え、町内に現存する同年代の塔に比較して入念な仕上げがなされている。以下略
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中津留の庚申塔群 | ||||||
中津留地区の道路沿いに、庚申塔など様々な石塔が集められている | ||||||
釘戸天満社の地神塔 | ||||||
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地神塔 豊作を祈って大地や天候の神を祀る。小野市の八柱神社境内に同じ形のものがある。塔婆型の地神塔は宇目の各地に見え、上爪の仏庵にも大きな塔婆型の地神塔がある。 | ||||||
上津小野の石幢 | ||||||
上津小野の石幢 この石幢は紀年銘が墨書のため風化摩滅によって判読できないので、確かな造立年月日を知ることはできないが、形態・作風から推定して室町時代中期の造立と思われる。材質は凝灰岩で、総高282センチに及ぶ豪壮で重圧感のある石幢である。 下から基礎(一石三段)・幢身・中台・龕部・笠・宝珠からなっている。基礎は縦横約110センチの巨大な岩石を三段に作り、上部に穴を穿ち(彫り通し)、それに幢身を嵌め込んでいる。 幢身上部に金剛界五仏四囀種子が彫ってあり、梵字は薬研彫蓮台付きで、幢身面一杯に縁取られた月輪の中に雄大に彫られ、その下を二段に区切り、各々縦七行に区分し、墨書きをしているが風化がひどく判読できない。 中台には蕨手紋様が彫られ、上部には深さ約3センチの穴が彫られ龕部が嵌入されている。 龕部には各面二体ずつの地蔵と十王二体が薄く半肉彫りされ、その上下に薄く雲形紋様が刻まれている。 笠の底面は大きく凹形に彫りくぼめられてあり、いかにも笠をかぶったという感じである。笠の軒口にも蕨手紋様が彫られている。 宝珠は連弁上に火焔を彫り、中の宝珠を彫り通しているが、上部の一部が破損している。
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