行商と運賃船 | ||
臼杵市史 第5章 町・在・浦の生産と交易 | ||
第2節 魚の道―交通と交易 |
臼杵では、津留の人たちが行商で活躍してきた。ここには平家の落人の伝説が伝えられており、『臼杵博識誌』に「昔源平の戦い有りし時の落人、平家の車を守る舎人近藤六郎、蒲戸隼人、篠原主膳、森川右源と云いし者の後胤也。安芸国佐伯郡の能地村にも平家の落人漁りをせしが、慶長十巳年の春、與十郎、助兵衛、六郎兵衛、新介四人の者共、家内の者を銘々船に乗せ臼杵市津留硴江(かきえ)に住す。平家落人車者といふ。俗にシヤアと呼ぶは誤なり。男子は漁りのサカナを得、女子は盤帽と云ふ器に魚を入れ頭に戴きて遠村まで売に行く也。他村と婚姻せずして、平家車者の苗胤連綿たり。平家の落人は安芸、防州、長州の諸国にて百姓漁人となり身命を繋ぐ者数多也」と記されている。能地(広島県)は瀬戸内の家船の根拠地で、家船とは船を住居とした移動性の強い漁民のことである。津留は、近世初頭に能地の出身者によって形成された枝村と考えられるのである。 津留は約140戸の民家が密集して集落を形成している。ここの人たちは耕地をもたず、また、網代(専有漁場)もなかったが、打瀬網漁と立干網を主な漁法としていたという。打瀬網とは潮流や帆の推進力で船を移動させ船首と船尾から長い桁を出して、網を曳く底曳網の一種である。津留では、カレイ・ヒメイチ・コダイ(小鯛)・チヌ(黒鯛)・エソ・ハゲ(カワハギ・ウマヅラハギ)・アナゴ・貝などの底ものを獲っていた。立干網とは、河口や遠浅の海中に長方形などに網を建て、干潮時に網中に残った魚を獲る漁法のことである。 |
家船の商船化 |
この部落の人たちで明治の終わり頃小さい運搬船を持った者があった。イサバと言った。イサバというのはもともと魚の塩物や干物のことであり、またそれを商う店をもイサバと言ったのであろう。津留にもイサバはあってよいはずである。そのイサバ船が大分・別府あたりへ魚を積んでいっていたのが、瀬戸内海の海上輸送が盛んになるにつれて、魚類以外のものを積んで九州と大阪の間を往来するようになった。運ぶものは石炭が多かった。津留のイサバもその石炭を積みはじめた。と同時に船が大きくなって来た。一人が成功すると少し金のあるものが見習って船をつくった。手持ちの金で足らぬところは頼母子などで借銭してつくった。こうして昭和の初めまでにはほとんど運搬船にきりかえ、さらに力のある者は帆船を機帆船にして能率をあげはじめたのである。津留の運搬船が成功したのは夫婦共稼ぎで船の中に一家の者が寝泊りして、別に船員をやとうこともなかったためである。経費が節約できる上に無理な航海をすることが少ないので海難にあうことも少なかった。こうして漁船から運搬船へと発展して来るが、家船の形態を保持していることに変わりがない。そしてこの変遷は明治の終わり頃から見られはじめるのであるが、その他の地方ではもっと早くからこのような現象が見られた。 熊本県天草郡の二江などもその一つである。二江も潜水海人の漁村であった。ここは有明海の入口で島原半島と向かいあっている浦で、今日では天草で唯一の潜水海人部落である。ここにも古くからイサバがあった。とれた魚やアワビを方々へ売りあるいていたものであっただろうが、その船がいつか、筑後大川の酒を積んで行商するようになった。筑後大川は今日では家具製造でその名を知られているが、もとは清酒の産地であった。そこの酒を樽詰にしたものを何十というほど積んで西彼杵半島の西海から五島あたりまで売りあるいた者が多かった。ただこの地は大動脈的な輸送路からはずれていたために石炭運搬船に見られるような活気はなく、浦全体が運搬船乗りになるというようなこともなかった。むしろ酒が汽車などによって輸送せられることになると、この地の酒船は衰退の一途をたどることになる。 おなじ天草のうちでも八代海に面したところには潜水海人はいなかったようだが、網船や釣漁をいとなむ海人は多かった。とくにテグリ系の漕ぎ網が多かった。これは海底が泥質のところが多く、且それほど深くなかったので、船に帆を張って網をこぎつつ海上を流してあるく漁業が盛んだったのである。これが明治になると漁船を大型化して打瀬船になる。打瀬はテグリ網を一時に三―五帖ほど海に入れて風力を利用して船を流していく。帆も三枚から五枚くらい張る。船を横にして帆を張る。天草打瀬の名は西日本の漁民の間にはつよく印象づけられたものであるが、テグリ網船が打瀬に大型化しなかった頃から、この地方の漁船は冬分はテグリ網をひき、漁閑期には薪など積んで八代や三角・熊本へ運んでいた。漁船であるとともに商船であったわけで、八代や熊本からかえるときは島の者にたのまれていろいろの生活品を買って来ることもあった。中には生活用具を積んで浦々を売り歩く船もあった。こうした商船もイサバとよばれ半漁半商の生活が長くつづけられていた。これらの船も一家族の者が乗っているのが特色で、天草ではそうした船を亭主船とも言った。 イサバの大きくなったものがバイセンである。売船とでも書くか。バイセンになるともう漁業に使用することはなく、商業専門になる。イサバがバイセンに変わったものが亭主船であることにはかわりはない。それが明治中葉から炭坑がたくさん開かれて、たくさん坑木を必要とするようになると、その坑木の運搬にイサバやバイセンが利用せられることになる。そして運搬専業に転じたものはきわめて多い。いま有明海沿岸を航行する機帆船の運搬船のほとんどは家族乗組で与一浦や御所浦島などの古い海人部落の出身者が大半をしめている。 西日本で小形の商船をイサバとよんでいるところは、そのほとんどが水産物の輸送をおこなっていたと見てよいのである。そしてイサバの名ののこっているところでは大体家族のものが乗り組んでいる傾向が見られるが、イサバの少し大きくなったバイセンの場合には男ばかり乗ったものが多く、これはその初めから商船として商人の手によって造られたものであろう。しかしバイセンの中にも家族で乗っているものを少なからず見かけるのはイサバの大きくなったものであると考える。但し、このようなことについては私自身もなお十分につきとめていないので今後の調査に待たなければならない。 家族で運搬船や商船に乗り組む習俗は家船の多かった西瀬戸内海にもいたる所に見られる。とくに芸予叢島地帯にはそうした浦が多い。船を家にして海上漂泊を事とすると言っても江戸時代に入ると、その行動半径は著しく制限せられて来る。それぞれの浦の漁場が定められ、漁民はその中で稼ぐことになり、他の漁場で稼ぐには入漁料を支払わなければならぬことになる。家船仲間がそれぞれの浦に枝村をつくって定住しはじめるのもその為である。同時に一年中を漁稼ぎで暮らすことも困難になる。そこで瀬戸内海地方では家船の仲間は帆船の寄港地へ魚を売りに行ったり、魚以外の食料品や日用品など持って売りにいくようになる。港につけている船へ小船を漕ぎよせて商売するもので、このような船を沖ウロといった。沖ウロはたいてい船着場の近くの漁民がおこなっていたが、中には海峡などにまちうけていて通りすぎる帆船に小船を漕ぎよせて日用品や食料品を売るものも少なくなかった。来島海峡の来島はこの沖ウロの重要な根拠地の一つであったが、そのほかでも大下、小大下、興居島、大崎下島、睦月島なども沖ウロの多かったところである。 船をはしらせていると、瀬戸の流れのややゆるやかなところに浮かんでいる小船が急に漕ぎ寄せてきて、走っている船の胴へぴたりとつける。そして船の必要とするものはないかと聞く。必要なものを言えばそれを籠に入れ、竿のさきにつけて差し上げる。運搬船のものは籠の中の品物をとり、かわりに代価を入れる。金をうけとると小船は運搬船からはなれて、また待機すべき場所へ漕ぎもどっていく。 ちょうどこの芸予叢島地帯にはモモやナシを栽培しているところが多かった。春になるとそれらの島々はその花がさきほこって実に美しかったが、夏になると豊かに実って来る。それを船にのせて瀬戸内海の沿岸をうりあるいたのであった。モモ船・ナシ船などと言っていたが、船を砂浜へつけて橋板をかけて浜へ上れるようにして、積んで来たモモやナシをテボに入れ、天秤棒でかついで売り歩いた。大抵は夫婦で乗っているのが特色で、船の中で生活していた。これはもと漁業をおこなっていたものが、次第に漁業から行商船に転じていったものであるが、瀬戸内海の家船の場合には、たえず漁船から行商船に転じつつ徐々に家船漁から足を洗っていったケースが多い。家船の大きな根拠地として知られていた三原市能地のごときも今は漁業をおこなうものはほとんどなく運搬船に転じているが、能地の東南にある生口島瀬戸田の福田浦なども能地の枝村として家船漁を行って来たが、現在はほとんど小形運搬船に転じている。もとよりこのような現象の大きくあらわれて来るのは昭和二〇年以降のことであるが、それ以前からも土地によってはそういう現象がはやくから見られ、家船の行商船化はすすんでいたのである。 山口県大島郡の久賀浦は中世以来の漁浦であり、中世には大島海賊の海賊浦の一つであったと思われるが、近世に入ると毛利藩の周防御立浦五浦の一つとなり、漁業一本で栄えてくる。 かくて家船の中から無数の商人船が分派し、それが船による行商をおこないつつ、やがて町に安定した店をもち商人町を形成して来るのであるが、それにつれて在方の百姓たちも船を持って商稼ぎをするものが出るようになるのは久賀の場合、在方もイサバを一六艘も持って来たことでわかる。
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