海部と佐伯ーⅣ 



縄文人とその文化は日本のルーツなのか

 
人間が重んじられた縄文時代の社会

 日本史の研究者の多くは、このように考えている。
「縄文時代に、日本文化の原型がつくられた」
 縄文人はあらゆる自然物に精霊(霊魂)が宿るとする精霊崇拝(アニミズム)の考えに立って、独自の縄文文化を育てた。かれらは、自然界に、目に見えない無数の精霊がいると考え、雨、嵐などの自然現象は、精霊たちの力によって起こると信じていたのだ。
 そのため縄文人は、山の神、海の神、太陽の神、雨の神、風の神などの多くの神々を祀った。このような信仰はそのまま現代の神道に受け継がれた。日本の文化は、縄文的な神道思想のうえに発展してきたのである。
 しかし縄文人が、そのまま日本人になったわけではない。縄文人はおおくの移住者を自分たちの仲間として取り込んでいって、古代の日本人となった。
(中略)
 ヨーロッパ、中近東などでは、古い時代に多くの排他的な民族集団がつくられてきた。そして民族間の勢力争いがさかんに行われた。そのような争いのあとで、勝者が敗者を虐殺したり、奴隷として従えた場合も少なくない。
 ところが縄文人は、あらたな移住者を仲間として扱い、平和な形で自分たちの社会に取り込んだ。
 かれらが、新参者の移住者も「自分たちと同じ尊い精霊を宿した(善良な魂を持つ)人間だ」と考えたためだ。精霊崇拝をとる者は、あらゆる人間も、あらゆる動物も善良でかけがえのない存在だと信じていた。そのため、前に記したように弥生時代に多人数の北東アジア祖先の人びとが日本列島に迎えられた。次いで古墳時代に、東アジア祖先の者たちが日本列島の住民に加わることになった。

移住者を受け入れた縄文人の実像

 縄文人の起源に関する新説

 
日本列島の各地に、旧石器時代(12万年前ごろ~1万4500年前ごろ)の遺跡がみられる。しかも日本の旧石器時代の終りに、北方から細石刃という鋭い石器が伝わっていた。
 そのためかつて、旧石器時代の日本列島の住民が縄文人になったと見たうえで、縄文文化を北方系の文化を引き継ぐものとする説がとられていた。ところが最近になって、「縄文人は南方から来た」とする新たな説が出された。
 それは、縄文人をホアビニアン文化を残したホアビニアン人の子孫だとする説である。6万年前にインドネシアからベトナムにかけての地域に、ホアビニアン文化という独自の文化が見られた。約7万年にアフリカを出てアジアの南方に向かった集団が、ホアビニアン文化を残したと見られている。
 ホアビニアン文化は、4000年前ごろに雲南(中国の雲南省)や中国の華南から南下した移住者の流入によって、姿を消したといわれる。
 このホアビニアン人のDNAを調べたところ、それが縄文人に近いことがわかったのである。以前から縄文人のDNAは、アジア北方の古モンゴロイド(原アジア人)や、そこか分かれたアメリカ先住民のDNAと多少異なる点が指摘されていた。
 そのため、このような説が出された。
「ホアビニアン人は、北方のフィリピンから台湾に広まった。さらにそこから旧石器時代にあたる3万8000年前ごろの日本列島にいたった集団が、縄文人の先祖になった」
 日本列島では、12万年前頃から、旧石器時代の遺跡が見られた。しかし3万8000年前ごろまでの旧石器時代の遺跡は、きわめて少ない。ホアビニアン人の集団の移住をきっかけに、日本列島の人口は急速に増加した。そして旧石器時代後期という新たな時代が訪れた。
 ホアビニアン人の流れを引く人びとは、次第に人口を増やして北上し、沖縄から日本列島全体に広がった。そして旧石器時代前期、中期から日本列島にいた新人(ホモサピエンス)をも仲間に取り込み、縄文人になっていったのであろう。
 このような縄文人が、弥生時代開始期以降、長期にわたって新参者を快く迎え入れのであろう。
「渡来人とは何者か その実像と虚像を解く 武光誠 河出書房新社 から 
2024年1月30日初版発行 1700円 税別  


「人類の起源」 
はじめに

 今世紀の初めごろまで、技術的な制約から古人骨はミトコンドリアDNA(細胞内に数多く存在します)しか分析できませんでした。しかし2006年に次世代シークエンサが実用化すると、大量の情報を持つ核のDNAの解析が可能になります。その後、2010年にネアンデルタール人の持つすべてのDNAの解読に初めて成功するなど、古代DNA解析にもとづいた人類集団の成り立ちに関する研究が活発になり、現在では世界各地の一流科学誌に毎週のように論文が掲載されています。古代DNA研究はまさに「ボナンザ(大当たり)」の時代を迎えているのです。
 それを象徴する出来事が、ドイツのマックス・プランク進化人類学研究所教授で、沖縄科学技術大学院大学(OIST)の客員教授でもあるスバンテ・ペーボ博士の2022年ノーベル生理学・医学賞の受賞です。彼は古人骨に残るわずかなDNAの抽出と解析の技術を確立するなど、ネアンデルタール人と私たちの系統関係を解明する上で決定的な役割を果たした人物なのです。ノーベル生理学・医学賞は、医学の応用の分野で画期的な業績を挙げた人物に与えられる例が多く、進化人類学のような基礎的な研究への受賞は大変珍しいと言えるでしょう。ペーボ博士の研究がノーベル生理学・医学賞の対象となったことは、古代DNA研究が重要な学問分野として国際的に認められたということを示しています。

縄文人の核ゲノム解析

 2016年には福島県三貫地遺跡から出土した縄文人ゲノム分析の結果が報告されています。これが縄文人の核ゲノムに関する最初の報告になります。世界で最初に次世代シークエンサによる古代人の核ゲノムデータが報告されたのが2010年ですから、6年遅れて日本でも本格的に古代ゲノム解析が始まったことになります。
 その後も縄文人の核ゲノムデータが追加されたことで、彼らが現代の東アジア集団とはかけ離れた遺伝的な特徴を持っていることが明らかとなりました。特に、北海道礼文島の船泊遺跡から出土した縄文人女性の全ゲノムが現代人と同じレベルの精度で決定できたことで、縄文人に関する理解は大きく進展しました。

 『人類の起源』 篠田謙一著 中公新書 から抜き書きしました。



「ヤマト王権誕生の真実 渡来王朝説からひもとく古代日本

第三のDNA


 われわれの倭韓交差王朝説に対するサイエンスからの援護射撃はまだある。2021年には、金沢大、鳥取大、ダブリン大などの国際研究チームによって、日本人ゲノムの変遷についての研究結果(パレオゲノミクス解析の実施)が発表され、メディアを賑わした。縄文人を十割とした場合のその後の日本人の「混血」割合は、弥生時代において「北東アジア」を起源とする渡来集団との混血が進んでゆくため、その縄文成分は全体の六割(四割は北東アジア起源)へと減少する(それが弥生人になる)。さらに列島への渡来・流入状況が進み、古墳時代においては、縄文成分二割、北東アジア成分二割にシフト、残りの六割はなんと「東アジア」系成分で、それが古墳人の組成だという。要するに「第三のDNA](2023年のNHK『フロンティア』「日本人は何者なのか」内の惹句)としての「東アジア」系の祖先の成分がここに来て半分超になったと。言うまでもなくこれは衝撃の結果だった。それだけ大量の渡来民たちが海外からやってきて列島弥生人たちと混血してゆかなければ、この混血の割合にとうてい達することができないからである。
 加えて肝心なことは、「現代日本人集団」の内訳を調べると、この古墳時代に形成された三つの祖先成分からなる三重構造をそのまま現代人が保有していることがデータで示された点だ。すなわち、古墳時代より後の時代(たとえば飛鳥時代のような)には、もうそこまで大量には列島へ来ていないことも判明した。いわば「渡来民から渡来人へ」というふうに潮目も変わり、量も少なくなっていった、という訳だろう。ここに来て技術官僚たちだけが呼ばれるようになったのかもしれない。
 さらに同2021年、比較言語学がらみの研究も発表され、別途、古代史の世界は揺れた。日本語のプロトタイプとなった言語は、約9000年前に中国東北地方の西遼河流域に住んでいたキビ・アワ栽培の農耕民だったと、ある国際研究チームが発表したのである。
《ドイツのマックス・プランク人類史学研究所を中心に、日本、中国、韓国、ロシア、米国などの言語学者、考古学者、人類学(遺伝学)者で構成。98言語の農業に関連した語彙や古人骨のDNA解析、考古学のデータベースという各学問分野の膨大な資料を組み合わせることにより、従来なかった精度と信頼度でトランスユーラシア言語の共通の祖先の居住地や分散ルート、時期を分析した》と毎日新聞は伝えている。ちなみに、此の研究所の所長スバンテ・ペーボは2022年のノーベル生理学・医学賞の受賞者であって、古生物遺伝学の第一人者だから、まったくもって旬の人物であり研究団体であった。この研究報告の先進性も納得されるところである。
(以下略)
ぜひ、原書をお読みください。
ヤマト王権誕生の真実 渡来王朝説からひもとく古代日本』  著者 中島岳
2024年6月25日初版第1刷発行 共栄書房



新版 稲作以前 
著者 佐々木高明 NHKブックス 2014年11月20日 第1刷発行 
 
 大石遺跡の示すもの

 
1965年の12月、大分県大野郡緒方町(現豊後大野市緒方町)の大石にある縄文時代晩期の遺跡が、別府大学の賀川光夫氏らによって、発掘された。この遺跡は、祖母山麓に発する大野川の河岸段丘上に立地する遺跡で、縄文後期の土器も出土するが、主体をなすのはだいたい晩期初頭の黒川式土器だといわれる。これらの土器とともに出てきた石器のなかには、いろいろおもしろい遺物がみられた。
 その調査報告書をみると、発掘された土器のなかでもっとも多いのは扁平打製石器とよばれるもの。これには大小二つのタイプがあるようだが、いずれもその使用痕などから判断して、大形の重いものは石鍬、小型のものは手持ちの土堀具あるいは根切りの道具だと賀川氏は考えている。このほか弥生時代の石包丁によく似た半月型の打製石器も出土し、これは穂摘具とみられる。また石皿(石臼)の破片とその磨石(すりいし)と思われる棒状の石器の出土もあり、こうした一群の扁平石器は、いずれも「農具と考えることには疑いない」として、賀川氏は「石器からみた大石遺跡は疑う余地もなく農耕(焼畑)集落を想定せしめる」と結論づけているのである。
 (以下略

 
上記の書籍が大変勉強になりました。

 



倭人・倭奴  
 
 
国宝 金印 漢委奴國王[福岡市博物館]  
天明4年(1784)に志賀島(福岡市東区)で農夫甚兵衛によって発見された。一辺2.3cm、重さ108g。つまみは蛇がとぐろを巻いた形状をしており、印面には『漢委奴國王』と刻まれている。

現物を見た第一印象は 「小さい ‼」。 漢の倭の奴の国王と彫られていると学校で習ったが、大人になって史書を読むようになると、漢の倭奴国王と読むのではないかと考えるようになった。福永光司先生の「馬の文化と船の文化ー古代日本の中国文化」を書店で購入して読んだ。



「馬」と「船」の道

 倭人・倭奴

 古代の日本人が「倭人」と呼ばれていたのは、一般に知られるところである。もともとは、背が低くて(矮小)、猫背、かがみ腰の人を意味する漢語(『説文解字』、『漢書』谷永伝など)であるが『魏志倭人伝』に、主として日本列島西北部に住み、「沈没(シズミモグ)ルコトヲ好ミ、魚蛤ヲ捕り、身に文(イレズミ)する」と紹介されているように、「船」の文化の担い手である水上生活者「水人」を呼ぶ言葉として使われており、以後は日本人を指すようになった。

 しかし、中国の文献を検証すると、『倭人伝』の書かれた三世紀以前は、必ずしもその使用が日本列島西北部のみに限定されていない。
 「倭人」という漢語が、成立年代の確かな中国の古代文献に見え始めるのは、一世紀である。後漢の班固が著した『漢書』地理志(下)の「燕地」の条には、「楽浪ノ海中ニ倭人有リ、分レテ百余国ト為ル。歳時ヲ以テ来リ献見スト云ウ」が見える。ここでは「倭人」の居住地は「楽浪の海中」すなわち西朝鮮湾から渤海湾、黄海に至る海域と結びつけられ、古代中国の「燕地」すなわち現在の北京・河北の地域にまで拡げられている。

 このように倭人を燕地と結びつける例はほかにもある。前三世紀頃の『山海経』海内北経には「倭ハ燕ニ属ス」とあり、さらに『魏書』太祖記には、太祖道武帝が登国十年(395)、同じく「燕地」に都を置く後燕国王・慕容宝の王子・魯陽王倭奴を生擒(イケドリ)にした記事を載せている。後燕国の王子に「倭奴」という名前が付けられているのは、「倭人」が古代中国の燕地と密接に結ばれていることの一例証と見ることができよう。

 なお、この「倭奴」という漢語は、『後漢書』東夷伝に「建武(光武帝)ノ中元二年(57)、倭奴国、貢ヲ奉ジ朝賀ス」とあり、後の「唐書」東夷伝や『宋史』外国伝に、「日本ハ古(イニシエ)ノ倭奴ナリ」、「日本国ハ本(モト)ノ倭奴国ナリ」などと、日本国全体の名称とされている「倭奴」と共通する。ちなみに光武帝が倭奴国に与えたという「漢倭奴国王」の五文字を刻する蛇紐(ダチュウ)金印は、江戸時代に筑前の志賀島で発見され、現在は福岡市博物館に保管されているが、「倭」の字を古い形の「委」に作っている。

 以上、「倭人」の居住地を「楽浪ノ海中」もしくは「燕地」と関連づける中国古代の文献資料を挙げてみたが、同類の資料として注目されるのは、後漢の王充(27-91)の『論衝』である。
 その中の儒増篇「周ノ時、天下太平ニシテ越裳(古代の国名。今のベトナム北部)ハ白雉ヲ献ジ、倭人ハ鬯草(チョウソウ)ヲ献ズ」、同じく恢国篇「(周ノ)成王ノ時、越常(裳)ハ雉ヲ献ジ、倭人ハ暢(鬯)ヲ貢ス」の記述は、いずれも「越裳」とセットにして「倭人」の語が含まれている点で注目を引く。鬯草とは、祭祀用の芳草である。
 この「鬯草」を、儒教の古典『周礼』の「鬱人(ウツジン)」「鬯人」などの記述や、『礼記』などに多く見える祭祀用の香草「鬱鬯」と同一視して、これを献じた倭人の居住地を漢代の鬱林郡(今の広西省貴県の東方地域」に比定する説もある。解釈としては一応成立する。しかし、上掲の文章に「成王」「天下太平」、「献」、「貢」などの漢代祥瑞思想(太平の世に吉祥が現れるとする天人感応学説)と密接に関連する用語が見えていること、また儒教の古典『逸周書』王会篇に「東夷」すなわち東方の夷狄が、周の成王に対してさまざまな貢献を行う記述を乗せていることなどを考慮すれば、「鬯草」を献じた倭人の居住地も、やはり古代日本の「倭の水人」たちと密接な関連交渉をもっていた呉越の地区と見るのが適切であろう。

 呉越の地区の住民たちが、北方の「馬」の文化圏の支配者たちから東方の夷狄と見なされていたことは、儒教の古典『春秋穀梁伝』「呉ハ夷狄ノ国ナリ。髪をヲ祝(タ・断)チテ身ニ文(イレズミ)ス」、また後漢の袁康『越絶書』「越王勾践ハ夷狄ニシテ身ニ文ス」などによって確認される。
 とくに、上述の呉と倭人との緊密な関係については、時代は少し下るが、元の金履祥『通鑑前編』に「呉凶、海ニ入ッテ倭ト成ル」、すなわち呉の国の不逞の族(やから=支配者にまつろわぬ者たち)が船で海原を渡って倭人になったのだという極論まで載せられるに至っている。

 要するに、漢語としての「倭人」は、古く日本列島西北部の「倭の水人」のみでなく、西朝鮮湾から渤海湾、黄海に至る沿海地区、さらには東シナ海に至る広大な海域にもその居住範囲を持ちうる、「船」または「舟」の生活者集団を呼ぶ言葉であった。彼らは背が低くて猫背でかがみ腰、頭髪は短く切って身体に刺青を施し、主として漁撈に従事して水田耕作をも兼業する生活を営んでいた。

 この「倭人」の「倭」を「やまと」と訓(よ)んで、固有名詞の中に使用しているのが、『古事記』東征神話の神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと=神武天皇)である。その「神倭」の「倭」を人名、地名、国名などに用いている例は、『古事記』全巻の中でおよそ70回に及ぶ。
 そして、この「倭」の字を「心」と結合させた「倭心(やまとごころ)」を儒教の「漢意(からごころ)」と対比させたのが、「古事記伝」の著者・本居宣長である。

 

「倭人」と「越人」


 漢語としての「倭人」

「倭人」という言葉は、『古事記』『日本書紀』などの奈良朝日本古典には全く用いられていない漢語、すなわち古典中国語であるが、この漢語としての「倭人」が現有する中国古典歴史文献に初見するのは、紀元一世紀の半ば、後漢の班固(32-92)によって編纂された『漢書』地理志(下)の「燕地」の条である。
 玄菟(ゲント)・楽浪ハ武帝(前141-前87年在位)ノ時ニ置ク(玄菟・楽浪・臨屯・真番の朝鮮四郡の設置は『漢書』武帝紀によれば、武帝の元封3年〔前108〕夏のことである。……楽浪(現在の北朝鮮平壌の地域)ノ海中ニ倭人有リ、分レテ百余国ト為ル。歳時ヲ以テ来リ献見スト云フ。

 この『漢書』地理志の文章においては、「倭人」は楽浪の海中、すなわち西朝鮮湾から渤海湾、黄海に至る海域と結びつけられ、古代中国の「燕地」すなわち現在の北京・河北の地域と結びつけられているが、「倭人」と「燕地」とを結びつけるのは、『山海教』海内北教にも「葢(ガイ)国は鉅燕ノ南、倭ノ北ニ在。倭ハ燕ニ属ス」とあって、ここでいわゆる漢語としての「倭人」の居住地が、朝鮮半島の西海岸から遼東半島の沿海地区を含めて渤海の沿岸地区に及ぶ広大な範囲であり得ることを強く示唆している。この「倭人」の居住地に関する上述のような強い示唆は、『後漢書』烏桓鮮卑伝に載せる以下の「倭人」の記述によっていっそう確実に裏付けられる。

 光和元年(178)冬、(鮮卑)マタ酒泉(甘粛省)ニ寇ス。縁辺、毒ヲ被ラザル莫シ。(鮮卑ノ)種衆、日ニ多ク、田畜射猟ノミニテハ食ヲ給スルニ足ラズ。(鮮卑王ノ)壇槐槐、乃チ自ラ徇(メグリ)行(アルキ)、烏侯(ウコウ=地名)ノ秦水ノ広(ヨコ)従(タテ)数百里、水停(トドマリテ)流レズ、其ノ中ニ魚有ルヲ見テ、之ヲ得ルコト能ワズ。倭人ノ善(タクミ)ニ網モテ捕フルヲ聞キ、是(ココ)ニ於テ東ノカタ倭人ノ国ヲ撃チ、千余家ヲ得テ、秦水ノ上(ホトリ)ニ徙(ウツシ)置キ、魚ヲ捕リテ以テ糧食ヲ助ケシム。

 すなわち、ここでもまた「倭人」の居住地は、騎馬民族である鮮卑族の居住する烏侯の秦水の東方、遼東半島の沿岸地域から渤海湾の沿岸地域に及ぶ朝鮮半島の西北部、ないし中国漢代の「燕地」に近接する地域とされている。
 以上、見てきたように、前漢・後漢時代における漢語としての「倭人」の居住地は、朝鮮半島の西北部ないし中国漢代の「燕地」に近接する地域とされているが、ここで注目されるのは、同じく後漢の時代、起元一世紀の半ばに書かれた王充(27-91)の著書『論衡』に、その儒増篇など再度にわたってほぼ同文の用例が見える「倭人」の記述である。

 (一)儒増篇「周ノ時、天下太平ニシテ越裳(国名。『後漢書』南蛮伝に「交趾ノ南ニ越裳国有リ」とあり、「交趾」は現在のベトナム北部)ハ白雉ヲ献ジ、倭人ハ鬯草(チョウソウ)ヲ献ズ」
 (二)恢国篇「(周ノ)成王ノ時、越常(裳の訛字)雉ヲ献ジ、倭人ハ愓(鬯=チョウ)ヲ貢ス」

 この王充の『論衡』にいわゆる「周ノ時……倭人ハ鬯草(チョウソウ)ヲ献ズ」の「鬯草」は、儒教の古典『礼記』郊特牲篇に「周の人ハ(祭祀)ニ臭(ニオイ)ヲ尚タットビ、濯グニ鬯ノ臭ヲ用ウ。鬱ヲ鬯ニ合セ、陰(ツチ)ニ臭シテ淵泉(チノソコ)ニ達ス」とあり、後漢の許慎(30‐124)『説文解字』第五篇(下)「鬱」字の条に、「鬱鬯ハ、百草ノ華ト遠方ノ鬱人貢スル所ノ芳草トヲ合セ、之ヲ醸シテ以テ神ヲ降ス。鬱ハ今ノ鬱林郡ナリ」とある。これらの記述によれば、「周ノ時……鬯草ヲ献ジタ」「倭人」というのも、鬱鬯の産地である「鬱林郡」すなわち現代中国の広西省貴県の東方地域に住む蕃夷の一種とみることもできよう。

 ところで以上見てきた『漢書』地理志、『山海教』海内北教、『後漢書』烏桓鮮卑伝、『論衡』儒増・恢国各篇の「倭人」が、必ずしも古代の日本列島を居住地としないのに対して、中国の後漢時代につづく三国時代の正史『三国志』魏書、いわゆる『魏志』の倭人伝――「倭人ハ帯方(もと楽浪郡二十五県の一県)。後漢末期に郡として独立。現在の平壌の南地区)ノ東南ノ大海ノ中ニ在り。山島ニ依リテ国邑ヲ為ス。……漢ノ時ニハ(中国ニ)朝見スル者有リ。……(帯方)郡ヨリ倭ニ至ルニハ海岸ニ循イテ水行ス。……男子ハ大小ト無ク皆面(カオ)ニ鯨(イレズミ)シ身(カラダ)に文(イレズミ)ス。古(イニシエ)ヨリ以来(コノカタ)、其使(者)中国ニ詣イタレバ、皆自ラ大夫ト称ス……」。および、この三国時代につづく晋王朝の時代の正史『晋書』の倭人伝――「倭人ハ帯方ノ東南ノ大海ノ中ニ在リ。山島ニ依リテ国ヲ為ス。地ニ山林多クシテ良田無ク、海物ヲ食ス。……男子ハ大小無ク悉ク面(カオ)ニ鯨(イレズミ)シテ身(カラダ)ニ文(イレズミ)シテ、自ラ(呉ノ)太伯ノ後ト謂ウ。……其ノ道里ヲ計ルニ当(マサニ)会稽東治ノ東ナルベシ。……(男女)皆ナ被髪徒跣ス。其ノ地温暖ニシテ、俗、禾稲紵麻ヲ種ウエテ蚕桑織績ス。土ニ牛馬無シ……」――になると、これらの書にいわゆる「倭人」の居住地は、ほぼ現在の日本列島、なかんずくその沿海地域に限定されるようになる。
 その主要な理由としては、それまで黄河流域に首都を置いてきた漢民族国家が、次第に南下して首都を江南の建鄴(南京)に移して古代日本国に近接し、したがって漢語としての「倭人」が、主として日本列島沿海地区の居住者を呼ぶ言葉として定着するようになった事情が考えられる。

『馬の文化と船の文化ー古代日本の中国文化』 
福永光司 1996年3月25日初版発行 人文書院 2800円(税別) 


福永 光司(フクナガ ミツジ)

1918年大分県中津市生まれ。1942年京都帝国大学文学部哲学科卒業。同年10月熊本野砲兵聯隊入営。戦争末期に中国大陸に渡り、広東省で終戦を迎え、47年上海から復員。東方文化研究所(京都)助手、大阪府立北野高校教諭、愛知学芸大学助教授、京都大学人文科学研究所教授を歴任。1974-79年京都大学文学部教授。1980-82年京都大学人文科学研究所所長。定年退職のあと関西大学文学部教授、北九州大学外国語学部教授を勤める。その後、故郷の中津に住み、執筆・講演活動を行う。2001年没。

  続 く  
  戻 る