海部と佐伯ーⅢ | ||
紀州の海部 |
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重要文化財 馬冑 和歌山市大谷の大谷古墳出土 |
海部は海人のことで、「和名抄」はアマとよんでおり、また、佐渡や越後には海府の地名も残っているので、カイフともよばれた。「香取大禰宜文書」には、漁夫の関東河海で活動しているさまをうかがうことのできる「海夫注文」が伝わっているし、また紀州にも海部郡がある。 和歌山市の日前宮(ひのくまぐう)から東に2キロメートルの地点にある岩瀬千塚は、20数基の前方後円墳を含めた大小六百数十基の円墳があり、この古墳群は五世紀初めより七世紀はじめにかけての頃のもので、日本でも一、二の規模といわれ、これが紀(きの)氏一族の古墳群と推定されている。また、紀ノ川を隔てて北西の対岸にある前方後円墳の大谷古墳は、五世紀中葉から六世紀初頭の築造と推定され、大陸文化の要素の強い馬冑(ばちゅう)、馬甲(ばこう)が発見された。 大谷古墳の発掘に当たった京都大学考古学教室の報告によれば、被葬者は、「大陸との関係の深かったもの、大陸的先進文化の影響を強く身につけた豪族と想像される」。また、紀(きの)一族の朝鮮半島進出を記した『日本書紀』をもふまえ、「被葬者を紀氏と推定することは、必ずしも無稽ではない」と発表されている。折柄、江上波夫の提唱する「騎馬民族説」はなやかなりし頃であった。 外征のみでなく、文物制度の移入にも、わが古代国家は大陸との交渉が深かった。そこではしばしば船師が動かされ、そのため多くの海人の助けを借りなければならなかった。海部を率いた安曇氏とともに、紀氏の水軍、あるいは瀬戸内海の海部たちは、操船の技術を競った。紀州の海部郡は、加太と浜中、余戸、峰家の四郷から成っていた。地名はともかく、紀州は後の展開にうかがわれるように、海部の国であった。そして海人たちの生業はいうまでもなく漁業である。だから、後述するように、紀州は日本漁業史上最も指導的な役割を担ったということができる。 九世紀初めに成立した『日本霊異記』は、そうした史料を我々に与えてくれる。下巻第三二の「網を用いて漁夫、海中の難に値(あ)ひて、妙見菩薩に憑(よ)り願ひ、命を全くすること得る縁」がそれである。主人公は呉原の忌寸名妹丸(いみきないもまる)といい、大和国高市波多の里(現明日香村)に住んでいた。「幼きより網を作りて、魚を獲るを業とす」とあるから、川や池で魚をとったと考えてよいが、この場合は内水面漁業ではなく、、海の網漁業経営者であった。 『日本霊異記』(岩波『日本古典文学大系』判)の注によると、呉原忌寸名妹丸は、中国からの渡来人の一族か、とあり、漁期を中心に、南海道をくだって海辺の村に出た。時化にあった漁場は、紀伊国海部郡の伊波多岐嶋と淡路国との間にとあるから、生産手段の網や船は漁場に出るのに便の良い、どこかの漁村にもう一つの家、庫をもち、付近の漁民を使っていたと思われる。 時は延暦二年(783)のことで、海難は秋8月19日の夜となっている。「三つの船に乗りて九人有り」と記されているので、一艘に三人乗りである。本文から、これは手操網であろうと想像される。なぜなら、舟と人数との関係がちょっと不自然であるからである。日本漁業史の先達である羽原又吉も、人数の点その他から考えて、おそらく手操網漁業であったと推定している。 手操網は規模の小さい底引き網で、網の一方につけたイカリを打って海底に固定し、そこを基点に沖廻して船上から曳きあげる。地曳ではなく、沖取り漁法であることが、この時代で着目すべき点であろう。江戸時代には、大阪湾から紀州沖にかけて手操網が盛んで、やや大型化して打瀬網になった。打瀬網は船の前後にダシをつけ、それに袋網を取り付け帆に風をはらませて網を引いた。また魚の産卵場である藻の上を曳くのを藻打瀬といい、これらが瀬戸内海に広まっていったのである。古代においても、聖武天皇の皇居であった難波の宮を舞台としたと思われる次の歌がある。 大宮の内まできこゆ網曳(あび)きすと 網子ととのふる海人のよび声 (『万葉集』巻第三、238番) 網曳業の一つの基本はこの地曳網であり、回遊・接岸する魚を網船で沖回し、浜で双方から曳いた。地曳網は、紀州漁民などの、九十九里浜に代表される遠方出漁により、その大型化がみられたが、一般的には半農半漁的色彩が強かった。 紀州漁業の中で、注目すべきは大型化された沖取網で、八手網(はちだあみ)はいわば風呂敷状の敷網で、魚群が網の上までくると、四隅から網を曳きあげて魚をとる。中高網というのは、二艘の船で魚群を囲み、船上から網を曳くいわゆる二艘曳きで、寛永年間(1624-44)備中(岡山県)の真鍋島や周防大島(山口県)では、中高網の進出で地元漁村が大恐慌をきたす。が、一方では先進地の漁業技術を学んで、鰯網や、鯛網漁業が盛んになってゆく。 九十九里地方の地引網漁は、弘治年中(1555-58)、紀州の漁師が難風にあい南白亀浦に漂着し、同所の剃金村において、本国で使用していた地曳網を伝えたことからはじまっている。 八手網は、元和二年(1616)前記加太浦の漁師大甫七十郎が浦賀より上総(千葉県)矢之浦に来て開始した。寛永年間になると、関東の鰯網の評判を聞いて、紀州、泉州(大阪府)西宮あたりの漁師が、ぞくぞくとくだってくるようになった。こうした企業的な進出をうながしたのものは、商業的農業の発達によっており、綿・タバコ・油菜など、品質の良いものものを作るためには、肥効の高い肥料を必要とした。それは魚肥で、イワシの〆粕などということになる。 かくて、漁師たちはイワシを追って四方に進出した。紀州の漁師は関東へ、大阪湾の佐野、貝塚などの漁師は九州の五島、対馬方面へ出た。紀州加太では、繁昌のころは居屋敷の値段は一坪銀一枚くらいといわれるほどであった。
*紀州の漁民は安芸国(広島県)の能地に移住。豊後国佐伯の蒲江浦にも住みついて、先進漁業を地元の魚民に伝えたという。
紀氏と海部については、すでに早く岸俊男がたやすく余人の追随を許さぬ画期的な論文「紀氏に関する一考察」を発表している。 古代史における朝鮮半島とのかかわりを考えるためには、「水軍という視角を欠かすことができない」とする確固たる視点に立って、岸はまず紀氏の伝承のすべてが畿内の政治勢力と朝鮮半島の勢力との戦争にかかわりがあること、それがほとんど史実とは認められないとはいえ、このかかわりまで否定することはできないとして、紀氏と紀伊の関係を追及する。そして紀臣・紀朝臣ー 紀氏一族が、紀ノ川流域の那賀・名草両郡から有田・日高二郡におよんでいたとし、椒浜古墳(海草郡初島町)から出土した大陸・朝鮮系の冑や大谷古墳(和歌山市)の出土品、さらに紀伊国造家の墳墓といわれる岩橋千塚などの考古学的遺跡・遺物に注目、この地域の朝鮮半島との関係の深さを確認したうえで、さらに紀氏の同族を綿密に調査し、それが紀伊水道に面する和泉・紀伊の沿岸をはじめとして讃岐・周防・豊前などの瀬戸内海沿岸諸国に分布することから、瀬戸内海の海上交通に紀氏が重要な役割を果たし、その航路の一つを掌握していたことを明らかにしたのである。 岸はこの証明を裏づけるべき「造船とクス」について論じ、古墳時代の大形刳り船の船材がクスであること、その建造地の紀伊をはじめ伊豆・駿河・遠江・近江・丹波・播磨・備中・安芸・周防・伊予などの諸国がクスの分布とほぼ重なることを根拠として、紀伊熊野地方のクスを船材とする船こそ、特殊な航洋船として紀氏の海上活動をささえたもの、と推論しているのである。岸の視野の広さ、着想の托跋さは、ここに最もよく現れているといってよかろう。 注目すべきはこの論文で、岸が伊予の越智郡に接する野間郡の熊野岑で、昔、熊野という船を造ったという『伊予国風土記』逸文に着目しつつ、伊予を主たる根拠とした瀬戸内の有力豪族越智氏と紀氏が密接な関係にあることを強調している点である。そこに引用された奈良市手向山神社所蔵の「紀氏系図」に「伊予守益躬、河野氏先祖也、子孫注レ裏、今ハ越智氏」と記され、、紙背に「伊予国河野氏系図」が書かれていることなどが、その根拠とされているが、河野氏の家譜『豫章記』には、この益躬が「鴨部大神」として登場してくるのである。 『豫章記』の成立は室町時代、応仁の乱前後と推定され、神代からの河野氏の系譜・由緒を説いた荒唐無稽の伝説に満ち満ちているといわれる。たしかにそこに記された伝説を史実とみるのは論外であるが、神話学・民俗学などの視点をくわえて検討すべき問題はなお残されているものと思われる。実際『豫章記』が「見島」―三島を「加茂領」とし、益躬が三島大明神を勧請、自ら鴨部大神と号したと述べるとともに、「神書、東駒蹄届程、西櫓械及程、加茂御領ニアラズト云事ナシト見エタリ」という、加茂・鴨両社の供祭人がしばしば主張した漁撈、交通上の特権を書き込んでいる点からみても、ある時期の越智氏あるいは三島社が、賀茂・鴨の神とかかわりがあったと推測することは、さほど無理なことでもあるまい。 事実、伊予に対する賀茂・鴨社の影響は絶大で、古代に賀茂郷(新居郡)、鴨部郷(越智郡)を見いだしうるだけでなく、中世に入っても鴨社は前述したように伊予内海、宇和六帖網などの御厨、賀茂社も菊万荘、佐方保を確保しており、両社の供祭人の活動が著しく活発であったことは間違いないといってよい。また、越智氏の同族紀氏の本拠におけるさきにふれた賀茂・鴨社の強い影響、摂津の三島鴨社や伊豆の三島社と賀茂郡との関係など、三島社と賀茂社との密接な関係を考慮に入れることも必要であり、三島社が海の神として海民の大きな崇敬をうけたのは、大山祇神というよりも賀茂・鴨の神との関係によるとみることもできよう。 それに応ずるがごとく、『豫章記』の伝説には、海民的色彩がきわめて濃厚である。多少とも確実性のある平安末期の記述でも、河野通信が、「安芸国沼田郷ヨリ兵船三十艘程、海士ノ釣船ノ躰ニテ浮出」と、のちの能地漁民にもつながりうる記事を記し、また通信が「与州今治ノ海人也」と偽って奴可入道を殺したとするなど、漁民との関係がしきりに強調されているが、とくに見逃せないのは、河野氏による海民の支配が朝鮮半島とのかかわりで語られている点である。 『豫章記』の冒頭部分の伝承自体、「新羅国退治ノタメニ大将」の一人となったとか、新羅国に三年間逗留して以来、茶碗を「定器」としたとか、朝鮮半島との関係説話でうめられているが、「推古天皇御宇、三韓襲来ル」とき、「戎人八千人」を率いた大将の「鉄人」を、さきの越智益躬が打ち果たしたため、降伏した人々の「ヨウロ筋(よぼろ筋)」ヲ断テ海辺ニ放タレ、其子孫海士宿海ト成テ、漁捕命ヲ続ケル故ニ、西国ノ海人、河野下人タルベシト定メラル」という説話が、河野氏の海人支配の由緒とされている。もとよりこれはまったくの伝説で、海人に対するこのようなとらえ方のなかには、これらの人びとが多少とも差別されるようになった時期の見方の反映があるように思われるが、河野氏の家譜にこれほど朝鮮関係の説話の現れることは、やはり無視しがたい。 それは岸が明らかにしたような、朝鮮半島と瀬戸内海との海を通しての古くからの密接な関係を、なんらかの意味で投影していると考えることも可能であろう。その意味で純友の乱と新羅の海賊についても、結びつきを十分ありうることとして追求してみる必要があると思うが、なにより、降って応仁の乱の前後、朝鮮国王世祖をめぐって起こった「観音現象」といわれる奇瑞にさいして、信濃・若狭以西の24か国の、主として海浜に根拠をもつ中小領主たちが多数、慶賀の意を表して使者をそれぞれ朝鮮に送りこんだ事実に注目しなければならない。九州・山陰をはじめ、播磨、備前、備後、安芸、周防、長門、阿波、伊予など、瀬戸内海沿岸諸国の人々をそこに多く見いだしうるが、「川野山城守越智朝臣盛秋」という河野氏一族の人の姿もそのなかにみられるのである。 江戸時代以降のこととして、宮本常一が『忘れられた日本人』で、「梶田富五郎翁」によせて、周防大島の久賀、沖家室の漁民の対馬への出漁、定着にふれつつ、朝鮮半島に交易に行く人々のいたことを記し、河岡武春が安芸の漁民の対馬への出漁、能見島の坂町、柿浦の人々の明治以後の活発な「韓海通漁」と移住について述べているような状況の背景に、こうした伝統があったとすることも、あながち考え過ぎではあるまい。そしてこのような漁民の活動は、日本列島だけにみられたのではなく、朝鮮半島の東南岸や済州島などにおいても活発だったのである。 最近の論考「倭寇と東アジア通交圏」のなかで、田中健夫は一四世紀のいわゆる「倭寇」の実態について詳細に解明し、最盛時の倭寇が三〇〇~五〇〇艘の船団、千数百の騎馬隊、数千の歩卒を擁した大集団であり、その構成員は対馬・壱岐・松浦の「三島の倭寇」だけでなく、高麗・朝鮮人ー禾尺・才人のような底辺の民衆のほかに、一般の農民を含む人々が多数加わっており、ときには高麗・朝鮮人のみが倭人の服装をして「倭寇」と称したことのあった事実を明らかにした。 倭人の服装はこの意味で、朝鮮半島の人々にとって、まさしく「異形」だったのであるが、田中はとくにそこで済州島の果たした役割に注目している。耽羅を国号とし、独自な建国神話をもつ王国として、新羅、百済からも自立していた済州島は、高麗以後、いちおう朝鮮半島の王朝の支配下に入るが、島民の王朝への帰属意識は薄く、一五世紀にもなお、「倭人の言語、衣服を効(なら)い、海島に往来し、潜かに剽窃を行う」(「世宗実録」)といわれており、島民が倭寇となっただけでなく、元の時代に牧が設定されて馬が飼育され、倭寇集団の大量な馬匹の供給地となったものと、田中は推定している。 この田中の指摘を、海民に焦点を合わせることによってさらに発展させたのが高橋公明で、「中世東アジア地域における海民と交流―済州島を中心として」という、示唆するところまことに多大な論文をまとめている。 「船を以て家と為す」といわれた家船を想起させる海民に注目した高橋は、一五、六世紀の朝鮮側の史料を渉猟しつつ、そこにみられるこうした人々の日本列島側の分布地域は対馬・壱岐・北九州であり、そのあり方はさきにふれた松浦党の支配下の「海夫」に近似すると指摘している。 一方、一五世紀後半の全羅道の多島海には、出漁した対馬漁民を襲撃したり、逆に倭人と交流する朝鮮側の海賊ー「水賊」が活動しており、これらの人々が「釣魚、煮塩」を業としていたこと、服装は倭人に似るが、倭語・漢語とも異なる言語を語り、倭船にくらべて頑丈で速い船を操る済州島の海民が、慶尚道南岸の全羅道よりの海域に現れ、海岸を仮りの住居として漁撈に従事したこと、鮑を取り「大鮑」を原料として熨斗鮑とみられる「細引鰒」を作る、移動性に富んだ済州島の海民については、朝鮮王朝もその統制に苦しんだことなど、豊富な史料をあげて、高橋はきわめて興味深い事実を明らかにしたのである。たしかにこの済州島の漁民のあり方は、海夫、さらには『肥前国風土記』の「白水郎」に酷似するものといってよかろう。 さらに重要なことは、済州島の海民が倭人と密接に交流していたことを強調する高橋が、従来の慶尚道ー対馬ー北九州というルートとは別に、全羅道ー済州島ー北九州という交流ルートを想定している点で、これは朝鮮半島と日本列島との交流を考えるうえに、新しい視点を提供したものといえよう。そして私はこの交流は古代にまで遡りうると考える。 さきにもあげたが、『延喜式』主計寮式によると、肥後国は「耽羅鰒」二九斤、豊後国も「耽羅鰒」一八斤を調として貢進していた。また、平城宮跡出土木簡は、天平一七年(745)九月「志摩国英虞郡名錐郷戸主大伴部国万呂戸口同部得嶋御調耽羅鰒六斤」が貢上されたことを示している。 この「耽羅鰒」については、渋沢敬三が「耽羅産と同種貝との意か」として注目し、「或いは特殊製法の差かも知れない」としているが、宮本常一は「海人ものがたり」で、「韓白水郎」が古く日本列島に来て定住していることなどを根拠に、済州島の海人の来住を推測している。また森浩一も藤原博嗣の乱にふれて、耽羅に言及し、「耽羅鰒」を済州島から季節的に移動する海女の採取したものとしており、私も宮本・森と同様、ここに古代から耽羅鰒ー済州島の海民と日本列島の海民との交流の一端を見いだすことができるものと考える。 もとより、宮本・森のようにこれをただちに耽羅から移動してきた海民によって採取されたものとみることは、この鮑が調となっている点からやや無理があろうが、最も距離の遠い志摩の場合についても、交易をそこに入れて考えれば、なんらかの直接の交渉があったとする推定は成り立ちうる。実際、海民の広域的な移動は、しばしばわれわれの想像を絶するものがあるので、後述するように、志摩と耽羅の間をそれぞれの海民が移動したことも、頭から否定してしまうわけにはいかないのである。 まして肥後の場合、「耽羅鰒」を負担したのは天草郡の海民であろうが、この地から耽羅まではきわめて近いのである。また豊後の「耽羅鰒」については、『豊後風土記』に「此の郡の百姓は、並(みな)、海浜の白水郎なり」といわれた海部郡の海民と関係のあることは間違いない。おそらくその根拠地としては、佐賀関辺が最も蓋然性が高いものと思われる。はるかに時代をへだてるとはいえ、この地の海士・海女の採取する鮑は、江戸時代以来、名産として知られ、安政五年(1856)佐賀関の漁民仲家太郎吉は大鱶を漁獲することのできる棕櫚縄を発明し、従弟の橋本権太郎とともに、小笠原、沖縄、九州西海岸、対馬などの遠海に出漁した。そして1877年(明治10、河岡は明治三年とする)二人は済州島、朝鮮半島近辺の海に行き、大量の漁獲を得たが、これが朝鮮半島近海への出漁のはじまりで、各県の漁民もみなこれにならったとされており、この地の漁民は明治に入ってからの公然たる朝鮮半島出漁の先陣を切っている(『佐賀関町史』)、また佐賀関の古老は三枚帆の船で朝鮮半島まで、比較的気楽にでかけたといわれ、佐賀関と済州島との間は、意外に深いところで結ばれていたように思われる。しかも加藤清正が肥後を領して以来、江戸時代を通じて、豊後の佐賀関は肥後熊本藩の領地となっており、佐賀関と肥後も不可分の関係にあった。 これを千年以前の豊後・肥後による「耽羅鰒」の貢納に関連させるのは、いささか飛躍に過ぎるといわれるであろうが、宮本の指摘する鐘ガ崎の海人の対馬・朝鮮半島への出漁や、さきの田中・高橋の研究が明らかにしているような、済州島と日本列島の海民同士の中世における密接な関係を考えるならば、この飛躍をあえてしてみることも、今後のこの分野の研究に展望をひらくために、決してマイナスにはなるまい。 (以下略)
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