海部と佐伯ーⅡ   
     
     
  速吸日女神社 (大分市佐賀関3329  
  佐賀関沖の豊後水道には、蛸(タコ)にまつわる伝説が残っています。紀元前667年、神武天皇東征の砌、速吸の瀬戸(豊後水道)の海底に大蛸が住みついており、潮の流れを鎮めるために守っていた神剣を、関に住む海女姉妹が海底深く潜って大蛸よりもらい受け、神武天皇に献上したと言われています。早吸日女神社(はやすひめじんじゃ)は、その神剣をご神体とした神社で、古くから厄除開運の神として地元の人の信仰を集めています。また、神剣を守っていた蛸も崇められており、蛸の絵を奉納して一定期間蛸を食べずに願い事をすると成就すると言われる「蛸断ち祈願」を行っている全国でも珍しい神社です。    
     
  海人の系譜   
     
 海人の文化や社会を考える場合、そこには一種の国際性があり、外来要素の受容において意外な積極性を見せることも稀ではないことを忘れてはならない。たとえば、『日本書紀』仁賢天皇 六年の条によれば、難波の玉作部鯽魚女(たますりべのふなめ)がカラマノハタケに嫁いで哭女(なきめ)を生んだ記事がある。宮本常一はこの記事から「朝鮮半島から来住した海人のいたことが知れる」と論じた。さらに、『伊予国風土記』逸文によれば乎知(おち)の郡御嶋(こおりみしま)つまり大三島に坐す大山積の神は、百済から渡ってきた神であり、また『豫章記』にいたっては、西国の海士宿海たちは、鉄人を大将として三韓から推古天皇のときに攻めてきた士卒の残党の足の筋を切って捨てたものの子孫たちだという説を唱えている。この事はもちろん伝説であって史実ではないが、それでも瀬戸内海の海人のなかに朝鮮渡来系のものがいるという伝承があったことはうかがわれる。
 その一方では、日本から外に出て行くものもいた。朝鮮の李朝初期のいわゆる投化倭人の出身は、対馬、壱岐、松浦の人が多かったという。日本と朝鮮の海人の間に、長期にわたる交流があったのである。
 このような交流によって、たんに人間が移動したばかりでなく、様々の習慣、信仰も広がっていったのに相違ない。たとえば朝鮮では、漁師たちは船体と船員の平安無事と漁運を祈ってペソナンを祀る。ペソナンは女神であるので、その神体として三色の布と鋏、糸、針や女性服をおくことがある。祀るのは船長室の一隅にしつらえた棚の上や、小さな木箱の中や、船首甲板下であったりする。そして船が暴風に遭ったりするとペソナンが泣くという。このペソナンが日本の船玉(霊)さまと非常に類似していることは明らかである。この類似は、日本と朝鮮の海人の間の長期にわたる交流の結果なのかもしれない。

 中国東海岸との関係も無視できないものがある。日本の海人と中国東海岸の水人との類似は早くから注意をひいていた。『日本書紀』、『万葉集』、『肥前国風土記』、『豊後国風土記』には、海人を白水郎と記した例がある。鴻巣速雄によれば、遣唐使の一行が揚子江下流で白水郎につらなる水人と接触し、「この『白水郎』の表記を、生態の似たわが国の西海の海人にも引き当てた」ものらしい。そればかりでない。『魏志』倭人伝に、倭の水人が、「好く沈没し魚蛤を捕え、文身し亦以て大魚、水禽を厭(はら)う」と記しているが、この伝統は後世の海女にうけつがれている。たとえば陸可彦は『ありのまゝ』四
(文化元年〈1807〉成立)に次のように記している。
 
 「西海海人多し、女のみなり、生涯眉を落とさず、紅粉をつけず、歯を染めず、海中に入り鮑をとる、男子の着る下帯のごときものを用いて、腰に長さ長さ七寸ばかりの、鉄にて作れる、弓の形のごとくなるものゝ、中程に穴ありて、其の側に八大竜王と彫りたる物を用ふ、是は鮑の海底の石に付きたるを放つものなり。八大竜王と彫るは、悪魚を避くる為といへり、海中に入り、呼吸二百息ばかりの間にして、浮かび出てヒューと一声を発す、此の声遠く聞ゆ。かねて腰に大いなる長さ四尺ばかりの縄を巻きて入る。此の間に鮑を挟みて浮かぶなり。
そして潜水漁法は中国では、古代の白水郎ばかりでなく、現代でも東部や南部で行われている。たとえば、舟山列島の定海では、内陸の池で潜水漁撈が行われているが、日本の海女のように、海中の鮑をとるところもある。面白い報告なので、少し詳しく紹介しよう。
 中国南端の雷州半島の港、湛江から船で一日かかる磠洲島の東海岸に、潭井村という小さな漁村がある。村の人たちは夏と秋になると鮑取りに忙しい。鮑は海中の岩かげに棲息し、大風や大波がなくては育たない。
 中国では、女ではなくて男が海に潜る。海士は背にはそれぞれ魚籠を背負い、それに数本の鉄の鈎棒をさしている。海士は深く息を吸い込んでから海の底に潜ると、這いながら岩についている鮑を探す。ふつう五分間くらい息を止めていることができる。慣れた漁師だと鉄の鈎棒で叩くだけで、鮑かどうか見分けられるが、経験の浅い者は一々探ってみなければならない。鮑は食用のほか、殻は漢方薬の材料で石決明(シーチェミン)と呼ばれる。鮑の中には真珠をもったものもある。
 鮑採取に伴う困難の一つは、岩にはまりこんで抜け出せなくなること、第二は鮫に追われること。第三は痒流で、これは一種の藻が潮に乗って流れて来るものだが、これにぶつかったら体中が痒くなる。第四は年中海に潜っていると、数年のうちに目がかすんで来、その上しょっちゅう息を止めているため、顔が黄色にはれ上がってくることがある。
 そして潜水漁撈以外にも日本と中国の海人のあいだには共通性があった。たとえば大魚や水禽を追い払うためにつけた倭の水人の文身(いれずみ)とは、すでに鳥居龍蔵が考えたように、呉越の竜の文様の文身の系統を引くものであったと考えられる。倭の水人は、文化的には呉越の水人と極めて近いものであったと考えられる。その後の時代においても、日本の海人と中国東海岸の海人の間には、いろいろ密接な関係があったらしい。たとえば、16世紀に中国東岸を荒らした倭寇のなかには中国人が多く、中国人の頭目もいたが、その一人の王直は日本の五島に根拠をおき、平戸に居宅をかまえていたのであった。
山民と海人 非平地民の生活と伝承』  日本民俗文化大系 5
1983年10月初版第一冊発行 小学館 普及版 4369円(税別)  


 
亀塚古墳(大分市里) 
4世紀末から5世紀初めに造られた、大分県下最大規模の前方後円墳である(国指定史跡) 
古くから海部王(あまべのきみ)の墓であると伝えられており、日本書紀にもこの地に「海人部」が設置されていた記録があることから、海部民(あまべのたみ)の首長が埋葬されていたと考えられる。 



藻塩を焼く 
 
    淡路島松帆の浦に 朝なぎに玉藻刈りつつ 夕凪に藻塩焼きつつ
     海人娘子(あまをとめ)ありとは聞けど
 

 製塩も古代海人の仕事だった。万葉集に藻塩を焼く海人を読み込んだ歌がみられる。次の歌にも、製塩に携わる海人の姿が見える。製塩に携わる海人は、藤蔓の繊維を編んだ目の粗い着物を着ていた。はたして、歌を詠む都人に海人の過酷な生活が見えていただろうか。

   藻塩焼く 煙になるゝ蜑(あま)人は 霞に春をわかずや有らむ

   ほし侘びぬ 蜑の刈り藻に塩たれて 我からかゝる袖の浦波


(たん、あま)
 
少数民族の名称
秦王朝、漢王朝、明王朝から中国南部に分布する少数民族グループを指し、主に漁業、狩猟、水上輸送に従事した。 晋王朝の「華陽国史」には「龍の野蛮人」が記録され、唐羽生の「牙墓地傑」には「林曼の洞窟龍」と記載され、宋王朝の「太平華宇智」には「家族が船を家として取った」と記録されている。(百度百科



古事記・日本書紀・風土記にあらわれる塩 
 国生み神話は藻塩採鹹を物語る
 
 記・紀の神話については古来多くの研究所がみられる。しかし、多くは神話の原型、オノコロ島の所在、天沼矛の実態、地方旧辞の段階の場所と時期、中央儀礼における宮廷神話として定着する時代、塩生産部民の推定などに片寄り、塩の生産工程を物語の発生源とする考察は、前川明久氏、荻原浅男氏、大林良太氏の三論程度である。いまそれらの発想をヒントとして当時の製塩工程を推測してみよう。
(中略)
 さて、この神話発生の時代においては、海藻が海水濃縮に使われたことがほぼ定説となっているが、海藻利用の最初は、海浜に打ちあげられた海藻が日照と風によって乾燥し、塩分が藻の各面に結晶付着する。よく乾燥したものを揉むか叩くかすると、微粒の塩と完全乾燥した藻の細片が混合して得られる。この形態が最初の食塩、すなわち「藻塩」と称された塩であったのかもしれない。しかし農耕生活による塩需要の増大をまかなうためには、次のような方法に移行しなければならなかったであろう。すなわち海藻をむしり取り、これを海浜の岩場、磯浜、砂浜をとはず、また竿を渡して稲かけのように海藻を大量に拡げ、あるいは吊るし干し、浜の一部に粘土壙を造り、土壙内面はおそらく焼成したであろうが、これに海水を入れておき、乾燥して結晶塩が付着した海藻を土壙の中に投入して掻き回し、塩分を溶出させる。ちなみにこの方式(海藻の代わりに砂を用いる)溶出方法は、平安中期~鎌倉中期に稼働したと推定される兵庫県赤穂市堂山の製塩遺跡(汲塩浜)で確認され、宮本常一氏も昭和前期の日本海岸における事例を
「かき集めた砂をオケオケ(置桶カ)に入れる。……砂を入れると塩水をかける。すると砂についていた塩が水にとけて濃い潮水ができる。これをトユにとったフネにとる。上水をくみこすのであって濾過するのではない。上水をとってしまうと砂は浜に戻す。……フネに入れた潮水はためておくと上水がうすく底水が濃いものとなるから静かに上水を汲みすてる。そして底水を自分の家にもって帰って塩釜で焚く」
と報告している。また昭和62年から発掘調査された茨城県沢田遺跡の溶出もこの方法ではなかったろうか。
 使った海藻は引き上げてまた浜に拡げて乾燥し塩分結晶が付くとまた投げ込む。
土壙の塩分はこのくり返し、先の分かれた木による押し付き引っ繰り返しなどの操作をくり返し、塩の溶出ー濃度の上昇に努力したであろう。時間をかけ、焼き石などを投入して音頭を上げたならば、鹹水濃度は飽和状態(24.5ボーメ度)近くまでなったであろう。土壙が「沼」(沼井=揚浜系溶出装置)の語源と思われる。押し突く棒が「矛」(沼井かきの語源)としてはどうであろう。かくてできあがった鹹水があとで述べる液状塩=・辛塩」であり、このような濃厚な飽和状態に近い鹹水が製塩土器に詰められたのではなかろうか。
また「こをろこをろ」(凝ろ疑ろ)の名詞化した語に氷があるが、瀬戸内塩田では、塩釜や
鹹水槽などに付着累積した石膏のことを「コーラ」(海水の氷だと教えてくれた人がいた)と称していたことは事実である。また昭和38年岡山県牛窓沖の前島で、製塩土器とともに浜辺で扁平な礫に、石膏が直径約5センチ、高さ約3センチほどに盛りあがって固着しているものを拾ったことがある。もちろん塩も同様に結晶する場合があったであろうが、これは波や雨で溶解流失したであろう。
 淤能碁呂島の形成を硫酸カルシウム(石膏)の累積と仮定すると、以上のような海水濃縮法が想定され、また国生み神話であるから、このような技法は、備讃瀬戸周辺では少なくとも土器製塩の開始期、あるいはそれ以前の塩釜による生塩生産の時代まで遡りうるのではなかろうか。また山窩の竹筒による天日製塩も、海藻によるこのような技法を組み合わせていたのではあるまいか。

 海水濃縮に使用する海藻はナノリソと呼ばれたホンダワラが、表面積が大きく、その一種であるウミトラノオなどは高い水位(小潮時の低潮線近く)の岩の上に生育するため、最も適当であったと考えられる。
古代日本の塩』 廣山堯道 廣山謙介 著 
  2003年6月10日初版発行 雄山閣 3800円(税別)
 
 近世初頭、佐伯市の大手前辺りは砂浜で、「塩屋千軒」と謳われるほど製塩業が盛んであったと聞く。佐伯に入封した毛利氏は、塩屋村の住民を立ち退かせて、浜を埋め立て城下町にしたというが、塩屋村はいつの時代からあったのだろうか。
四浦半島の先端近くに「蒲戸」という集落があるが、蒲戸は古代の竃戸(かまど=そうこ)ではなかっただろうか。長目半島(津久見市)にも「釜戸」という集落がある。

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