物理学者 長沼 伸一郎 氏が著作の「経済数学の直感的方法」を読んでいるが、氏の文章の中で気になる文面がある。
経済学が物理学を援用する形で発展してきたことは確かに認めるが、「経済学は損得のための学問」のように書かれている部分がある。経済学の一部分を切り抜き強調すれば、そういう部分があるとも解釈されるのは無理もないだろうが、損得という言葉は企業・個人のみの個的な用語である。ならば、国家の損得はどうであろう。つまりは国益となるが、マクロ経済学において損得の視点で分析されるようなことはない。(ただし、ゲーム理論の利得という観点から国力等を分析する論文があるかもしれないが。あるいは厚生経済学で社会的厚生を議論することもあるが、厚生自体に損得の考えはなく、あくまでも満足度あるいは幸福度の視点である。)
僕自身、長らくマクロ経済学を考えているが、そのような視点で考察したこともない。ひとつ感じているのは、要はバランスである。端的にいうなら、「消費と貯蓄のバランス」である。そこには一切損得のような俗的言葉で濁されるものでもない。経済学は個人主義を前面に押し出し合理的個人をインスタンス化しているが、貨幣的に観察して損をする個人を非合理的個人とみることはない。個人の価値観に基づく効用が最大化されることが合理的個人であることも説明づけられるのである。
「ブラック・ショールズの公式」で株式理論におけるポートフォリオは金融資本主義に多大な影響を与えているが、彼らが師事したミルトン・フリードマンが、「あれは経済学ではない。数学だ。」と言及している。僕は経済学の皮をかぶった数学と思っている。
学問は他の領域と重ねあったり、援用したり、といった学際があり得る。そういった特徴を保持しながら、新しい視点を備えた一面を持つ学問の発展があることは素晴らしいことだと思う。
一学者が数学を援用する経済学を「損得」という言葉を用いたことは、「経営学」と混濁しているのではないだろうか?馬鹿馬鹿しいにも程があると言っておく。
物理学の研究も経済とはきっても切り離せぬ関係がある。それは予算である。科学研究に恐らく日本も諸外国と同様、資源配分を行っていることは周知の事実である。この事実を持って、これは損、これは得といった俗的言葉での判断、採用評価できないはずである。それでも損得という言葉にこだわるなら、今流行りのポピュリズム的発想である。
経済学は決して損得の学問ではない。少々、アグレッシブにいうならば、我々、資本主義社会のバックグラウンドにある理論的根幹を支えてきたのが経済学である。