宅浪時代

もう、30数年以上も前の話だ。家庭の金銭状況を考え、独り努力することを誓った。しかし、実際のところ僕の周りの友人らは 全て進路が決まり、自分には当てもなく、ぼやけて煌びやかな光が差し込むことのない、暗い空間を彷徨っていて、 将来の展望も描けないような不安に駆られた日々だった。国立一本で、県内大学だけの志望であったために、 合格しなかったらどうしようか?それが、繰り返し心の奥底から反響していた。その時代、ニートという言葉は、 まだ存在していなかったが、まさに、そういう状況に追い込まれるような面持ちであった。さらに悪いことに、 元カノに再度告白して撃沈され、深い海底に沈み込んでいくのであった。
もう蒲江高校は廃校になって存在はしないが、 ほぼ地元の若者が進学する町内向けの高校であった。進学クラスはあったものの、先輩らでの国立大学進学者は数えるほどであった。 そういうことも手伝ってか、宅浪してまで国立を目指す者に手を差し伸べてやろうと支援をくださった先生がいらした。 神官もしていた現国担当の塩月先生だった。やはり僕のことを知っていた熊谷校長先生と相談され、校舎の一室を貸すので、 学校で勉強してはどうかと提案をして下さった。そのご提案を受け入れ、ほぼ毎日、また通学することになった。 こうして高校4年生が始まることになった。当初は現役時と同様に毎日自転車で通学していた。 貸された部屋は図書室の裏側にあるとても静かな部屋だった。現役生の教室とは離れており、 昼休みでも続けて学習できるほど、集中してやるにはもってこいであった。毎日16時間以上はしたであろうか。 当初は苦手な数学が伸び悩み、涙をこぼす日々であった。しかし、6月頃、自宅の一室で、進研ゼミのベクトル解析の問題を解きながら 解らず、タバコをふかしながら、ボーっとしていた時、瞬時に閃光が頭の中に走り、いや、眼内か?その問題をスラスラと解答できたのである。 この現象には高校3年時でのある認識経験が影響したと思っている。 数学での授業中、池田先生が、ある生徒をさして解答を求めていたとき、先生が発した言葉が脳幹にしみたのである。 「わからん、わからんいう前によう考えてみらんか。」俺は実際に分からない問題は逃げてばかりで、 「知ろう、考えて考え抜く、その努力が足りなさ過ぎた。」と痛感した。それ以来、難しい問題でもある程度は格闘していたのである。 そうして、もう臆することなくドンドン突き進むだけであった。模試ではA判定を受け、もうこれで落ちても「しゃあないな。」 と考えていた。
宅浪を経験して得た教訓とは、自らの能力を卑下して、知ろうとする意志を捨て去ることは、 中・高生時では早いのではないか、といことである。それほど、僕は老いてはいなかったわけだが、 大器晩成ということはあり得ると思う。僕が数学偏差値を大幅に引き上げることに成功したのは、数学が苦手であっても、 嫌いではなかったことが、最大の要因であったのではないか?そこで、もがいて、もがいて、たどり着いた結果である。 中学生で、はやばやと自分の能力に幕引きを図る子が多いと思うが、それではあまりに惜しいと、断言しておきたい。

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