住友金属鉱山時代-Ⅰ

僕は約6年半、住友金属鉱山に在籍した。東京新橋にある本社勤務は4年半と短いものであったが、相当に中身の濃い日々を 過ごした。いわゆるエリートサラリーマンであったわけだが、僕はそんなことには固執しない人間である。ただ、良き人生の 勉強をさせてもらった。先輩社員、上司らには相当可愛がってもらった。退職日が近づくにつれて、何かしら僕を昼食に誰と なく誘っていた。今思うと、退職を思いとどまらせようとしていたのだな。新人研修時にお世話になった当時は人事部課長であり 、退職日2、3日前に同じ階に部署がある貴金属室へと転属したO氏と話しをする機会があった。僕の会社の人事評価を話して くれたのだ。僕は同期の中で総合で優秀と評価されていたらしい。東大・慶応・早稲田出身者がいた中で。メディアがよく 高偏差値大学を取り上げるが、そんなものはくだらないと考えるべきだ。あくまでも自分という個性を発揮させることだ。早稲田 大学政経をでた者がいた。確かに模試で全国2番になったヤツだったから、頭は良かった。しかし、行動力に欠けていた。 金属事業室という同じ部署にいて、僕はニッケル・フェロニッケル事業を担当し、彼は鉛・亜鉛事業を担当していた。 彼がくる前は僕が以前、鉛・亜鉛事業を担当していた。ある時、鉛・亜鉛工場の経理課長から自分に電話が入ったのだ。受け持つ 事業が違う部署から電話で珍しいと思ったのだが、課長曰く「彼に依頼している件があるのだが、全然、動いてくれない。悪いが、 山本君がやってくれないか。」と。自分の仕事もあったのだが、あしらうわけにもいかず引き受けることにした。「あいつ、こんな ことに何で時間かけてんだ?」と確か思ったはずだ。あと、やめてから同期の一人と電話で僕が在籍した部署の執行役員が「山本を 辞めさせるべきではなかった。」と語ったと。サラリーマン冥利につきる言葉だろう。最高の評価時に大企業を辞めた、みなさんに 悪い印象を持たれずに去れた、感慨深いものだ。さて、脱線したが、本題へ移ろう。
就活から住友金属鉱山時代までを取り上げてみようと思う。僕の就職活動は5回生の7月から始まった。 大分大学経済学科の大学院合格を果たしていたのだが、講義への不出席がたたり(大学にいったものはわからないだろうが、 必ずしも100%は出席することはしない。ただ、興味のあるものだけに、出席し過ぎた。) わずか一科目が不可になったために 卒業できず、父の反対もあり、進学を断念することになったためだ。7月といえば、もうほとんどの学生は内定が決まっていた 時期である。就職できるのか?と不安はあったが、悲観的ではなかった。受けた企業は、NTT、 中央信託銀行(バブル崩壊を起因とする合併でその名は無くなったはず)、日本銀行、そして住友金属鉱山であった。 NTT、中央信託銀行はあまり脈が無さそうだと感じていた。日本銀行は当時の福岡支店の副支店長が大分大学OBで出身大学から 来てほしいとの切望もあり、大学へ求人を出していたのかもしれない。次長面接までいったが、結局は採用通知をもらえなかった。 しかし、本店にいくまでに、4回から5回、大分支店へ足を運ばなければならかった。住友金属鉱山はテレビでレアメタルの特集 を見て資源産業に興味が出てきて、受けてみようと決めた。福岡支店へ2、3回行ったあと、本社面接に進んだ。 20人ぐらいの学生が来ていただろうか。東京6大学出身者がほとんどだったろう。受験偏差値でいえば、僕の大学は負けるだろうが、 それは入るときのことであって、出るときはそうとは限らない。僕は就職のことを考えて経済学を学んでいたわけではないが、 このことこそ僕の唯一の武器であり、個性だと考えていた。一般の社会通念と現実にはかなりの差があると思うが、 地方国立大学から大企業に入ることは珍しいことではない。大分大学のOBに優れた人が多く、企業も取ってみようと考えるの かもしれない。もちろん他国立大学もそうだろうが。
だが、今の学生にはひとつ言っておきたいが、脳の柔らかい若いときこそ、 脳をもっと働かせ柔軟な発想ができるようにしておくべきだ。経済学はその最たる良き手段であると思っている。 理論が現実を説明できないとしても。
ちょっと脱線したが、その面接で採用されるのは、わずか1人だと事前に知らされた。 やるっきゃなかった。専門試験も難なくこなした。100%のできだったろう。その日、ひとりだけ人事に呼ばれ、 すぐに採用か否かの結果がほしいかを聞いてきた。日本銀行の結果はわかっていたが、日本銀行を餌にして、すぐに返事をお願いした。 そして、採用に至ったわけである。
各種、各場所で研修が行われ、6月兵庫県加古郡播磨町に位置する、 鉛・亜鉛工場である播磨事業所の業務部業務課経理に配属された。最初は工場内研修ということで、現場勤務と同じように3勤交代 を経験した。主たる目的は、現場で注視している管理内容の認知、設備の働きを知ること、現場作業員との接点をもつことであった。 現場研修後も、各設備の名称、それら働きや、原料(海外鉱石が主)がどのような設備を通過して、鉛や亜鉛に変化していくのかを 完璧に覚えなければならなかった。当然、誰かが手取り、足取り教えてくれるわけでもない。全ては自分の頭脳にかかっていた。 ヘルメット・安全靴を身に着け、毎日、時間があれば現場を見て回った。現場で働く社員の人たちにも積極的に質問をしていった。 学卒(大卒はこう呼ばれていた)がまた来たかと、当初、現場勤務社員らは迷惑顔をしていた。僕は変なプライドを持つことなく、 接していった。後になって、この経験は十分助かった。現場で何かあったとき、すぐに誰となく情報を集めることができたからである。
しかし、僕の指導員は厳しい人だった。後になって聞いたが、その人が指導員になった新入社員が3名ぐらい 辞めていたということだった。強烈な不安にかられながらも、今自分ができることをやるのだ、という気力が以後の モチベーションとなった。現場研修期間が過ぎて、一番、つらい仕事になったのが、予算作業でのコピー作業だった。 コンビニにあるようなコピー機ではなく、ガリ版刷りで紙を一枚ずつ合わせてインクを塗ってゆくものだった。 予算書は100枚以上あり、立ち続けの作業だった。2,3日間は深夜まで続いたのではないか。

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