失敗論

失敗学という学問があるそうだが、これから論じようすることは、そこまで掘り下げるようなものではない。
企業というチームの中で失敗をいかに、上手く活かしていくかが主題である。現在はデジタル世界となり、 あらゆる情報が保存可能となった。社会的に見れば、ビッグデータという言葉が現れるようになった。 企業は成功論ばかりが、もてはやされるが、企業内部の中で最も重要なのは失敗の蓄積ではなかろうか。 蓄積には勿論、それらデータが共有されることが前提となる。
企業の時系列的行動には過去と類似した問題が多々起こり得ると 考えられる。人も変われば、方法論も変わりうる。だが、発想の何がしかには何かしらのclueがあろう。 我々は過去・現在の書物を読み、それらを糧として思考、行為を巡らしているのが通常だろう。
生じた行為の錯誤は必ず文書化、明確化すべきである。どこが問題であったのかという所在を認識し、原因を追求し、 結果として何がまずかったのか、論理分析を展開すべきである。しかし、問題がある。組織において個人やグループで提案された 議案が役員会で決定承認され、担当執行役員がいたとしても全社的になされたものであった場合、責任の所在をどこに置くかという 問題である。常識的には代表取締役が引責辞任の方策がとられるだろうが、失敗が単なる辞任で終わってしまえば、ここで論じる点は 皆無となり、一つも企業の糧となりはしないだろう。通常、大企業では、プロパーで勤務した社員が出世してリーダーとして 選ばれるのであるから、失敗例を蓄積・共有するとは重要である。
上記問題を回避する一つの方法として、役員会の機能とは 切り離された独立の部署を設置することが考えられよう。大企業には財務上の監査役がいるが、いわば、この種の実行為に関する 監察的役目を設けるのである。さらに、当該部署の機能に即して、組織の在り方を根本的に考察することも必要であろう。
不思議なことに、公的にはこういう部類の部署があるが、企業には存在していないように思える。ただ、株主からの批判を受け、 謝罪・辞任では脳が無かろう。
私的意見だが、これからは成功例に浸るのではなく、失敗例を蓄積・共有した企業が成功を確かにし、 成長してゆく可能性が高いのではなかろうか。もちろん、このデータは企業財産であり、機密に相当するものであるから、 外部に公表する必要はない。また、全社員への公表ではなく、企業で定めた一定の社員、例えば管理職あるいは課長級以上とする のも良いだろう。そして、秘匿に関して十分な契約関係を敷いておくことは言うまでもない。


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