大学とは

大学を卒業して25年が経とうとしている。父親から県内の国立大学だけを志望しろ と言われ、大分大学の経済学部に入学した。僕自身はどこの大学であろうと学ぶ場所に変わりはないし、大学を一流にするも、 二流にするも自分自身であると考えていた。経済学部では数学が必要だと考え、高校では学習はしなかった理系専攻者が学ぶ 数学Ⅲを入学前、事前に独習した。それほど『大学で学ぶ』ことへの期待感が高かった。しかし、入って初めて大学の実態を知る ことになる。経済学部生の大部分を占める進学校出身の連中の意識が低レベルであった。地方大学に来るのは当然、成績下部の者 が入ってくるので、学問に対する高揚感も持てず、自分の可能性も見下している連中であった。そういう者が入ってくると大学教授 たちも当然のごとく、講義レベルを下げざるを得なくなる。例えば、入試で数学科目が選択制になっていたかもしれないが、 用いられたテキストが社会人がレビューに用いるような20年前に発行された単行本だったのである。さらに、数学もわずか フレッシュマン(一年生)のときでしかなかった。初歩の微分方程式、線形代数、数Ⅲを独習していた者に満足できるわけがない。 図書館で見つけた数学の洋書のアメリカ人の著者はsummer seminarで数学を学んだとあった。確か自分の大学にも夏期ゼミがあったが 数学はなかった。真剣に経済学を学ぼうとする者を考慮したカリキュラム構成になってはいなかったのである。その数学教授に2回生時、質問に行ったら相手にしてくれなかった。どうせ低レベルの質問とでも思ったのだろう。だが、もちろん真摯に対応してくれた計量経済学の教授もいたことは事実だが。結局はヤル気のない学生ばかりしかいない大学が大学の名を名乗る資格があろうか?学生も卒業証書を就職へのパスポートとしか考えていない。3回生時に演習という一人の教授につくのだが、これもひどかった。誰ひとり予習をしてくるわけでもなく、議論も生まれるはずもない。『雇用・利子及び貨幣の一般理論』で有名なジョン・メイナード・ケインズは、その著書の中でこういっている。「経済学を一人で考えることほど馬鹿げたことはない。」経済学は歴史的にみて、多様な人々が関わって社会科学の名誉ある地位を勝ち得た。社会科学の中でノーベル賞は経済学しかない。弁護士、教授、神学者、企業家等々あらゆる市井の人々が経済学を論じて、経済学の今がある。議論を通じて経済学は突き進んでゆく。議論の場がない大学の経済学部に何の価値があるというのだろうか。正直者が馬鹿をみる社会が、最高学府たる大学に現実に存在した、いや、今も存在しているだろう。大学の第一義的レゾン・デートル(存在理由)は「学び、議論すること」にある。昔から言われているが日本の大学は入るのが難しく、出るのが容易い。一方、アメリカの大学は入学はしやすいが卒業が難しいと。アメリカ式が社会を高く意識していると思う。つまり、社会に対して恥ずべきない学生を送り出すと。
今でも思うが、僕は〇〇大学に行ったわけではなく、あくまでも僕は大学に行ったつもりである。ゆえに、OB,OGで構成される同窓会より大学への寄付の通知が時折あるが、一切、無視している。
相当に怨念じみたように書き綴ってきたが、確かに、上述した計量経済学の教授や、僕らが大学院を目指すために、ケインズ一般理論 の原書を一緒になって輪読される時間を作ってくれた経済地理学の助教授もいらした。それら先生方には本当に感謝している。
これは2013年ホームページ開設時の投稿である。再度、思うことは大学院に進学することを念頭においていなくても、20~30 名の学生で真剣に経済学を学ぼうとする意思を持つものを吸い上げる研究専攻ゼミなるものを創設し、大いに学んでもらうべきだ。 地方の国立大学の個性をださなくては。それに経済学は実に数学を扱うのであるから、必須で受験科目にするべきである。大学が逃げて どうする。今や欧米・新興国の追い上げに遭う、日本の経済社会に足りないのは、文系屋らの能力、戦略・戦術能力の不足である。
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