浦方の人々と漁業 


津久見市史 第三編 歴史の展開 第三章 近世

 浦方の主な産業は言うまでもなく漁業である。漁業は採取産業という性格を持つ。それゆえ、漁業に携わる漁民は、本来漁を求めて流浪するという。『大分県史』近世篇Ⅰにみえる宇左衛門家・藤兵衛家はその一例を示している。近世初期には、彼らは豊後水道沿いの浦々を転々と渡って魚を追い求めている。津久見地域についていえば、前者は保戸嶋に、後者は網代浦に居住したことがある。近世封建社会では、農民を土地に縛り付けることが支配の基本である。漁民といえども例外とはなりえない。そのため、藩は彼らの定住を図ろうとする。

① 元和六年(1620)網代浦あての触書
その浦中のかゝり内海にて、あらめ・ひしき・わかめ・もつくその外何にても海草の類、旅人に少しも取らせ申すまじく候、たとい、浦をうけ候て取り申し候共、取らせ候事無用に候、その浦百姓共取り候て旅人にうり候事は苦しからず候、いかほど取り売らせ申すべく候、その浦中の者共取り候てうり候へば、すきわいのたりにも成る事に候間、…

②   寛永17年(1640) 津久見村あて触書
浦々にて旅網いはし引き候義、先年より御定めの間、…前あじろ一番網地下の者とも引き候て、その次二番あみたび人参り候はヾ引かせ申すべく候、端あじろの義、此も御定のごとくたびあみその所へ参り次第一番網にても引かせ申すべく候

③    年不詳(元和期) 津久見村あて触書
その浦組中山焼き候事、当年より堅く無用に候、その仔細は山しげらず候へばいわし寄り申さず候旨聞き届け候

① は、網代浦の農民が地元の海岸で海藻類を採取して他領に売るのは構わない。しかし、他領の漁民が網代浦にきて採取するのは絶対に許さないというものである。千怒村にも同じ触書が出されている。
②  は、鰯漁の場合で、一番網は地元の漁民に限るという。ただし、二番網と「端あじろ」は他領の漁民でもよい。ともに海洋資源の現地主義が貫かれている。
③  は、海岸部で山焼きをすると鰯の寄り付きが悪くなるので、今年からは津久見浦での山焼きを絶対に禁止するというものである。いずれも領内の資源を保護することで漁業の安定を図り、ひいては漁民の定住化を促そうという政策である。

 こうした中で、次第に漁民の定住が進み、近世村落が形成されてくる。先にみた宇左衛門家や藤兵衛家の定住は元和期であり、佐伯領の浦方では、このころ近世村落の形成が進んだとされる。


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