天保9年(1838)9月25日、鳩浦から一艘の廻船が出帆した。船主は辰蔵と言い、鳩浦の百姓である。船の大きさは三枚帆というから22.8石積である。辰蔵とやはり鳩浦百姓吉松の、合わせて二人が乗り組んだ。積み荷は佐伯領最大の産物である干鰯、それに魚の塩物。目指す目的地は讃州丸亀(香川県)。八日間の航海の後、七月三日に丸亀に入港した。ここで積み荷を売り払い、かわりに米と麦を買うはずであった。ところが丸亀は「津留」のため、穀類の買い付けができない。日向(宮崎県)まで下れば、穀類の値段も安いだろうということで、急きょ船を曳き返すことになった。五日に丸亀を立ち、二十四日には日向国福嶋に着いた。しかし、ここも「津留」である。やっとのことで米二俵を手に入れたにすぎない。やむなく二十八日には福嶋を出帆し、十一月朔日に油津に入港、暫く天気のころ合いを見計らい、十日の夜四ツ(午後十時)ごろ油津を出帆し、翌十一日暮れ六ツ時(午後六時)ごろ佐伯領内に入った。大嶋を過ぎたところで強い南風と高浪に襲われ、「汐込に相成」って遭難した。これは天保九年十一月十五日付の「御用日記」の記事である。
佐伯領の人々は、その地理的特性から干鰯など海産物をはじめとして、ほかに樵木や紙といった特産品を売り、代わりに不足する米や麦など穀類を買い入れることに生きる道を見出した。そのため、どこの浦々も廻船(商船)の出入りが頻繁にみられる。津久見浦から保戸嶋にかけての浦々も例外ではない。廻船のうち、領外の者が所有する廻船を旅船、領内の者が持つ船を地船といった。大型船はほとんどが大坂や瀬戸内の廻船問屋の所有になることから、輸送力の全体から見れば、旅船の占める比重が大きいことは否定できない。しかし、津久見地域の廻船もここにあげた例のように瀬戸内各地に出向いて盛んに活動している。
「御用日記」によれば、延宝三年(1675)には津久見浦組庄屋仁右衛門所有の廻船が大坂に上がっているし、同七年には津久見村竹右衛門の持ち船が大坂から藩の「御用瓦」を積み帰った。また元禄四年(1691)に樵木を積んで上方に向かった津久見村丹羽久兵衛の廻船が、途中備後国(広島県)内田嶋の沖で遭難している。この丹羽久兵衛とは近世初頭から津久見村に居住する浪人で、廻船業のほか酒造業を営んだ。宝永六年(1709)に郡代の支配下にはいるまでは藩士としての扱いを受けていたようで、その後も代々丹羽久兵衛を名乗り、幕末に至るまで藩から手厚い保護を受けた。
ところで、元禄五年には津久見村孫兵衛所有の十端帆の廻船が藩に徴用された。さらに宝永二年にも藩の「御米船」として津久見村久右衛門の持ち船が使われるなど、近世前期には農民の持ち船が藩の「御用」を受けることも多かった。
享保十四年(1729)に、佐伯藩は領内全域で二〇〇石積以上の廻船の所在調査を行った。それによれば、領内全体で八艘の廻船が書き上げられている。津久見地区では、津久見村又兵衛の一六端帆(五〇〇石積)と福良浦喜三郎の一一端帆(二〇〇石積)の二艘が該当した。これは、享保十二年に大坂の問屋から二〇〇石積以上の廻船の有無について、鳩浦・落野浦・津久見浦組などに問い合わせがあったことを背景にしているものと考えられる。こうしてみると、領内では二〇〇石以上の大型船が非常に少ない。佐伯藩では船の大きさを、三枚帆、一〇端帆のように枚帆、あるいは端(反)帆という言い方で表す。その場合、五枚以下を枚帆、六枚以上を反帆と区別した。そして帆反ごとに船運上や帆別銀といった運上額が決められた。
時期は幕末まで下がるが、元治元年(1864)の調査によれば、江ノ浦には六艘の廻船が所有されている。内訳は五枚帆が一艘、三枚帆が五艘である。すべて小型船である。
廻船の新規建造状況
年
|
船 主
|
船の大きさ
|
建 造 地
|
寛政四年(1792)
|
津久見浦 : 庄右衛門
|
5枚帆
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上ノ関(山口県)
|
〃
|
保戸嶋 : 政之丞
|
〃
|
大 坂(大阪府)
|
天保三年(1832)
|
福良浦 : 雅右衛門
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4枚帆
|
福良浦
|
〃
|
中田村 : 弥右衛門
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10反帆
|
大 坂(大阪府)
|
〃
|
保戸嶋 : 丹四郎
|
4枚帆
|
牛 窓(岡山県)
|
〃
|
落野浦 : 三代吉
|
〃
|
内野浦(佐伯市)
|
〃
|
〃 : 源吉
|
5枚帆
|
室 積(山口県)
|
上の表は寛政四年(1792)と天保三年(1832)の新規建造廻船を「御用日記」から抜き出したものである。天保三年の弥右衛門を除くとやはり小型船ばかりである。どこで建造したかをみると、大坂や瀬戸内といった造船業の先進地が多い。しかし小型船ではあるが、領内でも建造されている。佐伯領の造船業は安芸国(広島県)倉橋の船大工たちによって育てられた。元禄九年(1696)、倉橋船大工甚兵衛が鳩浦に、同じく倉橋船大工の安右衛門と伊予国(愛媛県)三津浜の船大工源八が保戸嶋にそれぞれ入職している。以後も「御用日記」に倉橋島船大工の記事が毎年のようにみえる。彼らは一定期間領内に居住し、仕事が終われば倉橋に帰った。いわば出稼ぎである。
では次に、こうして造られた廻船がどのような活躍をしたかを「御用日記」でみてみよう。正徳五年(1715)津久見村又兵衛船が堅炭1240俵を積んで津久見浦を出帆した。荷主は別の人物で又兵衛は荷主から運賃を取って運送を引き受ける。この場合荷物の権利は依然として荷主のもとにあり、売り捌き先なども荷主の意向に左右される。これを運賃積みという。ほかに買い積といって船持ちが荷主から荷物を買い取って積み込む方法もあった。元文二年(1737)に福良浦の庄兵衛船が臼杵領徳浦で竹を買い積みにして瀬戸内で売り払っているのはその一例である。
享保二十年(1735)、落野浦善六所有の六反帆の廻船が「当分荷物御座無く候に付、商売のためから船にて日向表え罷り越」した。領内には積み込むべき荷物がないため、空船のまま日向国に回送して、そこで運ぶべき荷物を探そうというのである。いわば旅船として他領で商売をするわけである。
次の表は必ずしも年代がはっきりしないのもあるが、19世紀の津久見廻船の活動をよく示している。これはⅠⅡとも広島県竹原市忠海にある廻船問屋の「御客帳」から津久見関係を選んだものである。廻船問屋にとって廻船は命綱である。それゆえ、どこの廻船がいつ、何を持って来たかは最高度の企業秘密として克明に記録された。それが「御客帳」である。そこには廻船が浦ごとに整理されている。
Ⅰ羽白家「御客帳」では、保戸嶋・落野浦それに津久見浦が独立して記されている。さらに「佐伯附込」として鳩浦・日見浦の廻船もみえる。積荷はとうぜん海産物ばかりである。具体的な品目については、浦によってそれぞれ特色がある。落野浦からの積荷はすべて干鰯である。津久見浦も干鰯が多い。これに対し、保戸嶋はわずかに鯖干鰯が一件あるだけである。しかも、鰯を原料とするふつうの干鰯とは違う。鰯は、そのかわり加工されずにそのまま運ばれている。ほかに海草のあらめも保戸嶋から入荷している。一方、販売ではなく、買い付けのため入港する廻船もある。塩を買い付けにきた亀屋甚五郎船や、なる屋佐代松船の栄吉丸がそれである。これは空船できて塩を買い入れたものか、それとも売り物は別の問屋に卸したものかははっきりしない。逆に干鰯や鰯を売りにきた廻船が、ここでほかのものを仕入れなかったかどうかも断定できない。ただはっきり言えることは、同じ問屋では売り買いを同時にしてはいないことだけである。
御客帳にみえる津久見廻船
Ⅰ.羽白家「御客帳」
年 |
浦 名 |
船名 : 荷主 |
目 的 |
申年 (年不詳) |
保戸嶋 |
? : 喜四郎 |
あらめ |
〃 |
〃 |
? : 平 八 |
? |
子年 (年不詳) |
〃 |
? : 丈右衛門 |
鰯 |
卯年 (年不詳) |
〃 |
? : 幸右衛門 |
鰯俵成られ |
〃 |
〃 |
? : 次郎右衛門 |
鰯俵成られ 御売人 |
巳年 (年不詳) |
〃 |
? ; 亀屋甚五郎 |
塩御買 |
辰年 ( 〃 ) |
〃 |
? : しまや太三郎 |
? |
子年 ( 〃 ) |
〃 |
? : 清左衛門・とな八 |
あらめ |
卯年 ( 〃 ) |
〃 |
? : 小右衛門 |
鰯積御出 |
文政三年(1820) |
〃 |
永福丸 : なるや才松・徳次郎 |
鯖干鰯 |
〃 |
〃 |
永大丸 : なるや栄吉 |
いわし |
〃 |
〃 |
栄吉丸 : なるや佐代松 |
塩御買 |
子年 (年不詳) |
落野浦 |
? : 重兵衛 |
干鰯御売 |
丑年 (年不詳) |
〃 |
? : 大ツカ又左衛門 |
干鰯御売 |
〃 |
〃 |
? : 日向屋又右衛門 |
干鰯御売 |
〃 |
〃 |
? : 日向屋忠助 |
干鰯御売 |
〃 |
〃 |
? : 日向屋佐吉 |
干鰯御売 |
辰年 (年不詳) |
〃 |
日出丸 : 魚屋政右衛門 |
干鰯才入 |
寅年 ( 〃 ) |
〃 |
? : 岩田屋市郎兵衛 |
干鰯 |
午年 ( 〃 ) |
津久見浦 |
? : 明石屋弥兵衛 |
? |
酉年 ( 〃 ) |
〃 |
? : 市左衛門 |
干鰯御売 |
丑年 ( 〃 ) |
〃 |
? : 曽之七 |
いわし |
卯年 ( 〃 ) |
〃 |
? : 長右衛門 |
いわし俵成られ |
申年 ( 〃 ) |
〃 |
? : 善 茂 |
干鰯御売 |
酉年 ( 〃 ) |
〃 |
? : 弥 吉 |
〃 |
〃 |
〃 |
? : 権兵衛 |
? |
巳年 ( 〃 ) |
〃 |
? : 松兵衛 |
干鰯売 |
申年 (年不詳) |
津久見浦 |
? : 清右衛門 |
干鰯 |
〃 |
〃 |
? : 善右衛門 |
干鰯 |
未年 (年不詳) |
〃 |
? : 卯 八 |
? |
辰年 (年不詳) |
〃 |
? : 庄兵衛 |
下り御出 |
申年 ( 〃 ) |
日見浦 |
大徳丸 : 徳 蔵 |
鰯御売 |
丑年 ( 〃 ) |
津久見浦 |
? : 三原屋万兵衛 |
籠あら刺干 |
寅年 ( 〃 ) |
〃 |
神功丸 : 油屋卯平 |
? |
〃 |
〃 |
住吉丸 : 油屋喜平 |
干鰯売られ候 |
? |
網代浦 |
栄徳丸 : あみや嘉次郎 |
干鰯入津 |
? |
鳩 浦 |
? : 升田屋利三次 |
? |
子年 (年不詳) |
日見浦 |
? : 松 次 |
干鰯御売 |
天保四(1833) |
鳩 浦 |
相吉丸 : 升屋増太郎 |
〃 |
〃 |
〃 |
大王丸 : 角屋右衛門 |
干鰯67俵御売 |
〃 |
〃 |
相吉丸 : 升屋清右衛門 |
干鰯7俵御売 |
Ⅱ 荒木家「御客帳」
年 |
浦 名 |
船 名 : 網主 |
目 的 |
亥年 (年不詳) |
落野浦 |
? : 藤 吉 |
干鰯御売成られ |
〃 |
〃 |
胡子丸 : 豊五郎 |
いわし御売 |
辰年 (年不詳) |
〃 |
天神丸 : 利太郎 |
あいものにて御出 |
文政11 (1828) |
保戸嶋 |
? : 古金屋忠蔵 |
あわひにて御出 |
文政12 (1829) |
津久見浦 |
? : 車屋嘉吉衛門 |
石灰にて御出 |
文久 2 (1862) |
〃 |
永福丸 : 米屋佐兵衛 |
とり干鰯にて御出 |
元治元 (1864) |
岩屋村 |
明永丸 : 米屋喜作 |
? |
慶応元 (1865) |
広 浦 |
灘吉丸 : 米屋政吉 |
佐伯かこ |
2 (1866) |
〃 |
住吉丸 : 油屋喜平 |
櫨うでにて御出並石灰御用 |
明治元 (1868) |
津久見浦 |
万徳丸 : 金右衛門 |
かごにて御出 |
2 (1869) |
網代浦 |
天神丸 : 米屋幸四郎 |
塩積成られ候 |
3 (1870) |
保戸嶋 |
天神丸 : 胡子屋清助 |
しびにて御出 |
〃 |
日見浦 |
権助丸 : 油屋長太郎 |
塩積成られ候 |
〃 |
網代浦 |
天神丸 : 幸四郎 |
麦・塩買成られ候 |
〃 |
福良浦 |
かん栄丸 : しつ田直助 |
目さしにて御出 |
Ⅱの荒木家「御客帳」では、独立してとりあげられているのは落野浦だけである。ほかの浦は「佐伯附込」の中に一括してあげられているにすぎない。落野浦はⅠⅡともに独立して記されており、津久見地区では最大のお客さんであった。
積荷をみると、羽白家と違って干鰯が比較的少ない。落野浦の仲屋藤吉と文久二年(1862)の津久見の半屋佐兵衛の二例にとどまる。全体としては籠鰯・塩物など海産物が大半を占めるものの、石灰や櫨などの海産物以外の特産物の存在も目につく。問屋によって専門に扱う商品が異なっているのであろう。そうした中で保戸嶋だけは、ここでも鮑・鮪といった魚介類がそのままの形で運ばれている。買い付け商品では塩のほかに麦がみえる。また、両者は時期がほぼ重なり合うにもかかわらず、同じ廻船と思しきものはまったくない。廻船ごとに懇意とする問屋が決まっていたのであろう。
これまで荷受け側の問屋からみてきたので今度は積み出し側からみよう。
下の表は元治元年(1864)と慶応元年(1865)に江ノ浦から出帆した廻船の積荷を整理したものである。ほとんどが海産物である。やはり干鰯と塩魚が大半を占める。魚の種類は鰯・鯖のほか鰹・鮪もみえる。海産物以外では何といっても徳右衛門船の運んだみかんが注目される。さすが津久見の面目躍如といったところである。
表14 江ノ浦の産物出荷状況
Ⅰ 元治元年(1864)
船 主 |
船の大きさ |
積 荷 |
江ノ浦 : 宇右衛門 |
3枚帆 |
塩 物 |
〃 : 〃 |
〃 |
塩物・鯵目刺 |
岩屋村 : 善助 |
〃 |
塩 物 |
江ノ浦 : 定五郎 |
〃 |
塩物・干鰯 |
〃 : 宇右衛門 |
〃 |
塩物・醤油 |
〃 : 徳右衛門 |
〃 |
鯵目刺 |
〃 : 弥四郎 |
5枚帆 |
煮干鰯 |
〃 : 定五郎 |
3枚帆 |
目刺 |
〃 : 弥四郎 |
〃 |
目刺・煮干鰯 |
〃 : 定五郎 |
〃 |
目刺・塩物 |
〃 : 弥四郎 |
5枚帆 |
煮干鰯・浜干鰯・塩物 |
〃 : 宇右衛門 |
3枚帆 |
目刺・塩物 |
〃 : 定五郎 |
〃 |
? |
Ⅱ 慶応元年(1865)
船 主 |
積荷及び数量 |
網代浦 : 弥兵衛 |
浜干鰯6俵 いりこ9斗 |
讃岐国 : 喜兵衛 |
干鰯6俵 いりこ1.9斗 |
日見浦 : 儀 助 |
取干鰯29俵 いりこ3石 浜干鰯10俵 |
江ノ浦 : 弥四郎 |
取干鰯71俵 浜干鰯17俵 |
江ノ浦 : 宇右衛門 |
鮪7本 |
網代浦 : 四郎平 |
鯵割干身800 浜干鰯3俵 |
讃岐国 : 喜兵衛 |
浜干鰯1俵 干鰯3500 |
落野浦 : 儀助 |
塩鯖640 干鯵1050 |
網代浦 : 半助 |
塩鯵1丁半 鯖100本 |
豊前国 : 仁平 |
丸籠25 鰯40貫、3丁 |
網代浦 : 半助 |
鯵・鮪37貫 |
江ノ浦 : 弥四郎 |
浜干鰯26俵 塩鯖50丁 |
網代浦 : 四郎兵衛 |
浜干鰯4俵 塩鯖77貫100 |
落野浦 : 儀助 |
塩物43貫 |
網代浦 : 四郎兵衛 |
鯖20貫 大鯵75本 |
〃 : 冨治 |
鰹24貫 嶋鯵12本 |
網代浦 : 半助 |
鯖10貫 |
江ノ浦 : 弥四郎 |
嶋鯵300 鯖4800 小鰹1800 大鰹950 鯵500 |
佐賀関 : 太郎兵衛 |
煮干鰯 |
廻船は地元の江ノ浦を中心に親村である網代浦、それに落野浦・日見浦と、領内の地船が大部分を占める。旅船では讃岐国喜兵衛船・豊前国半助船、それに佐賀関の太郎兵衛船だけである。江ノ浦は網代浦の枝村であり、港の規模が小さく、積荷の量も少ない。それは元治元年の廻船がすべて五枚帆以下の小型船であることからも、慶応元年の一艘当りの積荷の量がごく少ないことからもわかる。大型の旅船が入港する余裕も価値もなかった。だからこそ、この表では旅船が少ないわけで、このことだけをもって廻船の占める旅船と地船の比重をうんぬんすることはできない。
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