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市園の観音堂 |
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市園・重岡・宮野 |
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市園観音堂 |
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石憧の龕部 |
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市園の観音様(子安観音?) |
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市園道祖神 |
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市園道祖神
大字重岡字市園
市園区所有
凝灰岩でできた総高108cmの道祖神で、中央に道祖神と陰刻されている。この場所にある道祖神、庚申塔など二十数基の中のひとつにすぎないが、その形も整っておりこの種の塔としては本町屈指の道祖神である。本町における道祖神としては「青面金剛」「庚申塔」「猿田彦命」など数多くあるが、字で道祖の神を表現しているものはこの塔の外にない。
道祖神とか庚申塔などはもともと道の神であり、田の神、山の神であり、ひいては路辺において鬼神邪鬼を追い払う神に端を発する「幸いの神」であった。
この道祖神も市園の田園地帯の方を向いて立っている。これが中世に著しく性神と習合されて、さいの神、賽の神とかになり、道祖神の名は性的神の代名詞のごとき感を呈するに至った。
さいの神は、古事記の中に出てくる伊邪那岐命が黄泉国で悪鬼に追われ逃げるとき、巨石で防いだ古事に習い、巨石、すなわち道返しの大神とされ、く路に坐して悪霊を防ぐ威力を有する神であったといわれる。
また一方、岐神は伊鼎諾命の御子で、根の国からきた曲者を防いだ神として街くに立ち諸々の禍災を退け旅人を守護したと、それぞれ伝えられてきた由来から「賽神」「幸神」「妻神」「障神」「さいの神」「岐神」となったものだと言われている。
また古事記によると、巨石をもって信仰の対象とされたことに基づいて巨石を崇拝する思想が生まれ、そして石でもって人類繁栄のシンボルである男根や女陰を形づくり、これらを崇拝の対象としてきた。
また一説では、天孫降臨のとき、その道案内をした猿田彦命が「賽の神」であるとも伝えられ、猿は申に通ずるというので路傍の庚申にされ、悪疫や凶事を村の入口で防ぎ去らせるとも信じられていた。
一方中国では、遠く三国時代の昔、老子の教えである道教が広く普及して、旅人を守る神、道を守る神としても崇敬され、その教えが平安時代に輸入され、我が国仏教の密教思想と合流し庶民信仰となった。さらに時代が下がると、性病の神、良縁の神、和合妊娠の神、出産の神、幼児守護の神などに変化して信仰されるようになった。
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重岡の宝篋印塔とルイサの墓 |
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市園道祖神前の道路から、スポーツ公園前の道路に出て右に進む。道路沿いに宇目型宝篋印塔・宝塔・庚申塔などが見える。カーブを曲がると左手に八柱神社がある。その先の右側に消防団の機庫があり、左手に重岡キリシタン墓の案内標識が見える。登り口の左手に宇目型宝篋印塔が立つ。道なりに少し登ると尾根の上にルイサの墓がある。以前は杉林に囲まれてルイサの墓は暗かったが、現在は樹木が伐採されて明るくなった。 |
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道路沿いに宝篋印塔などが寄せられている |
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八柱神社 |
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重岡キリシタン墓と宝篋印塔の案内標識 |
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重岡キリシタン墓の標識と、道の左手に宇目型宝篋印塔が墓石の左右に立つ |
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宇目型宝篋印塔 |
宇目型宝篋印塔(宇目町有形文化財)
昭和53年8月18日指定
宇目町大字重岡字重岡
渡辺良司氏所有
この宝篋印塔は小さいけれども素朴な中にも落ち着きがあり、独特の感じがする地方色豊かなものである。宇目町には数多くあるが、他の市町村では稀にしか見ることができない。俗に宇目型宝篋印塔と呼んでも過言ではない。
材質は凝灰岩で作られ、下から基礎、台座、塔身、蓋、相輪からなり、塔身に金剛界四仏の種子が陰刻されている。塔の形としてはごく小さく総高138cmしかない。
この塔の特色は、伏鉢と請花が一体化していることと、九輪は寸詰まりの中ふくれであることである。また宝珠も請花と一体化し、笠の隅飾突起が簡略化されているところにある。このように宝篋印塔本来の形から逸脱していることが特徴である。このように俗に宇目型と呼ばれる宝篋印塔は、本町のいたるところに発見され、その数は正確にはわかっていない。
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ルイサの墓 |
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ルイサの墓 |
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ルイサの墓(四角の穴に石の十字架を立てた?) |
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重岡キリシタン墓
県指定史跡
昭和34年3月20日指定
大字重岡字重岡
この墓碑は凝灰岩の平型の伏墓で、長さ180cm、幅86cm、高さは軸部で27cm、両端は22cmという巨大なものである。上面の後部寄りには日輪十字章(日輪の直径29cm)が刻まれ、正面軸部中央部に「るいさ」という洗礼名を、その左右に「元和五年」「正月廿二日」という歿年月日が陰刻されている。日輪十字章の下に6cm×8cmほどの短型の穴があるが、これは何のために作られたかはわかっていない。
豊後には多数のキリシタン墓が残存しているが、この墓碑のように日輪十字章、洗礼名、歿年月日のそろっているものはないであろう。また大きさも県下で最大であるとともに、長崎県下にあるキリシタン墓碑の多くをはるかにしのいでいる。
この「るいさの墓」は大正の初期、渡辺家の当主が杉の植林をしていたところ、偶然に地中深く埋まっていたこの墓碑を発見した。しかし彼は今まで見たことがないこの異様な形をした墓碑に驚き、祟りを恐れて土で覆ってしまった。
それから40数年が過ぎた頃、時の当主は父とともに植林をしていた子供の頃の記憶をたどり、あれはキリシタンの墓ではなかろうかと思いながら再び発掘し、世の注目を浴びるに至った。
この墓碑はもともと地上にあったが、幕府のキリシタン禁教令布告後、弾圧が強化され迫害が激しくなったので、一族の者がキリシタンであることが発覚するのを恐れて地中深く埋めたものであろう。
「岡」といえば天正年間にキリシタンの志賀親次が領主であり同宗門が栄えたところで、天正16年(1588)ころ志賀氏の領内にはおよそ8000人のキリシタンがいたとある(耶蘇会日本年報)。こうした状況からこの宇目郷にも志賀氏の出城である皿内砦、悪所内砦などがあり、その関連性が深いことも事実であろう。また宇目郷には親次の祖父親守が居住しており同じく岡藩に屈していたから、この宇目郷にキリシタンがいても不思議ではなかろう。
これらから推測すると、志賀氏滅亡のあと文禄3年(1594)竹田に入部した中川秀成も、当初はキリスト教を保護し、慶長17年当時岡にはまだ伝道所があったほどである。ルイザはこうした竹田の地で天正18年頃生まれたと思われるが、その少女時代はキリスト教の華やかな時代であった。この娘が宇目郷割元役に嫁いできたことは大いにありうることであり、夫の享年から推測すると、元和5年に歿した「るいさ」を岡藩士渡辺輿吉郎の娘と断定しても矛盾しないであろう。
豊後には「ルイザ」の洗礼名をもった婦人はほかにもいたかもしれないので、この短い記録から彼女が墓碑の「るいさ」と同一人と断定するわけではないが、洗礼名を同じくするほか、年代的にも合致するし、当時の諸事情も渡辺輿吉郎の娘と矛盾しないので注目に値しよう。
いずれにしても注目には値するが、今後の研究に期待するところが大きい。
宇目町教育委員会 |
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以下は、宇目町史から転載 |
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この「るいさ」の洗礼名をもったキリシタン婦人について、大分大学教授であった故平田康夫氏は、次のように述べている。ルイザ(Luisa)というのは女性キリシタンの用いた洗礼名であるが、彼女は渡辺家所蔵の「渡辺氏系書草案」や同家の位牌や墓碑から推測すると、宇目郷割元役渡辺善左衛門重福の妻は岡藩士渡辺与吉郎の娘であった。のち渡辺善左衛門重福に嫁ぎ、一男一女を生んだのち、元和5年(1619)30歳前後で没したようである。
後妻は宇目郷支配深田弾右衛門(宗円)の娘で、その墓も位牌もあるのに、先妻の墓も位牌もない。善左衛門重福は寛永18年(1641)52歳で、嫡男吉左衛門重朝は天和3年(1683)に死去しているなどの事情から、渡辺家の墓地に少し離れて一基現存する「るいさ}の墓は善左衛門重福の先妻であると推定される。
また、岡の地は天正年間にキリシタンの栄えたところで、天正16年(1588)ごろ志賀氏の領内にはおよそ8000人のキリシタンがいたとある(耶蘇会日本年報)。
この宇目郷にも志賀氏の出城である皿内城、悪所内砦などがあり、その関連は深い。
志賀氏滅亡のあと、文禄3年(1594)岡に入部した中川秀成も、当初はキリスト教を保護し、慶長17年(1612)当時、岡にもまだ伝道所があったほどである。
ルイザはこうした竹田の地で天正18年(1590)頃生まれたが、その少女時代はキリスト教のはなやかな時代であった。この岡藩士のキリシタン信徒である娘が、宇目郷割元役の善左衛門重福に嫁いできたことは大いにありうることである。夫の享年から考えると、元和5年に没した「るいさ」を岡藩士渡辺与吉郎の娘と断定することは矛盾しないとする。
ところで、ここに注目すべき南蛮史料がある。日本にいたバテレンたちは、ヨーロッパへ報告するのに三通ないし四通も同文の報告書を作成した。
元和二年(1616)の日本年報は、マデウス・デ・ユーロスが執筆したが、彼の自署名のある日本発信の原文の一つが、ローマのイエズス会文書館、他はマドリードの王室図書館に収蔵されている。
その中の豊后の項に地名はあげていないが、「ルイサと称する高貴な一婦人は自ら自分と家族について大きな危険を冒し、自分の責任において一人の司祭を扶養した。彼女は妊娠しており、死に瀕する異常な苦痛を味わい、夫や家族は悲嘆にくれたが、彼女は極めて信心深く、聖父イグナチオの遺物を首にかけ、主なる神に身をゆだねた。その後、家族の喜びのうちに男児を出産することができた。」という記事が記されている。
豊後に「ルイサ」の教名を持つ婦人は多くいたに違いないから、この短い記録から、彼女が墓の「るいさ」と同一人物と断定するのではないが、教名を同じくするほか、年代的にまた諸事情は渡辺興吉郎の娘と矛盾しない。
ちなみに、上の男子が渡辺家位牌の長男吉左衛門であるなれば、彼は67歳で死去したことになり、文書の「ルイサ」と墓の「るいさ」が同一なれば、彼女は男子出産の三年後に死去したことになる。 |
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ルイサの墓の後ろから、集落を見おろす(小高いところが長昌寺) |
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これまでに進んできた道を、さらに進むと道はT字に分岐している。T字路を右に進んで、前方の坂の前から左に進むと、その先の道沿いに宮野観音がある。 |
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宮野観音(さまざまな石塔がある) |
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宮野観音像 |
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宮野観音 町指定有形文化財
昭和53年8月18日指定
宇目町大字重岡字宮野
宮野区所有
この観音は十一面観世音菩薩という。見てのとおり正面の大きな顔と頭上前方3面、右側3面、左側3面、後方1面と、頭部に11の顔をもつ2臂の像である。材質は凝灰岩でできており、総高265cmの壮大な立像である。
両脇侍は天部像(多聞天)、明王像(不動明王)である。
文化8年(1811)に造立されたものであるが、この年飢饉に見舞われた岡藩では稲作の不振で農民は困窮し、竹田城下に押しかけ年貢の免除を要求するなど一揆が吹き荒れていた。所謂、文化の大百姓一揆が起こった年でもあった。宇目郷も例外ではなく、こうした苦難の時期に衆生の苦難を即座に救ってくれる観音菩薩がここに造立されたと言われている。
観音菩薩を信じる者は、むさぼり・いかり・おろか、この三毒を退け、刀杖・械鎖・怨賊・悪鬼・水・火・鬼の七難を免れると言われている。
宮野観音
この十一面観音は凝灰岩で総高265センチ。立像の三尊石仏で、両脇侍(天部像)の向かって右に不動明王、左に多聞天を従えた実に壮大なものである。
基礎は石組み、台座は不等辺の大石で高さ60センチ、幅150センチ、横幅160センチの巨大なものである。台座正面に紀年銘が彫ってある。文化辛未天三月吉日。偈文が彫ってあるが判読できない。台座後方の蓮華座下に水切り溝が二本、八字型に彫られ台座の真後ろに10.7センチ、深さ20センチの小穴が彫ってある。おそらくこれは頭光背の支柱を立てた穴ではなかろうか。台座上に径60センチ高さ30センチの蓮華座をのせ、その上面に深さ約5センチの凹型を彫り、仏像の安定を図っている。その上に華瓶をもった高さ140センチの十一面観音が立っている。全体的に彫りは丁寧で華瓶、特に化仏はその表情が良く彫りだされている。
両脇侍は台座を含めて高さ110センチ前後、岩座上にたつ、光背付きである。
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宮野観音からさらに進んだ道沿いの山の斜面に、自然石の庚申塔、青面金剛像塔などが見える |
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