関寛先生年譜

 「関寛斎」 鈴木要吾編 より

関寛先生は上総の人、山辺郡中村に住し農を業とする。考(父)吉井佐兵衛氏、妣(母)斉藤氏、名は幸子同郡菱沼村斉藤清左衛門の三女なり。五男二女あり、先生は、その長男なり。先生少にして、前之内村関俊輔氏の養嗣子となる。先生、幼名を豊太郎と云ひ後寛斎と改め、又、今の名に改む(*明治3年9月、寛斎から 寛(ユタカ)に改名する)。

天保元年(1830)1歳
 二月十八日暁誕生、豊太郎と名づけらる。

天保4年(1833)4歳
 六月十三日母君病みて歿せられ、祖父母により撫育せらる。

天保14年(1843)14歳
 先生前之内村関俊輔氏の養子となられたり。俊輔氏は農家の子弟を集て村學校を開き孔孟の事を授く、先生も亦其の教を受けらる。

嘉永元年(1848)19歳
 佐倉に行き佐藤泰然翁の門に入り医を學ばる。

嘉永5年(1852)23歳
 十二月二十五日、同國同郡前之内村養父の賓家、君塚左衛門氏の第二女愛子と結婚せらる。令室時に十八歳なりき。○この年師家を去り仮に開業せらる。

安政元年(1854)25歳
 二月六日長子生るヽ、生三(初太郎)と命名せらる。

安政3年(1856)27歳 
 二月十五日、下總國銚子港荒野町に医業を開かる。○四月、初めて濱口儀兵衛氏(梧陵)に面會せらる。

安政5年(1858)29歳
 二月十六日、長女スミ生る。○七月、コレラ病大いに流行し江戸ことに甚し。濱口梧陵氏、時に江戸支店にあり先生を招く。先生、よりて江戸に出で、その斡旋により、営時の諸大家に就きて實地の研究を重ねられたり。この時、梧陵氏、先生に諭して曰はく、「今より更に救済の業を大にせむには、宜しく長崎に出で明百(ポンペ)氏につきて益、研究をつむべし。その學資及び家族の給養のごときは、予、これを保護せむ。後、顧慮することなかれ」と懇々これを強ふ。然るに先生は氏と相識れること尚、未だ久しからざると、開業後、方に世人の信用を増しつゝありし際なるとを以てその厚意を辞謝せられたりき。

万延元年(1860)31歳
 四月三十日、次男大助生る。○梧陵氏銚子に来り、頻に、西遊を勧めらる。恰、泰然翁の嗣子舜海氏、君命により長崎に遊學することヽなれり。こヽに於て先生意を決し、梧陵氏の勧めに従ひ學資の保護を受け、十月舜海氏と與に西遊の途に上れり。先生不在の間令室、よく家を守り拮据経営ヽ兒女子を教養せられ毫も他の補助を受くることなかりしと云ふ。

文久元年(1861)32歳
 長崎に在り、この時、松本良順氏初めて病院を設立せし際なりしかば先生は、これを助け、訳書を管理し、訳書生の教導を擔當し、叉、「七新薬」を著して、これを公にせられたり。偶、幕府の軍艦、戌臨丸、長崎に碇泊せしが、医官の欠員ありしを以て、先生、暇にその医官の補欠を命ぜらる。此の時梧陵氏更に勧めて曰く「救済の道に於て只訳書を以て医道に盡すこと能はざるべし。依て此れより三ヶ年を期して横文を學ぶべし」と懇諭数回に及びて曰く「他日之を悔ゆることなかれ」と。而して先生は家事の都合を以て之を辞せらりしも他日之を悔ゆること多かりしと云ふ。

文久2年(1862)33歳
 四月銚子に帰らる。六月福井侯の委嘱を受け、その派遣の醤生四名を監督し蔵書を謄寫せしめらる。○十二月阿州侯の招聘を受け蜂須賀戴公に仕へらるヽことヽなり。二拾五人扶持を賜はる。

文久3年(1863)34歳
 正月廿九日、侯に陪して江戸を発し、京都、淡路を経て、三月廿八日徳島に着せられたり。七月二十八日二男周助生る。○十二月休暇を得て江戸に帰り、上總に至りて父君並に養父母を省し、銚子に至り、家を徳島に移さむか為に諸般の事を整理せらる。

元治元年(1864)35歳
 時に浮浪の徒あり。上總の地方に出没し、行旅途塞る。○五月八日令室等とともに、徳島に帰着せらる。これより先、先生、殲書・衣服・雑品等行李五拾三箇を造りて、これを海運に托せられしが、この月十八日、報あり、船、難風に遇ひ行李、流失せりと云ふ。先生、これを聞きて「これ蓋し、盈を缺ぐの天道なり」と言はれたり。○十月二十日三男文助生る。

慶應元年(1865)36歳
 実父君七十の祝賀を行はる。十二月公女尋姫鷹司家に入輿の事あり、陪して、京都に行き越年せらる。

慶應2年(1866)37歳
 二月初めて洋装をなし、軍隊の演習に従はれ記り。○一月十六日文助歿。

慶應3年(1867)38歳
 散髪となり、乗馬を演習せらる。この冬、戴公の病態に侍し力を盡されしも、その功なく、翌年正月六日薨去せらる。発喪は正月十三日、先生は、知已の明君に永訣せられしことを、いたく悲嘆せられたり。○四月十六日次女こと生る。

明治元年(1868)39歳
 伏見戦争の後、先生、藩主茂韶侯に従ひて京都に居られしが、三條公の隨行員を命せられ、江戸に行かれたり。○偶五月十五日上野の変あり。先生講武所にあり、薩長諸藩の負傷者を収容して、これが療法を施されたり。當時、先生の外にこれが助手たるもの僅に一名のみなりしと云ふ。○六月八日大總督府より奥羽出張病院頭取に仰せ付けられ、富士山艦に搭乗し平潟、岩城平の諸處に病院を仮設し、諸藩の負傷兵を治療せらる。○十一月江戸に凱旋せられたり。

明治2年(1869)40歳
 二月二十八日末八生る。○徳島に帰り醫學改正に従事せらる。この時令息生三君醫學修行として、上京を命ぜられたり。東京醫學校入學長井義直(長義)富永普伯生三三人、○六月、行政官より、昨年賊徒掃攘の砌り軍事に盡力せし段、大儀に思召さるとて金百両を賜はる。○七月二十日コ卜歿。○九月、病院を徳島に開設せられ、病院長に任ぜらる。

明治3年(1870)41歳
 正月、諸藩軍隊附属病院を視察すべき命を受け、和歌山、大阪、名古屋、静岡等へ出張せらる。生三肺を患ふ。六月洲本病院主任を命せられたり。〇九月、先生 寛(ユタカ)と改名せらる。〇十一月、徳島病院開設の際、官長に對し不都合の挙動ありしとて、職務を免せられ、百日の謹慣を命ぜらる。

明治4年(1871)42歳
 二月、鳥取藩より康光の刀を賜らる。〇四月十五目、次女トメ生る。〇四月廿六日、養父君上総にて歿せられたり。年七十六歳なりき。〇五月、佐士原藩より銀造りの短刀を賜わる。十一月、徳島火薬庫破裂して多くの負傷者ありければ、その治療主任を命せられ、更に、病院長に任ぜられたり。されど、直にこれを辞せらる。〇十二月東京に出で、海軍省に出仕せらる。

明治5年(1872)43歳
 一月、海軍省を辞せらる。〇二月、徽毒梅査を普く行はむことを黒田東京府参事に勧告せしも意のごとくならざりければ、これを新聞維誌上に公にし世人の注意を喚起せられたり。三月、山梨縣甲府に至り、縣立病院長となれり。生三再び肺患發し甲府に趣き全快後東京へ出づ。

明治6年(1873)44歳
 五月、約束の期限満ちたるを以て山梨を辞せらる。〇七月、徳島に帰り住吉島村に於て醫業を開始せらる。〇九月、禄籍ともに奉還し、(旧藩中禄籍とも奉邁したるは先生と集堂了五郎氏と二人のみなりき)一平民となられ、東御殿跡を買求めこヽに移り、これより専ら本業によりて一家を保たむと勉められたり。

明治7年(1874)45歳
 一月、佐古、萬年山に登り、戴公の廟を拝せらる。偶、廟邊に草茅の多く生せるを見、感ずる所あり。この草茅を一掃せむことを誓はれき。〇二月二十五日大介歿。〇六月十二日三男餘作生る。〇八月十五日、末八歿。七月、建治山に登り瀧に浴し、毎年常例とせらる。〇九月、居を徳島町に移さる。生三、三田醫學校入學。

明治9年(1876)47歳
 これより先、先生、月々、萬年山に登り掃除怠られさりしが、偶々、井上高格氏等、廟辺の大樹を伐倒せむとす。先生、その廟処の風致を害し、神聖を損せむことを恐れ、説きて、これを止められしも聴かれず。今や、大樹失ひて禿山となれり。先生、時々この事を談じて流涕せらる。〇四月二十五日、四男叉一生る。○十一月、京都に行き、蘭人「マンメへル」氏の病院に於て、十二月大阪に行きヱルメレンス氏の府立病院に於て、診療の法を観察せらる。

明治10年(1877)48歳
 一月、この間数次盗難に逢はれしかば、先生は、家人熟睡の頃、午前二時より早起して、讀書せられしに、この事習慣となり。金品を失ひて、良習慣を得たることを喜ばれたり。〇十月、コレラ病流行によりて、豫防の醫務取締を命ぜらる。〇生三大阪に赴き佐藤進に従ひ見習ふ。〇十一月十三日、五男五郎生る。

明治11年(1878)49歳
 十月、東京に行き佐藤泰然翁の七年祭を行はる。義母君塚氏を迎へて帰らる。生三東京に出て佐藤尚中に随ふも開業醫たることを得す。

明治12年(1879)50歳
 「虎列刺私考」を著さる。その意、理事者の迷夢を開き、世人の恐怖心を去らしむるにありしが、當路者に嫌忌せられたりと云ふ。

明治13年(1880)51歳
 生三君を廃嫡し餘作君を相続人と定めらる。生三嫁を娶り十月離縁。

明治14年(1881)52歳
 〇二月八日、てる生る。〇三月十四日、養母トシ子(八十二歳)病没せらる。

明治16年(1883)54歳
 衛生会より支部幹事を嘱せらる。

明治17年(1884)55歳
 一月より生三君のために多く苦悶せられたり。十一月二十八日、周介米國へ渡航、旅費として二百圓送る。

明治18年(1885)56歳
 四月、濱口梧陵氏米國紐育にて病歿せられ、六月遺骸紀州に到着せり 〇六月、先生紀州に行き氏の棺側に侍しその葬を送られたり。これより先、夏期毎に、家族とともに海水浴を行はれ、これを例とせられたり。

明治20年(1887)58歳
 三月、令室並に令嬢留子を携へて紀州に至り、恩人の墓を拝せられ、大和、伊勢をめぐり、上総に至り、養父君の十七年祭を修めらる。それより日光等に至り五月、帰徳せられたり。

明治22年(1889)60歳
 先生、米國人某と一學校を設立せむとせられしが成らざりき。

明治23年(1890)61歳
 二月、生三君宅に招かれ平和を回復せらる。〇二月、第三内國博覧会東京に開設せられ、醫學會も開かれたるを以て、醫學會に出席し、博覧會を観、遂に、日光、松島をも遊覧せられたり。

明治24年(1891)62歳
 五月、・剣山、木頭上山、祖谷山に登り人跡未到の境を窮めらる。×月東京遊學中の三男餘作君肺炎に罹りたるを以て、東京に出で携へて帰郷せられたり。

明治25年(1892)63歳
 これより先、二男周助君米國に遊學し、米人ヘンリー・コップの恩を受けたり。よりて、先生は、その恩人に贈らむとて、この年三月、古金貨を送られしが、途にて、窃取せらる。先生、乃、日はく、「これ、小生吝嗇によりて貯ふる所なり。故に、天公、これを奪へり」と。〇三月中貧者の子弟に種痘を施し、うゑらるヽこと一千五百人に及べり。四月、月瀬の梅を賞し、それより、九州に入り、耶馬溪、霧島山、阿蘇山、高千穂峰等を遊覧せられ、「九州土産」の著あり。〇七月、大洪水あり、徳島市の内外に於て、田地を荒し、家屋を流し、多くの死傷を生したり。よりて、先生は躬、東西に奔走し、傷病を施療し、窮乏を賑給せれたり。

明治26年(1893)64歳
 三月、勝浦、名西、二郡の山間を跋渉せらる。〇六月、勝浦、那賀、海部、木屋平、上山等の諸山を跋渉せらる。〇十月、紀州に行き恩人梧陵翁の墓を拝せらる。十二月、餘作君を廃嫡して北海道へ分家となし、テル女を嗣子と定めらる。

明治27年(1894)65歳
 三月中、貧者の子弟に種痘を施さるヽこと一千二百餘人に及べり。○四月、祖谷山に入り、土佐に出で、海岸に沿ひて、伊豫に至り、山中三里、櫻三里の僻地を経て、別枝銅山に至り、我が山城谷を経て、五月徳島に帰られたり。この行、「土佐土産」、「伊豫土産」の著あり。先生、思はるヽやう、「天寿を全うし、氣力を養ふは、山水の效、大なり。初夏山川を跋渉し、身体を練り、傍ら、旧跡を探り、人情風俗を察するときは、おのづから、心廣く体胖かなるを覚ゆ」と。〇四男又一君北海道札幌農學校に遊學中なりしが、今年、北地開墾の策を立てて、これを請求せらる。先生よりて、これに賛同し、事を創められたり。○この年征清の軍起り、第四師團、先づ出兵せしが、阿州の壮丁多く、これに加はれり。先生、乃ち、わが家数名の男子ありて、未だ一人も兵役に就けるものなしとて、先づ家族をして、盡く、赤十字社の終身社員とならしめ、出兵者の家庭を慰問し、物品を贈り、且つ、恤兵献納を勉められたり。

明治28年(1895)66歳
 一月、徳島市出兵者の家族中赤貧者三十名に対し月々金若干宛を贈り且つ、自ら、奔走して金品を醵集し、その家計を維持せしめられたり。〇三月、廣島・呉・松山・丸亀の病院に収容せられたる病傷兵を慰問せむとし、先づ、本縣出身者たる百五十餘名の病傷兵の家族を各部に訪問し、その家信或は贈品を集め、これに手巾、手拭の二品を添へ自ら之を携へて、各病院を歴訪し各兵毎にこれを慰問せらる。
尚ほ帰縣後、又各兵の家族を訪問し、硯察せし實況を報知せらる。先生は、叉、生國、上総の出兵者及、その家族へも金員、物品を寄贈せられたりき。〇五月、再び、傷病兵入院者を慰問せられしこと前のごとし。且つ、帰郷せし療養兵の為にも、厚く、盡力せられたり。〇九月十日、末女てる歿。

明治29年(1896)67歳
 一月三十日、長女すみ歿。〇四月、芳野山の櫻花を観、大和の名所旧蹟を探らる。〇五月、家を二男周助君に譲り退隠せらる。周助君は昨年帰朝し三井物産會社に従事せらる。〇七月、先生、北海道に至り、又一君の開墾地を賞検せられ、九月、東京に帰られしが、洪水あり汽車不通となり。小時、滞在せられたり。

明治30年(1897)68歳
 三月、貧者の子弟に種痘を施さるヽこと三千人。この頃、はじめて謡曲を學ばる〇四月、京都に遊び、中江藤樹、伊藤仁齋等の墓を拝し旧跡を探り。比叡、鞍馬等に登り、叉赤穂に行き、月を越て帰られたり。「西京土産」あり。○九月、故梧陵氏の孫慶次氏より則重の短刀を贈らる。これ、先生が恩家の為に醤油醸造用の食塩を改良せむとて、数次、赤穂に行かれて有益なる調査をせられたるによるなり。十二月、周助君結婚せらる。

明治31年(1898)69歳
 三月、小鼓の稽古を始めらる。七月出發、北海道開墾地に至り、一ヶ月間滞留せらる。

明治32年(1899)70歳
 四月、出雲の古跡を尋ね、因幡を回りて帰らる。「山陰旅行日記」の著あり。

明治33年(1900)71歳
 四月、若狭、越前、加賀、越中に遊び、飛騨に出で、白水の瀧を観て帰國せらる。「北陸旅行日記」の著あり。

明治34年(1901)72歳
 一月、先生籍を生三氏方に入る。六月、金婚祝賀を行はれ、令室とともに、上総に行き、祖先の墓を拝し、親戚、故旧を訪問せられ、その著されたる「命の洗濯」と記念品とを配贈せられたり。「命の洗濯」は、先生が少壮の頃より老年の今日に至るまで数十年一日のごとく實行せらるヽ、冷水浴のことを記したる有益の衙生書なり。この書は、先生より聖上皇后両陛下へ献上せられたりと云ふ。先生、令室ともに自祝の詩歌あり左にかヽげぬ。

 人生期百歳 七十是中途 老健且休怪 天眞保我躯
   七十二老白里寛

 老ふたりそろひてとしもみちの奥の
  こかねのいはひするぞたのしき
   あい 子

 先生敷多の兒孫を有せられ一門の盛、稀に見るところなり。長男生三君別に家を立つ。三男二女あり。二男周助君三井物産會社倫敦支店に在勤す。一女あり。三男餘作君岡山醫學校に在學せり。四男又一君本年農學士となり、拓地牧畜に従事せり。五男五郎君東京に遊學す。長女スミ子は濱良平君に嫁し、三男一女あり。三十九年早世せり。次女留子は大久保溪平君に嫁し、三男一女あり。三女テル子十四年未だ嫁せずして逝けり。本年五月、先生金婚式を挙げらるヽ時、兒六人孫十六人、豈、盛ならずや。(註 八男四女ありしもその多く幼少にして歿)


 
関先生年譜続稿

 関寛先生七十二歳の年譜はかつて之を編成したりしが、其の後、年を閲すること既に二十年を経たり。時に大正十一年八月廿八日、先生の四男又一君予を訪問し、先生の日記全部を持参したりとて之を示さる。予、よりてそれを通覧し、曾て編成したる年譜を訂正し、尚、此の続稿を編し、先生の一生を通観し得るに便したり。此の績稿は主として先生の日記に拠りたるものなり。日記中歌章等多けれども多く割愛したり、晩年の記事の如き、皆、日記中の文言にして、編者は其の一二を摘録したるもの、唯、其文言によりて先生の行動と意裏戸を明らかにせむことを期したるのみ。
                             大正十一年  笹倉新治

明治35年(1902)73歳
 一月、四男又一方へ入籍、北海道開拓の決心を固む〇四月一日、萬年山に登り藩候廟に詣で訣別〇四月十四日、妻あい子を携へ午前八時船にて出発○五月十八日、札幌着、又一と會し其夜熟眠す○牧場に牛八頭、馬二十一頭あり。熊の害多しよつてアイヌに命じ一頭斃す毎に賞金五圓を与ふ事を約す○生地の小學校に教育費として七十圓寄附、よつて千葉縣知事より朱塗金菊紋章入木盃を下賜せらる○馬五十二頭、牛七頭、蒔付一町餘の成績。

明治36年(1903)74歳
 四男又一、一年志願兵として入営○大雪の為め馬四十頭斃る〇七月十三日、醫術開業転籍す○牛十頭、馬九十五頭、畑地開墾四町、牧場二十町の成績。

明治37年(1904)75歳
 二月七日、又一除隊帰場す〇五月十二日午前六時、妻あい子札幌に於て五郎に看護されながら歿〇七月十三日、二宮尊親経営の牧場に至り尊徳翁の霊に祀で暫く滞在○次男周助より日露開戦に就き農場を売払ひ献金し、自分の元に來つて老後を養ふベしと申來る。然し翁は牧場を死守と決す〇八月十五日、又一に動員令下る○此年病馬多く五十餘頭斃る○本年の成績牛十四頭、馬六十七頤、斃馬五十六頭に及ぶ〇八月八日、又一出征の報あり、餅を搗きて祝ふ○八月十七日、積善社を起し平日勤倹力行協力して非常時に備ふ事とす〇十月十五日、二宮農場訪問、十一月六日帰場○十一月七日、三男餘作岡山醫學卒業の報あり。

明治38年(1905)76歳
 一月四日、徳島旧邸焼失〇五月二十二日、餘作札幌病院へ勤務〇九月二十七日、徳島に分家せる長子生三の元に金銭開係は悉く終結せり、後日に至り紛議を起す無用たるべき旨申送る〇十月十三日、生三より「ヤシンナシゴアンシンアレ」の電報來る〇同二十四日、二宮農場訪問〇此年創業紀事を書き始む。

明治39年(1906)77歳
 此年「命の洗濯」を起稿〇三月十日、又一室蘭着の報あり赤飯を焚き内祝す〇四月十三日、又一無事帰場す〇六月函館に出で次で各地を見學○十二月十七日、又一黒木家の女(ムスメ)ミツ子と結婚す〇十二月二十六日、餘作吉林へ出發す。

明治40年(1907)78歳
 一月十五日、餘作長春着の電報あり次で餘作はハルピンに至りモスクワに至り露國皇帝の醫となる〇同二十六日、佐藤昌介を訪ふ○十一月十一日發東京に向ふ〇八月二十七日、餘作帰省す、九月十一日出發〇翁十一月十一日、東京に出發。

明治41年(1908)79歳
 東京の二男周助宅にて元旦を迎へ各知友を訪問〇四月二十一日、五郎歿。

明治42年(1909)80歳
 〇四月二日及び五月十五日徳富健次郎訪問〇五月三十一日、東京出發北海道に帰る。〇十月八日、小學校設立の議あり。関南、関北、関東、関中、関西の五小學校漸次設立希望を述ぶ〇十月二十五日、東京へ出發〇十一月二十三日、順天堂の祖泰然先生・尚中先生の銅像除幕式に参列、各知友を訪問〇四月十四日、谷中にある泰然の墓に詣で東京を去り五月一日帰場○十一月八日、牧場設立の原由及び将來の希望を書し餘作、又一、五郎に各一通手交す〇十二月九日、東京へ出發。

明治43年(1910)81歳
 ○四月十四日帰場〇五月十三日、生三周助來場す○同十九日、生三、周助、餘作、又一と霊前に於て斗満牧場株式會社設立を協議成立。○同二十四日、生三、周助、出發帰郷○財産上の事にて八月二十八日餘作又一間に奨約成る〇九月二十四日、徳富健次郎妻あい子ツル子來訪〇三十日、徳富蘆花出發〇十二月七日、東京に出發、二十五日、かねて讀む健康論に感じ二木博士訪問。

明治44年(1911)82歳
 ○四月十四日、帰場〇九月六日、小作契約を定め自治農創立を定む。勤倹粗食する事、将來一戸十町歩以上の地積を所有し牛馬四頭を飼育す、各自平和に相助け合ふ事、各家の創業を助けん為期限を定め二分一を譲与し、次で六割の年賦を支払ひ全部を譲與し独立自営せしむ。各戸主は所有権を得ると雖も嗣子たるものに相続せしめ他に抵當賣渡致すべかず。祖先を祀り子孫を教育し國家有為人を養成する事遺訓とすべし。

明治45年(1912)83歳
 此年開柘地問題に就て極度の苦悩あり〇十月十五日歿。


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