関 寛 斎


晩年の関寛斎

 関寛斎は天保元(1830)年2月18日、上総国山辺郡中村(現千葉県東金市)の農家に生まれた。四歳で母に死別し、母の姉の嫁ぎ先である在野の儒学者関俊輔に預けられ、後に関家の養子になった。
 関俊輔は農業のかたわら私塾の「製錦堂」を主宰していた。この塾は門弟数百人を数え、村塾のレベルをはるかに凌駕して、その名声は近隣に聞こえ、「富貴にして人に屈するよりは、貧賎にして志をほしいままに如かず」と謳われた。自らは清貧に甘んじながら、寺子屋にも通えない貧家の子供たちにも教育と心配りを忘れず、「世のため人のために尽くすことこそが人の生きる道」だと説く養父俊輔の生き方と教えは寛斎に大きな影響を与えた。
 養父俊輔の勧めにより、十八歳で佐倉の「順天堂」に入門する。貧しい農民の子である寛斎は、師である佐藤泰然の書生になり、下働きをしながら医学を学んだ(各地を廻って牛痘接種をしたと日記に記している)。
 当代一流の蘭学者でたぐいまれな人格者であった佐藤泰然の信条は、「方今(今の世で)、人を拯(すく)い世を済(ただ)す、医に如くは無し(医に及ぶものはない)」であった。泰然に医者たる人間のあり方について薫陶された寛斎は、佐藤尚中と共に順天堂の双璧と謳われた。
 嘉永5(1852)年、寛斎は養父俊輔の姪の君塚アイ(天保6年11月5日生)と結婚。安政3(1856)年に関東における交通の要所であり醤油醸造の地である銚子で医院を開業した寛斎は、親交を結んだヤマサ醤油当主の浜口梧陵から依頼されて江戸の種痘所に赴き、伊東玄朴・三宅艮斎にコレラの予防法を学んで、銚子のコレラ防疫に業績をあげた。その成果を認めた浜口梧陵の援助により、万延元(1860)年に長崎に留学、ポンペのもとで一年間学び、文久2(1862)年に長崎から銚子に戻った。
 梧陵はさらに長崎で学ぶように強く勧めたが、寛斎は文久3年に徳島藩の藩医となり徳島へ移住した。後に、寛斎は梧陵の勧めに従わなかった事を深く後悔する。
 明治元(1868)年、戊辰戦争に軍医として従軍。江戸へ下った後に奥羽出張病院頭取を拝命、奥羽戦終結後は徳島に帰り、明治2年に徳島藩医学校を創立して自ら校長に就任した。
 明治6(1873)年、禄籍を奉還して徳島住吉村に医院を開業。翌年、東御殿跡(現在の徳島一丁目)に移った。爾来一開業医として徳島で三十年間、地域の医療に尽くして、庶民に「関大明神」と慕われた。金持ちへの往診には駕籠を要求し、診療費も安くなかった。しかし、貧しい人達からは診療費を取らずに施療した。この間、無償で種痘を施した人数は数千人に達した。
 明治35(1902)年、医を廃業した寛斎夫婦は結婚五十年の金婚式を徳島で挙げた後に、はるか北の大地の北海道へ旅立った。時に寛斎は72歳、妻のアイは68歳になっていた。すでに北海道には明治25(1892)年に、四男の又一が札幌農学校に入学しており、明治27年に石川郡樽川植民地原野第七線20ヘクタール(町歩)の貸付を受けていた。
 又一が札幌農学校を卒業すると、さらに北海道の奥地の十勝・釧路にまたがる陸別原野1,377ヘクタールの貸付けを受け、最大108ヘクタールに拡大した樽川の関農場は入植していた小作人たちにまかせた。
 明治39(1906)年には、石原六郎、神河庚蔵、三木興吉郎ら徳島関係者の貸付地も含め、開拓許可面積は7,203.69ヘクタールに及んだという。明治42年にその内の1,011ヘクタールが、寛斎の息子の周助・餘作・又一の名義で成功付与を受けている。
 冬季には気温がマイナス30度以下になることも珍しくない斗満(現陸別町)の地で、寛斎は周辺住民に施療しながら開拓に携わり、入植十年後の大正元(1912)年10月15日に82歳で没した。
 寛斎はトルストイに心酔、二宮尊親に共感して、小作人に農地を解放することを望んだが、家族に強く反対されて苦悩の末に服毒自殺した。自殺の原因として、明治天皇の崩御(明治45年7月30日に崩御した明治天皇の大喪の儀は、同じ年の大正元年9月13日に行われた)と、乃木希典夫妻の殉死(明治天皇大葬の日の午後8時頃に自刃)、長男生三の息子からの財産分与をめぐる訴訟、寛斎自身の心身の衰えなどが重なったことが考えられる。


   人並みの 道は通らぬ 梅見かな
関寛斎が徳冨蘆花に贈った俳句)


関寛斎と妻の愛子(アイ)
(関静吉著 吾が歩み より)


關寛翁碑文

 翁は天保元年二月十八目、上總山邊郡中村に生れ幼名豊太郎長じて寛齋と稱し白里と號す。嘉永元年曾祖泰然の門に入り、和蘭(オランダ)醫術を修め、安政三年銚子に開業す。紳商濱ロ梧陵の知遇を受け、其の援助に依り萬延元年祖父尚中に随い長崎に遊び(遊学)、蘭醫ポンペ并(並び)外祖父松本良順に師事し、長與専齋、佐々木東洋、入澤恭平、内藤泰吉、司馬凌海等を友とし學術の蘊奥を極む。文久二年、阿波藩主蜂須賀齊裕公に聘せられて典醫となる。戊辰の役起るや大總督府より奥羽出張病院頭取を命ぜられ、各地に轉戦して傷病兵の救護に從事し大に功を樹つ。是れ本邦陸軍野戦病院の濫觴にして、翁を以て該病院長の鼻祖とす。次で翁は富國強兵の實を擧ぐるは黴毒(梅毒)の撲滅に在りと首唱し、検黴強制の切要を官に建白せるも時期尚早を以て容るゝ所とならず。權勢にあるを潔とせざる翁は、決然官を辭して徳島に歸り開業す。其治法卓絶、貴賤の別なく貧者を憐み、絶えて報を受けず。故に翁の徳を崇ひ(たっとび)、生時已に關大明神として祀る者ありと云う。三木文治、那波鶴峯、三宅憲章、小杉榲邨等と親善なり。明治三十五年五月北海道開拓の雄志を懐き、七十三歳の老躯を提げ札幌區南四條西十三丁目に移住す。當時(当時)斗満淕別(陸別)一帯は四圍荒漠人迹未踏にして羆熊(ヒグマ)の跳梁、蜂虻(ハチ・アブ)の螫(毒虫に刺される)害等、開拓の困難言語に絶す、而かし翁は斷乎として片山八重藏夫婦を督勵し、山河を跋渉し、荊榛(茨の茂み)を除(削除)し、同年八月十日入地して此處に第一鍬を下す。翁は實に本村の開祖なり。爾來心身を賭して拓殖に従うこと十星霜、其間克く物資の窮乏に耐へ、幾多の艱難と闘い、餘暇アイヌ部落を巡廻して病者を救護し、深く自作農者の獨立養成に力を盡す所ありしも惜哉(惜しむかな)、大正元年十月十五日、斗満北三線十六番地の自邸に歿す。享年八十有三。青龍山に葬る。翁は躯幹豊偉、資性剛直、儉素を奉し、而かも惻隱の情厚く、其濟生拓殖を以って國家に貢獻せる功績は之を千載に傳うべし。配君塚氏、恭順貞淑善く翁に事う。五男三女を生む。翁は義故門人胥謀り碑を建て追慕の熱忱を表せんとし余に文を請う。蓋し(けだし=確かに)曾祖泰然は翁の師にして、祖父尚中は同學、先考舜海は翁の弟子なり。而して余も亦翁と舊誼(旧誼)あり。且つ翁の三男餘作は嘗て余の門に在り。廼ち翁と我家とは累代因縁極めて深きが故に敢て辭せず。爰に翁の事歴を略敍すと云爾(しかいう)。*原文のカタカナをひらがなに改めた。

  
昭和十一年丙子九月
                       佐倉順天堂病院長 醫學博士 佐藤恒二 撰并書



     
  陸別町のオーロラタウン(この建物の中に関寛斎資料館がある)   


関又一の結婚

 関寛斎の息子の又一は、明治39年12月17日に黒木美都子(十勝監獄典獄 黒木鯤太郎の長女)と結婚した。

 *関又一 明治9年4月25日生まれ。 札幌農学校(北海道大学農学部の前身)卒業、学生の頃から北海道開拓の意欲に燃え、卒業論文「十勝国牧場設計」を書く。寛斎の陸別開拓事業に協力、関牧場を開く。大正9年、陸別を離れて東京に移る。昭和23年2月21日 関又一逝去




感謝の言葉

 幕末明治期に蘭医として活躍した関寛斎は、齢七十二歳から北海道の開拓に従事して八十二歳で没した。残された寛斎の日記と手紙は貴重な歴史資料であり、今も多くの方々が関寛斎の研究に携わり多くの研究書が生まれている。関寛斎終焉の地である北海道足寄郡陸別町でも、町民の方々が関寛翁顕彰会をつくって活発に活動している。かく言う筆者も関寛斎に惹かれた者の一人だが、陸別町発刊の郷土叢書第一巻「原野を拓く 関寛 開拓の理想とその背景」の文中に、寛斎の息子の又一の結婚相手の父親は「豊後国佐伯町出身の黒木鯤太郎」と書かれていた。
 しかし、佐伯市には黒木鯤太郎に関する資料はまったく無かったので、大分市の大分県立図書館に通って、明治期から大正初期にかけての官報を閲覧し、全国各地の古書店などから関連資料を取り寄せた。調べる過程で、帯広での黒木鯤太郎の発言に感銘を受けた。だが、次の任地の青森での黒木鯤太郎は人道の敵として厳しく糾弾されていることがわかった。帯広と青森における黒木鯤太郎の人物像はまったくの別人であり、青森では間違って別人を黒木鯤太郎と取り違えているとも思ったが、気を取り直してさらに調べ続けた。概ね取り寄せる資料も無くなった平成23年9月に上京して世田谷区下北沢で 関又一の旧居を探したのちに、中野区新井の「財団法人矯正協会 矯正図書館」で、明治大正期の行刑関連資料を閲覧させていただいた。
 その後、北海道足寄郡陸別町の斉藤省三様をお訪ねして、同町内の「関寛斎資料館」に保管されている未公開資料を閲覧させていただき、黒木鯤太郎日記のコピーを後日ご送付いただいた。これらの資料は関又一の息子の関静吉氏が、関寛斎の関連資料や遺品などと一緒に同館に寄贈されたものであることも斎藤様から伺った。
 陸別町の斎藤様とお別れしたのち北見市を廻り、帯広市に移動して「帯広百年記念館」を訪れ、同館副館長で学芸員の 内田祐一様から、十勝監獄のお話しを聞き、関係資料のコピーを頂戴した。
 九州からの突然の来訪者に快く応対していただいた陸別町の斎藤省三様と帯広市の内田祐一様にあらためて心からの謝意を表します。また、矯正協会矯正図書館と大分県立図書館の職員の皆様に御礼を申し上げます。ありがとうございました。
                                        (筆者)
      平成24年4月記す



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