南北朝の内乱と山伏 
 

 


 太平記と修験道との関係

 

 後醍醐天皇の鎌倉幕府打倒から南北朝合一に至る約六十年間の内乱期は山伏の活動が政治・軍事に関連してもっとも華やかに展開した時代である。それは吉野・大峯・熊野など修験道の中心地が戦場となり、好むと好まざるとに拘わらず、山伏は政治紛争に巻き込まれざるを得なかったからである。

南朝はその劣勢を彼等の隠密性・機動性ならびに呪術魔力性ともいうべきものによって補ったのであったが、ことに興味があるのは、呪的霊的方面での活躍であった。山伏が巫女と交渉をもち、あるいは進んで夫婦となることは、すでに鎌倉時代以来広まっていたが、事実山伏も巫女の霊媒的な活動を助けたのであって、それは加持祈祷などの呪的作法には必然的に随伴するところのものであった。

 こうしたことから、独り南朝に現実における戦略的な援助をしたばかりでなく、彼らは南朝の死せる公家・武将の霊をも現世に招いて活動させ、一種の神経戦をもって掩護したのである。そうしてこれを最も雄弁に物語るものがかの『太平記』に他ならず、以下本書によって南北朝期山伏の活躍の模様を逐一たどってみることにしよう。

 

 さていまみる『太平記』が一度になったものでなく、作者も一人でないことは、周知のところであり、ことに内容に修験道に関する記事や修験者の活動を背後に予想される事柄が多く盛り込まれていて、作者の一人小島法師が山伏でなかったかと推論されていることは、強くわれわれの興味をひくものがある。和歌森博士によれば、この児島法師は備前国小島荘(児島半島)に本拠をおいた小島山伏の一人であり、この小島山伏は次章で述べるように児島五流といわれる鎌倉時代のある皇胤の流れを汲む貴族的山伏として、本山派修験道の中でも高い地位を占めただけに、たとえその身分が俗社会的に低かったにせよ、『太平記』の作者のように教養ある者がその中にいたのである。当時すでに前権中納言であった洞院公定が小島法師の死去をきき、「卑賎之器」であるけれども「名匠之聞」あり、「無念というべし」と惜しんでいるところに、それがうかがえるであろう。しかし今川了俊の『難太平記』の主張を参考にすると、山伏で南朝方に関係のふかい小島法師の原作が、足利氏の目にふれて修正改補を求められ、直義に信頼厚い恵珍上人や玄恵法印が中心となってそれが行われたものと考えられる。

 

 後醍醐天皇の討幕運動と山伏の蹶起

 

 嘉暦二年(1327)、後醍醐天皇は中宮懐妊御祈の名の下に、鎌倉幕府調伏の祈祷を行われ、召に応じて禁中に壇をたて秘法を修したものは法勝寺の円観上人と小野随心院の文観僧正の二人であったが、この文観はその素性明らかでなく、もと播磨国法華寺の住侶で、のち真言の阿闍梨になったともいわれ、あるいは西大寺の律僧であったともいう。中村直勝博士が『南朝の研究』(三五八頁)で述べられたように、彼は学問僧にあらず、修行僧であって、無双の修験者として天皇にその名を知られ召されたのであろう。

 建武元年(1334)9月23日、天皇は東寺供養に行幸されたとき、同寺の勧進沙門にすぎなかった文観は、同年十二月三十日、東寺四長者に任ぜられ、翌年遂に一長者に昇進するという破格の出世をとげ、その傍若無人の振る舞いは世人の憎むところとなった。建武中興破れて後醍醐天皇が吉野にうつられてからは、文観もまた京都を去って観心寺・金峯山とあちこち転々とし、また、醍醐寺を本拠として天皇のためにあらゆる祈祷修法を尽くしたようであった。
 正平六年(1351)、一時南北朝に和議が成立したとき、彼は再び東寺長者の地位を回復したが、やがて合体が破れるに及んで、その地位を追われ、正平十三年、河内国金剛寺(俗に女人高野という)の大門往生院において八十歳の生涯を終わった。その生涯は南北朝内乱に活躍した修験者の最も特異な姿を浮き彫りにしたものといえよう。

 一方天下の情勢を探るため、日野俊基は天皇の命を奉じ、故意に山門横川の奉状を読み誤って赤面籠居の体をよそおい、ひそかに山伏の形となって山地・河内にゆき、城郭にすべきところをしらべ、東国・西国をまわって諸国の世相や豪族の動向を偵察したのであった。かように政治・軍事上隠密行動をとるため山伏に仮装することは、この頃よりして俄かに多くなるが、それはまたおのづから実際上も修験と交渉を生ずる結果となるもので、仮装山伏の活動は、その土地なりその人物なりを通じて、何等か背後の修験勢力を考えざるをえないのである。
 日野俊基の場合も単にみづからが仮装しただけでなく、必ずや地方修験とも接触したであろうことは、後鳥羽上皇の討幕にあたっての政策をみれば想像に難くないところである。また日野資朝も柿の衣にあやゐ笠を着て、山伏姿で関東に下ったので、人々これを怪しんだという。

 元徳二年(1330)2月、後醍醐天皇南都に行幸し、同月また比叡山に登られたのは、討幕の謀に大衆を語らわんがためであり、さらに播磨の太山寺・伯耆の大山寺・越前の平泉寺にも檄を飛ばして協力を呼びかけられた。平泉寺は既述したが、太山寺・大山寺ともに天台の支配下にあり、前者は神戸市垂水区伊川谷に位置して藤原時代より名を知られ、すでに鎌倉時代には境内に白山・熊野・金峯三所権現がまつられて、当寺が夙に修験道と交渉のあったことを裏書きしている。後者は伯耆大山をひかえているだけに、神祇的な山の信仰は古代にあったに違いないが、仏教の霊場として開かれたのは平安朝に入ってからであろう。平安末にはすでに僧兵三千人を擁したといわれ、既述のように南光院・中門院・西明院と叡山三塔の如く三つに分かれていたが、これらが相争い、嘉保元年(1094)には僧兵が入京強訴している。『大山寺縁起』によれば、治暦元年(1088)11月熊野権現が、なぎの葉を飛ばして影向され、同二年六月、白山権現が雪をそそいで影向されたとあり、熊野・白山と修験者の交流のあったことが推測されよう。

山伏の歴史 村山修一 塙選書71
 
南北朝動乱と阿蘇氏の高知尾支配  


 熊野神社領荘園高知尾荘が事実上退転した頃、全国的に動乱状態が継続していた。高知尾地域においても、地頭三田井明覚は北朝側(則ち室町幕府方)に味方していた。高知尾荘官浦上氏も、日向国大将・守護畠山直顕側に与同していた。三田井明覚や浦上氏と対立していた芝原又三郎入道性虎は、三田井氏・浦上氏と反対側の南朝側勢力に味方し、三田井明覚の所領を与えられた。南朝側から見れば、三田井明覚は敵方(北朝)であるので領地没収の対象となり、その結果芝原性虎に明覚の所領が与えられたのである。この事例からも、南北朝動乱の際には各地域において対立する領主たちが、各々相手と反対側に結び付き対立・抗争した結果、動乱状態が全国的に波及し継続したことが窺える。芝原性虎に三田井明覚の所領を与えたのは、南朝側が九州経営の目的で派遣した征西将軍宮懐良親王であった。

 南朝側の芝原性虎は、北朝側の三田井明覚の所領が含まれる熊野神社領高知尾荘預所であった湛賀を殺害し、湛賀の子息六郎三郎を討取った。芝原性虎の行為は、自分の所領とした高知尾地域に対する荘園領主側の支配の排除を意図して行われたものと考えられる。

 この時期、南朝側勢力が、高知尾地域支配を意図していた。南朝勢力の有力者である肥後国阿蘇氏の一族伊律野右衛門次郎入道唯阿が高知尾荘上村地頭職、南朝側の長崎三郎次郎義政が高知尾荘長崎村(父親政道跡)、岩戸小太郎正澄が高知尾荘立宿村(舎兄政幸跡)を戦功の恩賞として望んでいる。長崎村の場合は戦乱の中で喪失した父親政道の遺領を奪回する意図が感じられるが、立宿村の場合は北朝方の兄政幸の所領を弟政澄が要求していることも想定される。長崎・岩戸両氏は、名前の「政」の字が大神系三田井氏の通字であることから、三田井氏一族であると考えられる。一族内部で北朝方・南朝方に分裂していることが窺える。

 正平四年(1349)北朝方の三田井氏など高知尾一族が全て南朝方に降参した。高知尾諸氏の南朝方への降伏・与力は、懐良親王・五条頼元などから大いに歓迎されたが、高知尾地域は南朝方阿蘇氏の支配下に入った。

日之影町史



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