慶應義塾入社帳と塾員学生姓名録


 明治時代に慶應義塾で学んだ人物について調べるための資料として、『慶應義塾入社帳』がある。
 『慶應義塾入社帳』とは文久3年(1863)から、明治34年(1901)11月までの慶應義塾入学生約1万1千名の入学届名簿のことで、慶應義塾から1986年(昭和61年)に出版されている。

 明治4年以降、現在の大分県佐伯市から上京して慶應義塾に入学した人物の名前を調べる必要があり、『慶應義塾入社帳』の所在を調べると、大分県立図書館に架蔵されていることが分かった。ちなみに慶應義塾では入学を「入社」といった。
 しかし、『慶応義塾入社帳』では、義塾に入社したことはわかるが、卒業できたのかは分からない。そこで卒業できた人物の名前がわかる参考資料はないかと探してみた。大分県立図書館には該当する資料はなかったので、古書を購入することにしたが、なかなか参考資料は見つからなかった。平成23年になって、『明治29年9月-慶応義塾塾員学生姓名録』を「日本の古本屋」から入手することができたが、私には高価な買い物だった。
(*塾員とは義塾の卒業生のことです。なお、明治6年までは慶應義塾に卒業の制度はなかった。)


 「慶應義塾入社帳」と、「慶応義塾塾員学生姓名録」により、現在の大分県佐伯市から慶應義塾に入社した人物と、卒業した人物(塾員)の名前が分かった。


慶應義塾入社帳からわかったこと

 明治4年に佐伯から入社した人物の名前

 古賀 作平   24歳  入社月日 2月24日 父 古賀七郎

 古賀 如?   18歳  入社月日 2月24日 父 古賀七郎

 斎藤 勘助   20歳  入社月日 2月24日

 矢野 文雄   22歳  入社月日 3月4日 入塾証人 荘田平五郎

 西名 習吉   24歳  入社月日 4月5日
  住所 愛宕下佐伯藩邸

 浅沢 清風   23歳  入社月日 9月23日   佐伯県士族
  父 映軒              入塾証人 荘田平五郎

 浅沢源八郎  21歳  入社月日 10月13日   佐伯県士族
  父 映軒  住所 愛宕下佐伯藩邸




塾員学生姓名録からわかったこと

 明治4年に入社した7名の内、塾員名簿で卒業が確認できたのは矢野文雄と浅沢源八郎の2名だけだった。

 安政5年の創立から明治6年については、卒業の制度はないが、在学年限、学力他により卒業生と同視すべき者として氏名があげられている。明治6年以前に在籍した者の中で「凡四ヶ年間在学シ当時後進ノ生徒ヲ誘披シタルヲ以テ卒業生ト見倣スベキ者」として158名の名前が挙がっており、矢野文雄は明治6年の特選組である。
 藤田茂吉の入社については確認できなかった。昭和17年12月の「慶應義塾塾員名簿」の死亡者の欄に名前があり、明治7年の卒業になっている。



 佐伯藩士族 黒木鯤太郎

 「慶應義塾入社帳」と「塾員生徒姓名録」で確認したかったのは、佐伯藩士族の黒木鯤太郎という人物だったが、黒木鯤太郎の名前では入社も卒業も確認できなかった。そこで黒木姓の人物について調べると「入社帳」に次の人物名があった。
 
 黒木 實  24歳 大分県士族 入社月日 明治5年10月8日
         父 修三   入塾証人 黒木修三 大分県士族  住所 第二大区小二区愛宕下町

 後日の調査で黒木實は、黒木鯤太郎の別名(諱)であることが分かった。



 
黒木鯤太郎について『大正人名辞典』の記事を掲載する。
 (大正人名辞典 大正三年十月初版発行 東洋新報社)

 黒 木 鯤 太 郎 君
 出生地 大分県
 現住所 東京麻布市兵衛2-13
 生年月日 嘉永6年4月23日
 鉱山業 正五位 勲四等

 キリスト教は君の生命なり。いかなる迫害を蒙るとも、キリストを捨てるあたわずとは、君の常に公言する所なり。キリスト教を嫌悪すること甚だしかりし児玉将軍(児玉源太郎)は、縷々君に迫り、改宗せしめんとせしも、君は官職を剥奪されることがあっても、断じてキリスト教を離れずと拒み、遂に同将軍の怒りに触れ、放逐されるに至った。
 想うに君の前半生の不遇は、主としてキリスト信者なるが故なりしならんか。然し富貴利達を顧みず、敢えて尊信する宗教のために殉ぜんとする。だれか君が高風清節に嘆美せざらんや。
 君は大分県の人、家代々毛利家の家老たり。明治4年、単身東京に来り。慶應義塾に入る。年22にして、陸軍省に奉職する。明治10年西南の役起きるや、征討軍団の書記となり、参軍山縣有朋に属し、今の大将福島安正氏と共に書記の任務に服す。乱平げると君は武辨の専恣を厭い、軍裁判に従わんと欲し、法律を研修して、理事試験を受け、明治20年8月理事試補となる。この時福島氏は転じて武官となり以て遂に今日の威功を□得たるも、硬骨漢たる君はむしろ自ら不遇の地を撰みたるものの如し。何となれば理事はただ材料を蒐集して以て裁判の参考とするに過ぎず、断罪の重任は、依然軍人の師団長にあり、いわゆる司法権の独立は到底軍隊に求めることはできない。君はこの圧迫に堪えず、更に志望して司獄官となる。これより罪囚にキリスト教を宣伝して、大いに  改善に務めた。後に陸軍を去り、司法省に入り、明治36年、北海道集治監の典獄となる。そして従来の仏教的教化主義を排して、キリスト教をもって、極悪なる囚徒の勧化に務める。積弊のある所、まだ君の理想を悉く実現することはできないとはいえ、多少の効果あるは勿論なり。大正2年6月官を辞して実業界に入り、大いに資力を得て、鉱山界に活躍するところあらんとする。又壮なりというべし。
 君に四男、一女あり、長子は台湾拓殖銀行に、次子は巣鴨監獄に、三男は陸軍経理部に、四男は修学中なり。



 黒木鯤太郎は嘉永6年生まれなので、明治5年には20歳のはずである。上記の大分県士族 黒木實の父親は大分県士族黒木修三となっている。この黒木修三については、陸軍省大日記に下記の記事があり、黒木修三の宿所として南佐久間町2丁目14番地と記載されている。この住所は元佐伯藩の江戸上屋敷であり、明治9年時点の所有権者は旧佐伯藩主の毛利高謙である。藩邸の御殿は無くなっているが、江戸詰めの家臣が住んでいた長屋は残されていた。
 黒木鯤太郎の父親の旧藩時代の名前は黒木周蔵であるが、黒木修三と同一人物であることはほぼ間違いない。旧藩時代の名前を明治の世にふさわしい名前に変えたのだろう。このような人物は多かった。(秋月新太郎も明治9年10月に、秋月新から秋月新太郎へ改名している)
以上などから、黒木實とは黒木鯤太郎であることが確認できる。
 なお、黒木鯤太郎の名前でも、黒木實の名前でも「慶應義塾塾員学生姓名録」に該当する名前はないので黒木鯤太郎は卒業にはいたらなかったと考える。

 下記の文書は「陸軍省大日記」の明治9年1月15日付、第3局から第5局宛の文書である。黒木修三の名前があり住所の記載があるが、南佐久間町2丁目14番地は旧佐伯藩江戸上屋敷である(現在の港区西新橋2丁目)。

 

               第五局御中
 第二十六号
                             筆工壱人
 右騰写可致書類多分有之候ニ付御雇入之上当分当局ヘ
御渡相成候様改度此段及御掛合候也
                     第三局長代理
                       中佐 関 迪教
  一月十五日
    会計管督 田中光顕殿
  追而可相成ハ別紙三人名恩雇有之度候也
                       大分県士族
                          黒木修三
  宿所
    南佐久間町二丁目十四番地寄留







黒木鯤太郎の動向 


黒木鯤太郎 慶応義塾に入社

 明治5年10月8日、黒木鯤太郎は福沢諭吉の慶応義塾に入社した。慶応義塾には明治4年に、佐伯藩出身の矢野文雄ほか6名が入社している。慶応義塾は、入社から卒塾まで通常は5年から7年程度を要し、卒塾した者は塾員として義塾の名簿に名前が掲載されるが、明治29年に発刊された「慶応義塾塾員学生姓名録」に黒木鯤太郎の名前は無い(*後述のように黒木鯤太郎は明治6年6月20日に陸軍省に入省しているので、慶應義塾を在塾8ヶ月以下で退塾したと考える)(黒木は築地の外国人宣教師から英語を学んでいたといわれる。該当する宣教師は下記に記すカロザースしかいない)。


黒木鯤太郎とキリスト教

 黒木鯤太郎はキリスト教(長老派教会)信者であることが、やがて知られるようになるが、いつ受洗したのか不明である。黒木鯤太郎をキリスト教に導いた可能性がある人物として長老派教会宣教師 R・C・カロザースがいる。

カロザース

 R・C・カロザースは1839年、オハイオ州ハリソン郡ムアフィールドで生まれた。カロザース家はスコットランド以来の伝統である長老教会の信仰を守っていたが、とりわけ母親のアンは厚い信仰心を持っており、家族を献身へと導いた。
 カロザースは20歳で受洗、受洗後に大学進学を志して、ワシントン大学に入学。同大学を卒業後、シカゴ大学の最上級生に編入、1867年に卒業してシカゴ長老教会神学校に入学。1869年に同神学校を卒業すると、宣教師として日本へ向うことになり長老教会牧師のリチャード・V・ドッジの娘のジュリアと結婚した後に、アメリカ長老教会派遣五番目の来日宣教師となり同年7月、横浜に着いた。同年10月、東京に向い築地に居を定めると早速、カロザース英語塾を開いた。しかし、この塾は1872年4月、失火により焼失した。
 カロザースは英語塾の教え子である慶応義塾教員の後藤牧太(カロザースの妻ジュリアに、福沢諭吉の子供の一太郎と捨二郎の兄弟を世話した人物)の斡旋で、その年7月から三田の慶応義塾で英語と科学を教えることになった。慶応義塾では初めての外国人教師の採用だった。
 カロザースは宣教師として来日した目的を忘れず、授業中に生徒にバイブルの教えを説いた。福沢諭吉はこれを特に咎めることもせず、逆にカロザースの授業を聴講して知識を広げていった。やがて、生徒の中から聖書に関心を抱くものが現れ、放課後や日曜日に、カロザースの築地の自宅を訪れるものが多くなった。黒木鯤太郎が慶応義塾に入塾したのが明治5年(1872)10月であるので、築地時代のカロザースから英語を学び、さらにキリスト教信仰へ導かれた可能性は高いと思われる(愛宕下佐久間小路の佐伯藩江戸藩邸から、築地のカロザース英語塾へは歩いて行ける距離である)。
 カロザースは慶応義塾の学科過程の改革に積極的に助言をして、カリキュラムをアメリカ式に変更して入学試験や進級試験を制度化した。この制度は「明治六年制定慶応義塾教則」となって、慶応義塾の近代化に大きく貢献した。修業年限を予科三年と本科四年とし、各年度を三学期制とするなど、カロザースの母校ワシントン大学の学則に倣ったものと思われる。
 1874年10月、カロザースは築地にほど近い新栄町四丁目に東京統一長老教会を創立し、仮牧師に就任した。12月には築地入船町に独立した教会堂を新築し、翌年4月には教会員も42名を数える程になった。1875年、在日ミッション内の深刻な対立を憂慮した本国の海外伝道局は、監督的立場に立つ人物として、インブリーを日本に派遣した。これにより自分の意見が通らなくなったカロザースは宣教師を辞任した。教会を去ったカロザースは文部省のお雇い教師になり、広島英語学校、大阪英語学校で教え、1878年2月に本国へ帰国した。その後、たびたび日本に現れて教職を得たりしていたが、1896年に最終帰国。1921年2月15日、81歳で波乱の生涯を閉じた。



明治6年6月20日、黒木鯤太郎 陸軍省に入省

明治6年6月20日、黒木鯤太郎 陸軍省 15等出仕。同年12月5日、第一局第五課被申付。
明治7年3月、   黒木鯤太郎 佐賀征討軍残務掛被申付。同年4月、台湾蕃地事務所出勤被申付。
同年7月12日、  補14等出仕。
明治8年1月22日、黒木鯤太郎 徴兵使書記として第五軍管区(広島鎮台)へ出張。


 


陸軍歩兵少尉 尾間忠一
  佐伯藩士族 尾間忠一
 明治5年(1872)3月13日付 陸軍省15等出仕 3月17日 記室局分課被申付 7月 秘史局分課被申付 明治8年1月20日 第二軍管区徴兵使書記被申付 2月18日 任陸軍少尉(歩兵科) 明治9年1月13日 第五軍管区徴兵副使被仰付 6月12日 官房出仕兼勤被仰付 明治11年9月18日 第一局第五課出仕免官房課僚被仰付 明治13年5月6日 任陸軍歩兵中尉 10月22日 陸軍12等出仕卿官房出仕  11月 病気休職 明治14年10月9日 病気のため死去 享年39歳
(徴兵使書記は陸軍下士或は軍属十等以下十五等迄の者を以て之に任ず。人員は二人乃至三人として徴兵使の諸記録を掌る 徴兵令)。

 
         
 

大分県士族 緒方惟精

 緒方惟精の出自と生没年を明らかにできなかったが、彼の著書「通俗徴兵弁」の奥付に、大分県士族 豊後国海部郡佐伯村住との記載がある。
明治7年7月 陸軍省等外一等出仕。明治7年9月  15等出仕 徴兵使書記被仰付。明治9年 「通俗徴兵弁」を出版。通俗徴兵弁は、徴兵使書記として各地を回った緒方惟精が、徴兵制度の説明と徴兵後にはどのような処遇を受けるのかを一般の人々に分かりやすく解説したもので、序文を秋月新太郎が書いている。明治14年 法則掛附被申付  明治16年 陸軍省依願免官

 


明治8年9月5日、黒木鯤太郎 法則掛兼勤被申付。

(明治8年8月28日 第一局 当分其局中に法則掛を置き陸軍諸法則の創立及び改正に係る事項取調可致此旨相達候事 陸軍卿 山縣有朋)(達乙第75号 明治12年10月10日 今般陸軍職制事務章程御改正に付いては従前の第一局は総務局、第二局は人員局、第三局は砲兵局、第四局は工兵局、第五局は会計局と改称相成候條此旨相達候事 但第一局法則掛は自今単に法則掛と称し総務局管理と可相心得事 陸軍卿 西郷従道)

明治9年1月、黒木鯤太郎 13等出仕 徴兵使書記として第2軍管区(仙台鎮台)へ出張。
同年11月10日、勲功調査掛被申付。

明治10年1月11日、諸官省中出仕官被廃

明治10年(1877)1月12日、黒木鯤太郎 補15等出仕。



西南戦争勃発

明治10年2月12日、前参議西郷隆盛等の蜂起により西南戦争が勃発。2月14日、西郷軍1万6千人余が鹿児島から熊本に向かった。

明治10年2月20日、黒木鯤太郎は陸軍省文官10等出仕の福島安正、本省第一局第一課 中尉 赤澤昌行(福岡県士族)と共に九州に向った。(福島等3名は外国語ができる者として開港都市長崎の外国人に対する諜報活動に従事したといわれている)(長崎にいる外国人が西郷軍を応援することはあるまいという福島安正の報告を山県有朋はいたく喜んだという)

明治10年2月21日、熊本に進軍した西郷軍と熊本鎮台兵との戦いが始まった。西郷軍の主力部隊は熊本から北上し、2月27日、高瀬(熊本県玉名市)付近で政府軍と衝突、行く手を阻まれた西郷軍は田原坂付近に塁を築いた。

明治10年2月23日、黒木鯤太郎 征討軍団書記を申し付けられる。(秋月新太郎、福島安正も征討軍団書紀申し付け)
同年3月4日、田原坂の攻防が始まる。当初、政府軍は田原坂の戦いは数日で片が付くものと考えていた。しかし戦いは膠着状態に陥いり政府軍に多大の損害が発生した。参軍山県有朋は戦いの困難さに参議大久保利通に援軍を要請した。これにより、別働第ニ旅団を編成して西郷軍の背後から攻撃する作戦が立てられた。

明治10年3月5日、勅使柳原前光が鹿児島に下向するに陸軍大佐高島鞆之助が随行、黒木鯤太郎は扈従を申し付けられた。

明治10年3月14日、政府軍大本営は征討軍別動第二旅団(参軍 黒田清隆中将 司令長官心得 高島鞆之助大佐)を編成して、艦船により長崎から天草を経由、3月18日から22日にかけて八代に上陸した。

明治10年3月27日、黒木鯤太郎 征討軍別働第二旅団附を申し付けられる。(別働第ニ旅団には第二連隊長として薩摩出身の黒木為楨中佐が在籍しているが、黒木鯤太郎とは同姓というだけで直接の関係は無い)

 3月29日、後続の旅団が次々に八代に上陸したため、高島鞆之助少将(3月28日付昇進)の率いる別働第二旅団は別働第一旅団と改められた。

 4月30日、黒木鯤太郎 14等出仕を仰せ付けられる。

 9月24日、西郷隆盛 桐野利秋ら城山で自刃(西南戦争終結)。

10月23日、黒木鯤太郎 征討軍別動第一旅団附を免じられる。


西南戦争後の黒木鯤太郎

明治11年12月2日、黒木鯤太郎 勲功調査御用掛兼勤被申付。

明治11年12月5日、参謀局を廃止して参謀本部を作る条例が定められ、12月7日、陸軍中将大山巌(陸軍省第一局長)が参謀本部次長になる。12月24日、山縣有朋は陸軍卿を辞任し、参議のまま初代参謀本部長になり、陸軍卿には西郷従道が就任した。

明治11年12月9日、児玉源太郎(陸軍歩兵少佐 近衛局出仕)、勲功調査御用掛兼勤を仰せ付けられる
(*児玉源太郎は、西南戦争における自分の功績が低く評価されたという思いを持ったという)(*明治11年1月21日 児玉源太郎 佐賀鹿児島両役の功により勲四等年金180円下賜 )


明治11年12月26日、黒木鯤太郎 鹿児島逆徒征討の際、尽力少なからず候に付叙勲七等年金六十円下賜。
勲等年金令 明治9年〔1876〕に勲等年金令が定められ、受けた勲章の勲等に従い、年金が支給されることになった。勲等年金令の規定によると、勲一等は年額800円、勲二等は600円、勲三等は360円、勲四等は180円、勲五等は120円、勲六等は84円、勲七等は60円、勲八等は36円の年金を終身受けることができた)(当時の生産者米価は、玄米1俵60キログラム当り2円50銭ほどか? 玄米一石は重さに換算すると約150キログラム。精米後の白米だと水分や殻の重さが減るため若干軽く計算される。一俵の重量は60キログラムと定められているので、米一石は約2.5俵に相当する。)

明治12年2月7日、黒木鯤太郎 年報編纂掛兼勤を申し付けられる。

明治12年3月11日、黒木鯤太郎 十三等出仕被仰付 叙勲七等 総務局勤務(*陸軍省第一局を総務局に改称)。


明治13年2月、大山巌 陸軍卿就任。

明治14年1月10日、黒木鯤太郎 総務局勲章課書記被免 法則掛被申付。
(第一局法則掛服務概則 第一則 法則掛は第一局内に之を置き陸軍卿並びに第一局長の命を奉じ陸軍一般の制度規則の創定及び現行諸則の改訂増補其の他総て法制に関する諸文書の起草若しくは修整を掌どる処なり)

明治14年5月20日、黒木鯤太郎 陸軍省十二等出仕被仰付。

明治15年2月6日、曽我祐準が中部監軍部長心得を免じられ参謀本部次長就任。

明治15年2月27日、山縣有朋は渡欧する伊藤博文の後任の参事院議長に就任したために参謀本部長を辞任した。参謀本部長はこの後6ヶ月間任命されず、9月4日になって陸軍卿大山巌が兼任した。


黒木鯤太郎、総務局から参謀本部出仕へ

明治15年7月1日、黒木鯤太郎 11等出仕仰付 総務局出仕を免じられ、参謀本部附出仕被申付。(*歩兵中尉 福島安正が、参謀本部管西局員・参謀本部長伝令使として在籍)

明治16年1月31日 達乙第12号 陸軍全部 法則掛廃止候條旨相達候事(*法則係は明治8年8月28日設置)
明治16年2月6日、黒木為楨 中部監軍部参謀を免じられ参謀本部管東局長を仰せ付けられる。
*黒木鯤太郎は自身の退官後の大正6年に黒木為楨の自宅を訪れ、枢密顧問官就任の祝意と永年の交誼への謝意を述べて、暫時世間話の後に辞去したと日記に記している。

明治16年12月12日 山縣有朋 参事院議長から内務卿に転じる。
明治17年2月、山県有朋 参議兼内務卿のままで参謀本部長を兼任。


明治17年12月21日、参謀本部附 黒木鯤太郎 陸軍中将 高島鞆之助(西部監軍部長)朝鮮国被差遣候に付随行申し付け。明治18年1月23日、帰朝

 甲申事変処理のために、外務卿 井上馨が特派全権大使として朝鮮国へ派遣されるに際し、陸軍中将 高島鞆之助、海軍少将 樺山資紀、一等警視 足立利綱、外務権大書記官 斉藤修一郎、外務省御用係 吉川重吉が随行した。
参謀本部から管東局員の歩兵少佐 野田時敏、同局員 歩兵少佐 土屋光春、管西局員 歩兵大尉 中村覚、同局員 砲兵大尉 草間時雄と、本部附 黒木鯤太郎が高島鞆之助に随行した。
(明治17年12月4日、漢城<ソウル>で金玉均ら朝鮮国の親日開化派が、竹添進一郎公使や日本駐屯軍と連携してクーデターを起した。しかし朝鮮国の親清派と結んだ清国軍の反撃により甲申事変は2日で終わった。この混乱の中で、日本人居留民30余名が殺害され、日本公使館も焼失した。この事後処理のために外務卿井上馨が二個大隊の将兵に護衛されて漢城に入り、翌明治18年1月8日、日本と朝鮮国の間で漢城条約が結ばれた。)

明治18年5月21日、曽我祐準 参謀本部次長を免じられ、仙台鎮台司令官に任じられる。

明治18年5月26日、児玉源太郎 東京鎮台歩兵第二連隊長兼佐倉営所司令官を免じられ参謀本部管東局長に転任、7月24日に参謀本部第一局長に就任。(*同日付けで、参謀本部管西局長の桂太郎が総務局長に転出。)

明治18年8月31日、山縣有朋が参謀本部長を退任し、参謀本部次長の川上操六が参謀本部長の事務を代行することになった。


明治18年9月17日、黒木鯤太郎 被補10等出仕

明治18年11月20日、黒木鯤太郎は参謀本部附を免じられ総務局附を仰せ付けられる(同日付、総務局軍法課附申し付け)。(児玉源太郎はキリスト教を嫌っており、黒木鯤太郎にキリスト教棄教を迫ったが、黒木が頑なに拒否したために参謀本部から放逐したと云われるが、児玉源太郎はそのような単純な人間ではない。)

明治18年12月22日、有栖川宮熾仁親王が参謀本部長に就任。

明治19年3月、曽我祐準 職務を辞任し陸軍省を退職。(*曾我祐準、三浦梧楼、鳥尾小弥太、谷干城等いわゆる四将軍は、山縣有朋や大山巌らと対立していたが、いずれも陸軍を去った)

明治19年3月1日付けで陸軍省人員局が廃止され陸軍の人事は総務局第四課で行うことになり、人員局次長歩兵中佐 沖原光孚が、総務局第四課長を仰せ付けられた。(沖原光孚 : 明治10年の西南戦争では大山巌少将の率いる別働第五旅団に属したが、同年3月、高島鞆之助少将率いる別働第一旅団第一大隊長として鹿児島へ分遣された。8月7日、日向佐土原を船で発し、同月11日、佐伯に上陸して大分・宮崎県境山岳地帯で西郷軍と闘った。8月31日、日向細島から海路鹿児島に向う。)



黒木鯤太郎、法官部理事に進む

明治20年3月11日、黒木鯤太郎 叙勲七等 理事試補被仰付 賜月俸五十円 総務局第四課附出仕被仰付。

陸軍の理事とは、陸軍法務官、理事試補とあるは法務官試補、録事とあるは陸軍録事、警守とあるは陸軍警査とする。(*陸軍省は理事、海軍省は主理と称した)

陸軍治罪法 第十條 軍法会議は、判士長、判士、理事若しくは理事試補及び録事を以って構成する。
 本條は軍法会議を構成する職員を規定したものである。各議員の職務範囲を示せば凡そ次の如くである。
 一、判士長、判士は本案の犯罪及び附帯の私訴に付いて裁判をなす。
 二、理事及び同試補は被告人を訊問し証拠を蒐集し職務執行の際認知したる現行犯に対し訊問及び検証処分を為し本案の犯罪及び附
   帯私訴に関し意見書を作り会議席に列しその趣旨を説明し判決書を作り再議再審等に関し意見を附し刑の執行を指揮する。
 三、録事は審問臨検判決等に立会い其の調書又は其の他訴訟に関する一切の書類を作り且つ其の書類を保存し及び軍法会議の庶務
   に服す。

陸軍治罪法要義
 大日本帝国憲法では、裁判所に通常裁判所と特別裁判所の別があると定めており、通常裁判所では民事、刑事を裁判するものと定め、但し書きで特別裁判所の管轄に帰せしめたものはこの限りでない旨を定めていた。特別裁判所として、皇室裁判所、行政裁判所、軍法会議があった。

軍法会議は軍内にあり、主に軍事犯罪を裁く裁判所であったが、その刑事実体法は刑法、陸軍刑法及び軍機保護法等その他の軍事犯罪を定める法律であり、刑事手続法は軍法会議法であった。
軍法会議の始めは明治二年に設置された糾問司であり、明治五年に陸軍裁判所が設けられ、明治十六年の陸軍治罪法によって軍法会議となった。
 軍法会議の裁判権は部隊の司令権の範囲と可能な限り一致することが望ましいと考えられていたため部隊編成に即して次の軍法会議が設置されていた。高等軍法会議、軍軍法会議、師団軍法会議、合囲地軍法会議、臨時軍法会議の五つであるが、高等軍法会議、軍軍法会議、師団軍法会議は常設軍法会議であり、合囲地軍法会議と臨時軍法会議は特設軍法会議であった。
 常設軍法会議は戦時、事変、事件等の有事または平時を問わず設置されている軍法会議である。戦時、事変、事件等の場合に設置されるのが特設軍法会議である。
 特設軍法会議のうち合囲地軍法会議は、合囲地境を確定して戒厳の宣告があった場合にこれと同時に合囲地境に設けられるものであった。戒厳の布告、宣告の有無を問わず、戦時、事変に際しては臨時軍法会議を特設することができた。
 高等軍法会議は上告審であり、軍軍法会議または師団軍法会議の判決に不服がある場合に、法令の判断・適用に誤りがあることのみを理由として高等軍法会議に上告する事ができた。
 軍軍法会議と師団軍法会議は上下の別なく共に第一審であり、各々軍司令官、師団長が長官になった。

軍軍法会議は師団に属する者以外で、軍司令官の部下に属する者及び監督を受ける者に対する被告事件について管轄権を有していた。
 軍刑法は軍機保持を最優先に考えていたため普通裁判に比べて量刑は重かった。主な罪名に、叛乱
(組織・制度を破壊する目的で武器を使用する)。辱職(責任を果さず降伏すること)。抗命(上官に対する反抗、不服従)。逃亡(戦線離脱、利敵行為)。略奪(民間人の私有物を奪う、陵辱・強姦)。
 法務官は軍法会議長官に隷属し、裁判官、予審官、検察官に任ぜられ、その任用及び懲戒は勅令によって定めるものとされていた。法務官は訴訟上の職務を行うところから公正であることを強く求められ、刑事裁判または懲戒処分によるものでなければ免官されることがないものとして身分を保証されていた。
 なお、陸軍大臣は法務官が懲戒委員会に附されたり、刑事訴追されたり、病気のため職務を行うことができなくなった場合などは法務官に非職(休職)を命ずることができたが、その場合でも現俸の半分を支給されることになっていた。
 軍法会議を構成する裁判官は原則として五名であり、長官がこれを定め、高等軍法会議では判士三名、法務官二名、その他の軍法会議では判士四名、法務官一名であった。


明治20年5月31日、勅令第19号 陸軍省官制改正(第6条 陸軍省総務局は通則に依らず、第1課 第2課 第3課 人事課 制規課及び獣医課を置き其事務を分掌せしむ)。

明治20年6月3日、歩兵中佐 沖原光孚 人事課長被仰付。

明治20年6月4日、理事試補 黒木鯤太郎 人事課附被仰付。同年6月14日付けで黒木鯤太郎の叙勲申請が総務局長桂太郎より陸軍大臣大山巌へ提出された (理事試補 黒木鯤太郎 右叙勲七等以来数官を歴任し4年6ヶ月に至り且恩給事務を擔任すること久しく勉励能く其職務を尽し功労少なからず)。

明治20年11月、黒木鯤太郎 叙勲六等 賜単光旭日章。同年12月、任理事 叙奏任官五等 賜下級俸(理事試補拝命後9ヶ月で理事になっているが、この時の陸軍大臣は大山巖 次官は桂太郎)。

明治21年1月、黒木鯤太郎 法官部理事仰付、東京鎮台軍法会議出仕被仰付 (*総務局人事課でそれまで携わっていた恩給事務の残務整理を終えた3月末になって赴任した)。
(黒木鯤太郎と同日付けで、赤澤昌行少佐が東京鎮台軍法会議判士長に任命された。同年6月1日付 赤澤昌行少佐、免本職補陸軍省副官。同じく6月2日付、赤澤昌行少佐 第一師管軍法会議判士長被免(*赤澤昌行少佐は、病気のために陸軍省への出仕が不可能になった)。

明治22年11月、黒木鯤太郎 第五師団歩兵第十旅団(松山)法官部出仕被仰付(奏任五等 勲六等)。

明治24年4月、黒木鯤太郎 叙従七位 第三師団(名古屋)法官部出仕被仰付。

明治24年11月、黒木鯤太郎 非職(休職)仰付(非職の期限は最長二年、この間に本官に任じられなければ自然退職となる)。



黒木鯤太郎、陸軍監獄長に進む

明治26年11月、黒木鯤太郎 叙高等官七等 一級俸  任陸軍監獄長 同日付、任仙台衛戍監獄長

陸軍監獄 陸軍監獄は懲役・禁固・拘留の執行を受ける軍人、軍属等及び死刑の言い渡しを受けた者ならびに刑事被告人を拘禁する所で、陸軍軍法会議の所在地に設置された。

監獄官制 勅令第142号 明治26年10月30日
 第1條  陸軍監獄に左の職員を置く
       陸軍監獄長  陸軍監獄書記  陸軍監獄看守長  陸軍監獄看守
 第2條  監獄長は奏任とし監獄書記及び監獄看守長は判任とし監獄看守は判任官待遇とする
 第3條  監獄長は衛戍司令官若くは屯田兵司令官に隷し監獄の事務を掌理する
 第12條 本令は明治26年11月10日より施行する

陸軍監獄官特別任用令 勅令192号 明治26年10月30日
 第1條 陸軍監獄長は理事、陸軍尉官、又は陸軍監督補より之を選任する
 第7條 本令は明治26年11月10日より施行する

(参考資料)
陸軍監獄則第3条左の通り改正す  陸軍省令乙第五号 明治19年3月12日
 第3条   監獄は大尉を以て監獄長とし中少尉を以て監獄副長とし曹長若しくは一二等軍曹を以て看守長及び書記とし其の下に看守卒押丁を附し其の他一二三等書記及び二三等軍医一二三等看護長看護卒を置く

陸軍所属特別文官俸給令
 勅令175号  明治26年10月30日
 第2条 陸軍監獄長1級俸を受け満7年を踰え特に功績ある者は年俸800円まで増給し陸軍監獄看守満10年以上勤続する者は月俸12円を給することを得る。(本令は明治26年11月10日より施行する)



明治27年8月、日清戦争始まる
明治28年4月、日清講和条約調印成る。日清戦争と台湾平定(乙未戦争)の戦没者 13,824名


明治30年5月、黒木鯤太郎 任名古屋衛戍監獄長

明治30年8月、黒木鯤太郎 叙正七位

明治31年1月4日、児玉源太郎 第三師団長(名古屋)に就任

明治31年1月13日、黒木鯤太郎 名古屋衛戍監獄長を免じられ、台南衛戍監獄長に任じられる(*台南衛戍監獄長の林惟吉が名古屋衛戍監獄長に転任。)

明治31年2月26日、児玉源太郎 台湾総督に就任。児玉は台湾総督府及び地方官制の大改革を断行し、これにより罷免された官吏は千余名に達した。

明治31年10月1日、黒木鯤太郎 台南衛戍監獄長を免じられ、丸亀衛戍監獄長に任じられる。
(*台中・台南臨時軍法会議及び衛戍監獄を廃止し、未決被告事件は台北の臨時軍法会議に、既決囚徒は台北衛戍監獄に移された。)

明治34年1月、黒木鯤太郎 任広島衛戍監獄長

明治35年4月、黒木鯤太郎 文官分限令第三条第一項第三号により本官被免(*衛戍監獄の定員改正により、過員の監獄長五名が同時に罷免された)(*少佐・大尉及びその同等官の定年は50歳)

明治35年6月、黒木鯤太郎 叙従六位


黒木鯤太郎 司法省所管の北海道集冶監十勝分監長に任じられる

明治36年1月、黒木鯤太郎 司法省所管の北海道集冶監十勝分監長に任じられる。
(*理事主理任用令第四条 満三年以上理事又は主理の職に在る者及其の職に在りたる者は、明治二十六年勅令第百八十三号文官任用令第一条判事検事の例に依り他の奏任文官に任用することを得る)

監獄官制 明治36年3月19日 勅令第35号
 第1条 監獄は司法大臣の管理に属す
 第2条 司法大臣は須要に応じ分監を置くことを得
 第3条 各監獄を通して左の職員を置く
     典 獄 五十六人     奏任
     看守長 専任六百三十六人 判任
     技 手 選任十七人
     通 訳 専任十二人    判任
第4条 典獄は監獄の長となり司法大臣の指揮監督を承け監獄の事務を掌理し所部の職員を指揮監督す
    典獄は判任待遇の職員の任免を専行す
(*典獄の権限が強化された)

典獄及看守長特別任用令 明治36年3月20日 勅令第49号
第1条 典獄は5年以上監獄に関する事務に従事し判任官3級俸以上の現職に在る者に限り当分の内文官高等試験委員の銓衡を経
    て任用することを得
 附則
第3条 本令は明治36年4月1日より之を施行す
第4条 府県参事官及典獄特別任用令、明治24年勅令第113号、明治28年勅令101号、同年勅令102号及集治監典獄庁
    府県典獄集治監分監長特別任用令に依り任用したる集治監典獄、庁府県典獄又は集治監分監長は監獄官制施行の際に限り
    典獄に任用することを得


明治36年3月19日、十勝分監を十勝監獄と改称。4月1日付けで黒木鯤太郎が十勝監獄の初代典獄となる。

明治39年12月17日 黒木美都子(十勝監獄典獄 黒木鯤太郎の長女)は、関寛斎の息子の又一と結婚した。
関又一 明治9年4月25日生まれ。 札幌農学校(北海道大学農学部の前身)卒業、学生の頃から北海道開拓の意欲に燃え、卒業論文「十勝国牧場設計」を書く。寛斎の陸別開拓事業に協力、関牧場を開く。

明治41年2月21日、黒木鯤太郎 叙正六位


黒木鯤太郎 青森監獄の典獄に

明治41(1908)年8月28日、黒木鯤太郎 青森監獄典獄に転任。

     
  青森監獄典獄 黒木鯤太郎  


大正2年4月21日、黒木鯤太郎 叙従五位


同年4月29日、黒木鯤太郎 青森監獄典獄を依願免官

同年5月30日、黒木鯤太郎 叙正五位 


退官後は、東京麻布市兵衛町に住まいして、浪花炭鉱(常磐炭田)の経営に携わる。


大正12年7月14日 黒木鯤太郎 死去 享年72歳

(*十勝監獄と青森監獄で何が起きたかについては記述しません。)


   



黒木鯤太郎長女の美都子は、関寛斎の息子の又一と結婚した。  
関寛斎に進む     
  ホームに戻る