海人の里 |
漁撈についても一見すると狩猟に似た傾向があらわれる。まず貝塚が急に減って来る。これは貝が少なくなったためかもわからないが、いっぽうでは貝をとって食べていたものが、農耕に精出すようになったものも少なくなかったと考えられる。 そしてむしろ貝塚は減っても、それとは別に西日本の海岸では弥生式の遺跡から土錘(どすい)や石錘(せきすい)がたくさん出るようになる。これは網のイワ(沈子)に用いたもので、大形の網を用いて魚をとる工夫がなされるようになった。船もまた大形化して来る。人ばかりでなく網もつんで沖へ漕ぎ出さねばならないからである。 また貝塚も渚や干潟にいるものを干潮のときだけ行ってとるのでなく、アワビのようなものをもぐってとる事も行われるようになって来た。しかし、それらの漁民は初め海岸で貝を拾って食べていたものが、次第に大型の船をつくることを工夫し、また網を発明して漁民化していったのであろうか。あるいはまた海を越えて漁撈にたくみな人たちがやって来て、漁撈技術や造船技術が発達したのであろうか。それらのことを考えて見る前に文献によって古代の漁撈をふりかえってみよう。日本について一番古く書かれた書物は「魏志」の「倭人伝」で魏志は三世紀の後期に成立した史書であるから日本の弥生式時代の後期の様子をうかがうことができる。 「朝鮮半島から対馬壱岐を経て海をわたって来ると松浦につく。家が四千余戸もあるが、家はみんな山のせまった海のほとりにある。山は草木がうっそうとして茂っていて、すぐ前を歩いている人すら見えない。住民たちは好んで魚やアワビをとってくらしをたてている。そして海の深いところ、浅いところ、どこでも皆もぐってこれをとっている。また久奴(くぬ)国では男子は大小となく、みなイレズミをしている。髪はみじかく切っている。蛟竜(みずち)の害をさけるためである。これは倭の水人はもぐって魚やアワビをとらえるためで、イレズミをしていると大魚や水鳥におそわれることがないからであるが、後にはイレズミはかざりとして用いられるようになった。」 もとより農耕にしたがってくらしていた者もあったが、それはやや海岸からはなれており、海岸に住む者は農耕をあまりおこなわなかったらしく、山野には草木がびっしりとしげっていた。おそらくシイ・タブ・クスノキなどのような広葉樹であっただろう。それが海面に枝葉をたれるまでにうっそうとしており、海は青くすみ、海底からのびた藻がゆらりゆらりと波にゆれていたにちがいない。 そういう風景はつい近頃まで西日本の海岸のところどころに見られたものであり、久しい間、海人の根拠地であったといわれる対馬の紫瀬戸(むらさきせと)の風景など、いまもこうしたおもかげをとどめている。 つまりこの頃までは内陸に居住する者よりも海岸に居住する者の方がはるかに多かったようである。人が内陸に多く住むようになったのは農耕が盛んになってからの事であろう。日本は内陸にいくつかの盆地を持った。そこは水も豊かであり、周囲に山をめぐらして暴風の被害も少ない。水田を開いて農耕を営むには適している。大和盆地の開発がまずすすんでゆき、そこにいくつかの小王国の発生したのもそうした理由にもとづくものと考えるのが、海岸集落の方は事情が少し違っていた。それは日本における海部の分布とそのあり方によってうかがうことができる。ただし、海部に関する文献はさらに時代が下がって九世紀頃の記事にたよらざるを得なくなる。だが、それにしても海人の住んだところに海部という地名がつくまでには相当の年数を要したはずで、九世紀の頃すでに海部の地名を持っているところは、それからさらに百年数百年まえから海人が居住していたと見てよいであろう。海人の住んだところを古くはアマまたアマベとよんでいる。そこで承平年中(八五一ー九五七)に源順によって編集せられた日本最初の辞書「和名抄」について見るとつぎのようになっている。
つまり一七カ所の地名をかぞえることができる。そのうち郡が三つある。そしてこれらの海部の村は、太平洋岸は東は関東地方の房総半島の南側まで、日本海側は福井県までであり、日本のうちでも西の方にかたよっていることがわかるが、九州の南部にはかえって見かけない。 さて、これらの海部の地名のあるところには、いまも海人の住んでいるところが少なくないが、海人そのものはよく移動するものであったから和名抄の書かれた後に増えた海部の地名も少なくないのである。たとえば日本海岸では佐渡の外海府(そとかいふ)、内海府村があり、新潟県北部に上海府・下海府村がある。また太平東岸にも大阪湾に尼ヶ崎(もと海士ヶ崎と書いた)、岐阜県木曽川下流に海津郡がある。奄美大島の奄美なども海人に関係のある地名かもわからない。 そのほかに地名にはならなくても海人のすんだところは多かった。とくに瀬戸内海の東部には、魏志倭人伝のかかれたころよりすこしおくれた時代には、たくさん海人がすんでいたのである。 海人の中には海岸に居住して漁撈を中心にした生活をたてつつ、一方では陸にも土地を持って多少の農耕にしたがっていた者が多かったと思われる。そういうところの海人は漁民であると共に農民的な性格も持っており、生産基盤として陸地の占有権も認められていたのであろう。そのことによって郷を形成し、時には郡を形成していたのである。 これに対して瀬戸内海東部に根を張る海人や若狭湾沿岸にいる海人はむしろ海への依存度が高く、陸地に住居は持つが、陸上で生産業を持つことはほとんどなく、したがって郷も郡も形成せず、備前、播磨の海人や、角鹿(つぬが=福井県敦賀)の海人は有名ではあったが、ただその名のみを知られているに過ぎなかったと思われる。 このように海人には陸の生産にもしたがい、また漁撈にもしたがうものと、漁撈のみにしたがっているものと、二つの系統があったと見られるが、それが種族的に違うものであるか、また同一のものであるかをまだ明らかにすることができない。が、瀬戸内海や角鹿の海人は朝廷の舟師の水夫として狩り出されることが多く漁業専業的な性格を持たざるを得なかったのであろう。 (終)
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