イワシの歴史 |
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イワシとヒトの関わり
イワシの生態 これから主人公として登場するのは、イワシの一種であるマイワシである。まずは、そのプロフィールから紹介したい。イワシは骨格が硬い硬骨魚類で、背骨は硬いものの、鰭はやわらかくて小骨が多い。世界中に三百種以上あるといわれており、図一(省略)には、イワシの代表的な仲間を示した。 マイワシは、ニシンやサッパと同じニシン亜科に属している。いっぽう、カタクチイワシはカタクチイワシ科、ウルメイワシはウルメイワシ亜科、コノシロはコノシロ亜科に属する。 マイワシとカタクチイワシを比べてみると、なによりも大きさの違いが見てとれる。マイワシは体長が二十四センチに達するのに対して、カタクチイワシはその半分ほどしか大きくならない。頭に注目すると、カタクチイワシよりマイワシの方が、体に占める頭の割合が大きい。回遊できる範囲も、マイワシはカタクチイワシのおよそ二倍におよぶ。よって、マイワシは、その兄弟とみなされているカタクチイワシ・ウルメイワシよりも、じつはニシン・サッパの方に近い。 次に、マイワシのライフサイクルをおさえておく。年平均水温10~20度の温帯域の海でイワシは生きている。日本近海では、早ければ11、12月に産卵することもあるが、主たる産卵期は春の2~4月である。その場所は太平洋側一体の沿岸域だけではなく日本海側にもあり、たとえば能登半島周辺も産卵場となっている。 春に孵化した稚魚は、それから夏にかけて幼魚として育つ。沿岸域で活発に動植物プランクトンをとり、体長六~一二センチの小羽イワシに成長する。夏に丸々と太り、年末には体長14センチ以上の中羽イワシになる。11、12月に産卵するのは、この中羽イワシとみられている。夏に太らないと、翌年の春に成熟することはできない。 二年目以降では、春に産卵したあとがもっとも体が細り、夏にかけて太り、それから秋にかけて痩せていく。体長一八センチ以上の大羽イワシに成長するためには2、3年を要する。鱗から年輪を調べると、八年も生きているケースがあるそうだ。 縄文時代~中世 これから本章で「イワシ」と記されている場合は、基本的にはマイワシのことをさす。日本近海のイワシは、どのような漁によってヒトに獲られ、食べられるようになったのか。 縄文貝塚から出土する回遊魚をみると、北海道ではニシン・ホッケ・タラなどが、津軽海峡以南ではイワシがもっとも多い。おおまかな傾向として、北日本では種類が少ないものの、ニシンのように大きな群れをなして泳ぐ魚が集中的に出土する。逆に、南日本では種類が豊富であるけれども、それぞれの種類ごとの出土量は少ない。縄文時代早期(約一万年~六〇〇〇年前)初めの東京湾口部では、イワシもふくめて、いろいろな方法で漁撈を行う集団が存在していた。 それがどのような方法だったのかといえば、イワシの場合は、船から網ですくわないと獲ることができない。網そのものは全国でもまだ出土例が少ないものの、網の錘、木や軽石製の浮子が存在していることなどをふまえれば、網が広く使用されていたとみなせるという。 古代にはいると、イワシとヒトとの関りが、より深まったことがわかる。いくつか例をあげると、平城京跡から出土した木簡のなかには、税として運ばれた「比志古鰯」の荷札があった。一〇世紀前半に成立した緩和辞書『和名類聚抄』によれば、イワシは「鰯」と「比志古鰯」に区分されており、それぞれマイワシとカタクチイワシとみなされている。干し鰯、鰯のなれずし、醤鰯などがしるされた文献もある。醤鰯とは魚醤のたぐいらしい。 中世の都市遺跡の一つに、瀬戸内海に開けた港町として草戸千軒町遺跡がある。ここからの魚の出土品としてはマダイが圧倒的に多く、スズキがそれに続く。住民たちが大形の魚を賞味していたことの表れといえよう。いっぽう、イワシなどの小型の魚の出土例は意外に少ない。これはイワシが食べられなかったというよりは、むしろその骨が残らなかったと考えた方がよいだろう。なぜなら、瀬戸内海の商品流通の実態を伝える史料『兵庫北関入船納帳』には、「小鰯」などが取り引きされていることが散見されるからだ。 近世初期には、網漁に革新がおこった。網の錘に縄を通す穴のサイズが小型化したからである。要するに、これは網の目がより細かくなっただけではなく、小さな魚を大量に獲ることが可能になったことを意味している。ヒトが魚を一網打尽にする時代が始まったのである。その代表的な魚がイワシであることはいうまでもない。 近世(江戸時代) 網でおびただしく獲られるようになったとはいっても、イワシが生で食べられる時間はきわめて短い。血合いが多く、マグロやタイなどに比べると、うま味となるイノシン酸の分解や脂肪の酸化が速いので、腐りやすいからである。そこでイワシは乾燥されることによって、ヒトの利用に供された。 むろん、干されたイワシは食用にもなったが、近世にはいると肥料として脚光をあびた。人糞や厩肥などのような自給肥料に比べると、肥料として作物にあたえる効果が高かったからである。それに大量に獲られるので、イワシの価格は安い。中世末から畿内でしだいに干鰯が使われるようになり、一六世紀以降は綿・菜種などの商品作物の肥料として需要が伸びていった。 その需要にこたえるべく、大量のイワシを求めて、畿内の漁民は西へ向かうだけではなく、黒潮に乗って東の方へも移動していった。こうして地引網でイワシが浜に引き上げられて、干鰯生産の一大拠点となったのが房総半島の九十九里浜である。港町の一つ銚子(現千葉県銚子市)の漁民に注目してみると、紀伊国(現和歌山県・三重県)から移住してきたという言い伝えの家が多く、一七世紀後半から一八世紀前半にかけての数十年間に移ってきたという。畿内とその近国での肥料不足が〝干鰯ラッシュ〟を巻き起こしたのである。全国的にみれば、その頃は新田開発がピークに達しようとしていたときであり、自給肥料が不足していたこともあいまって、田んぼの肥料としても干鰯の注目度が高くなっていった。 無数にイワシが肥料として製されるにあたり、房総半島では次の方法で加工されていた。ひとつは、なんといっても干鰯である。水揚げされた生のイワシをそのまま海沿いに敷き詰めて、天日で乾かすだけで作ることができる。安房国(現千葉県)で獲れたイワシは干鰯としておもに加工され、江戸後期では「身は薄いが品質が良い」と評判だった。 もう一つは〆粕である。これを製造するにあたっては、はじめに生のイワシを釜で煮たあとに油を搾る。それが魚油であり、行灯用などの安価な油として消費されていた。その油を搾ったあとの残り滓が〆粕なのであり、ブロック状の塊を砕いて出荷され、干鰯よりも価格が高かった。なお、柏崎浦(現千葉県館山市)では、イワシの近縁種であるコノシロも〆粕として加工されていた。
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