京都祇園の夷社と恵比須信仰 |
『えびすさまよもやま史話』 |
西宮神社文化研究所・編 |
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祇園蛭子社 |
京都の恵比須様といえば、東山の建仁寺近くにある恵比須社がよく知られている。現在でも一月十日は十日戎で福笹を求める人で賑わっている。この恵比須様は、栄西が宋からの帰国時に暴風に見舞われた際に現れて加護した神とされ、建仁寺を建立する際に鎮守として祀られたものといわれている。ただし、ここで行われている「十日夷」自体は意外にも比較的新しく、安永二年(一七七三)に門前の氏子たちによって始められた行事であることが明らかにされている(小出祐子二〇〇二)。
そしてもう一つ、京都には忘れてはならない恵比須様のお社が八坂神社(江戸時代までは祇園社)の境内にある。八坂神社の末社で、「祇園えべっさん」と呼ばれて商売繁盛の神様として親しまれている。社殿は正保三年(一六四六)のもので、国の重要文化財にも指定されている。現在は社務所に隣接した場所にあるが、江戸時代までは繁華な祇園に面した西門のすぐ近くにあった。 所在について、中世の史料には「西大門脇南頬一番夷之社」などと記されている。(『早稲田大学所蔵荻野研究室収集文書』)。京の町から四条通りを経て西門をくぐって祇園社の境内に入ると、まっさきに眼に入る祠だったようだ。 「夷社」は、鎌倉時代末の元徳三年(一三三一)に描かれた「祇園社絵図」には見えないが、正平七年(一三五二)には、「夷」は尼が「先年」造立したものとある(『祇園執行日記』)。応安二年(一三六九)の史料には、「西のもんのうち南のわき」の夷社は「乗心こんりゆうの小しゃ」とあり、その所在と建立した尼の名も判明する(『早稲田大学所蔵荻野研究室収集文書』)。こうしたことから、一四世紀半ばまでには江戸時代と同じ西門の近くに存在していたことが分かる。 祇園会の時には、今宮戎神社のある摂津国(現・大阪府)の今宮村住人が神輿を担ぐための駕輿丁として京都に来ていた(河内将芳 二〇一二)。これは、遅くとも一四世紀には行われていたようで、彼らは今宮神人と呼ばれて京都で蛤や魚を売買する商人でもあった。現在、祇園社では、今宮戎を祇園社の夷社を勧請したことに始まると伝えている。史料で裏付けることは難しいが、祇園社の恵比須信仰を支えていたのも、初めはこうした人びとだったかも知れない。 室町時代には京都の経済発展とともに福神信仰が盛んになり、いくつもの恵比須さまを祀る神社が中世の京都では確認できるようになっているから、祇園社境内の恵比須様も広く信仰を集めたことであろう。そのせいか、中世の祇園社境内には、このお社を含めて、少なくとも三つもの恵比須様をお祀りする祠があったようなのである(『祇園社記』第一九)。 祇園社境内には、数多くの摂末社があったが、これらはすべて棚守職という権利を持っている人が管理しており、賽銭などを手にすることができたらしい。夷社も同様で、宝徳三年(一四五一)には、光千代丸(幸千代丸)という人に棚守職を任じる史料が残されている(『早稲田大学所蔵荻野研究室収集文書』)。この時の史料によると、幸千代丸たちはこの権利を代々にわたって引き継いでいたようだ。同じ年の同じ日に幸千代丸は近江国成保大炊職・謀屋敷などの権利が付与されているので(『新修八坂神社文書 中世編』八七号)、この時に代替わりがあって、先祖代々の権利を引き継いだのだろう。この夷社は、数ある祇園社境内の摂末社のなかでも、西門を入ってすぐの場所にある立地の良さに加えて、著名な福の神である恵比須様をお祀りしていたこともあって、集まってくる賽銭も少なくなかったのではないだろうか。 応仁の乱から戦国時代にかけて京都は戦災による被害を受け、祇園祭さえも中断したくらいだから、祇園社境内にあった夷社を「建立」し、慶長十年(一六〇五)に宮守職が任じられたとする史料があるので(「祇園社記」第十九)、これらの夷社が西門南脇のものだったとすれば、十六世紀末くらいには再興されたのかもしれない。 江戸時代には祇園社の社頭も賑わいを取り戻していく。京都の町が復興してくると祇園社の氏子であった下京一帯は経済力を誇った豪商をはじめ、商売人が多くなってくる。そんななか、商売繁盛を祈って祇園社の恵比須様にお参りする人も増えてきたようである。 十七世紀には、「北向ノエビスハ是計」だと社殿が北向きになっているのが珍しがられていたようで、非常にはやっていたらしい(『嘉良喜随筆』巻之三)。正徳元年(一七一一)刊の地誌によれば、ここには恵比須の木像を安置してあり、「北向夷」という額もかかっていたという(『山州名跡志』巻之二)。 このお社は、十月二十日が御縁日とされている。実は、この十月二十日は京都の町では広く恵比須講が行われていた日で、多くの商人たちは自宅で恵比須様をお祀りしていたらしい。そして、同じ日には祇園社御旅所に接する冠者殿社という社へ多くの商売人が訪れていた。ここは「誓文払の神」といわれていて、この日にお参りすると商売上ついた嘘の罪を払ってくれるとされていた。 恐らく、商人の信仰を集めていた恵比須講と冠者殿社への参詣を組み合わせて、江戸時代の半ばくらいまでには、祇園社の恵比須社もまた参詣対象になっていたのだろう。祇園社の社代という役についていた人の日記には元禄五年(一六九二)十月二十日に「夷社参り多し」と見えているから、この頃には多くの祇園の夷社に多数の参詣者が訪れていたのであろう(京都市歴史資料館架蔵写真帳「上河原雄吉家文書」D-3)。 その後、建仁寺恵比須社の「十日夷」が栄えているのに影響されてか、いつしか祇園社境内の恵比須社も十月の縁日に加えて「十日夷」を行うようになっていったようだ。 こうした京都の恵比寿信仰の隆盛と「西宮神社御社用日記」で明らかにされてきた、京都を活動の場とするえびす願人がどのように関わってきたかについては、今後の課題である。
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