えびす神の発祥の地はどこでしょうか? 


 宮本常一氏の『エビス神』を読むと、安芸国の佐伯氏(安芸の豪族)が厳島に宗像三神を祀った時(推古天皇元年)に、荒えびすを本殿の一角に祀ったのが最初ではないかと書かれています。

 ヤマト王権は、日本武尊が東国で捕虜にした蝦夷(エミシ)を伊勢・大和を経て播磨、讃岐、伊予、安芸、阿波の五国に住まわせました。これらの蝦夷(エミシ)が佐伯部の祖といわれます。その安芸の国の佐伯部を管掌したのが佐伯氏です。

 えびす神は東国から移住させられた佐伯部が彼らの神を祀ったものだという説もあります。 えびす様は海神、渡来神、漂着神、漁民の豊漁神などということからはじまり、市の神、商業神、そして農業の神として信仰されています。

 エビス神のルーツを日本の神話の中に求め、伊弉諾、伊弉冉の神が高天原で国生みをしたとき、最初に生まれたのが蛭子で、その蛭子をエビス神と考える伝承もあります。瀬戸内海地方でのエビス社に多く見かけます。

 また、日本海側では事代主命をエビス神として祀っています。天孫降臨にさきだって、フツヌシノ神、タケミカヅチノ神が、出雲の国を天照大神にゆずるように大国主命に迫ったとき、大国主命は息子の事代主命に決定をゆだねます。美保が関で魚釣りをしていた事代主命が出雲の国譲りを了承したと伝えます。もとより神話の中の話ですが、後に事代主命をエビス神とする伝承がおこって来ます。 エビス神は昔からの漁村に祀られていることから起源はかなり古いと見られています。蛭子も事代主も海に関係を持った神で、蛭子は葦船に入れて流しすてられ、兵庫の西宮で拾いあげられたと伝わります。
 
 おなじエビス神でも瀬戸内海や太平洋岸では漂着神的な性格がつよいのが特色です。たとえば大阪府石津太神社はエビス神としては古いものの一つですが、早く石津浜の漁民に祭られました。この漁業集落がいつ頃成立したものであるか明らかでありませんが、石津太神社はすでに『延喜式』にも見えており、石津郷は『和名抄』に出ていますから、石津の海岸には早くから人が住んでおり、石津太神社を信奉していました。この石津太神社の祭神はエビス神と信じられており、土地の伝承によると、エビス神(蛭子)は十二月にこの浜に漂着、寒い日だったので漁師たちは浜で火をたいてあたため申しあげた。

 漁師が渚に漂着していたのを拾いあげてまつったという話は点々として見られる。そういうものが習俗としていまも伝承せられているのは九州南部のエビス石であろう。鹿児島県大隅半島の東岸などでは正月十五日に若い者が水中深くもぐって手にあたった石をとりあげて来てエビス神として村中でまつっている。神体は毎年とりかえるのである。また鹿児島県の西方海上にある甑島では漁業の始まる日に若者が眼かくしして水中にもぐり、手にあたった石をとりあげて来てエビス神としてまつるという。そして不漁のときはその石を捨て、海中からまた新しい石をもとめてエビス神としてまつった。このような習俗が南九州以外にどのように分布しているかを知らないが、海岸によりついた石をひろって神にまつる風習は壱岐や対馬にもあって、海岸に石をまつっている風景をよく見かけるが、これは必ずしもエビス神ではなく、その初めは寄(より)神としてまつられたものであろうが、後にはエビス神としてまつられるようになったものもあると思う。

 エビス神が漁業神であったことを物語るのは神像の姿です。立烏帽子をかぶって魚を腋下に抱いています。その神像の最も古いものは室町初期にさかのぼることができ、播磨東部山中にのこっています。 また播磨三木市吉川の東光寺には応永年間(一三九四-一四二八)の奥書のある、もと西宮社にあった大般若経がのこっています。明治維新の廃仏毀釈の際ここに移されたものであろう。

 これらの事から南北朝の頃には少なくとも西宮のエビス社の信仰はかなり盛んになっており、そのエビスの姿は鯛を抱いているものであったことがわかる。そしてその社の前の南浜では魚市がひらかれていたのである。多分こうした事が一つの流行になったものか、市の立つところにはエビスの神がまつられるようになる。記録にのこるところでは長寛元年(一一六三)奈良東大寺に夷神がまつられ、建長五年(一二五三)には鎌倉鶴岡八幡の境内に江美須をまつったといいます。

 さらに乾元元年(一三〇二)に奈良の南市がはじめられるや市神としてエビスをまつり、延文四年(一三五九)にも大和常楽寺の市に夷社をまつっている。漁民は魚をとり、そのとった魚を金にかえるなり、自分の必要とする品物と交換しなければ生活をたてることはできない。その事から漁民が交換経済に密接に結びつかねばならないとともに、漁神のエビスが商神的性格を持ってくるのだが、鯛を抱いているスタイルは捨てなかったのである。

 同時にエビスが商人に信仰せられるようになっても漁神としての性格も失われたわけではない。漁民にとっては依然として尊敬せられ、漁浦には大抵エビス神がまつられている。

 また瀬戸内海や豊後水道などではイワシ網のミト、すなわち袋のついているところについている浮子(アバ)をエビスアバといっている。そのアバは通常桐の木でつくってあって、立烏帽子の形をしており、このアバに神霊が宿ると考えており、冬季間網を引かないときは取りはずして神社の神殿の中や、網元の床の間にかざっておき、一月十一日には網霊おこしと言ってそのアバを親方や網子一同が祭ってその年の豊漁を祈る。


 エビス神は漁民に豊漁ひいては幸福をもたらす神として特に尊ばれ、魚を釣るときも、釣鈎に餌をつけてはじめて海に投げ込むとき「チュツ、エビス」ととなえると魚がよく釣れると信じられている所が多い。あるいはまたサメ、イルカ、マンボウなどの大きな魚は小魚を寄せて来るのでエビスとよんでいる所が少なくない。

 こうした漁民の中には陸上がりして、その信仰を持ちあるく者も少なくなかったと考える。エビスかきとかエビスまわしといわれる仲間はそれであったと思われる。エビス人形を持ち、それを持って門付をおこない、唱え言をしながら人形をまわし、家々の幸福や豊漁を祈って歩いた。エビスまわしは西宮ばかりでなく淡路からもたくさん出ていたようである。


 一方エビス信仰は交易の神として都会でもまつられるようになる。佐賀市などでもずいぶん盛んにまつられたもののごとく、市内のいたるところに石像のエビス神を見たものだが、最近町の街路拡張などのためずっと少なくなっている。
 だが秋十月におこなわれるエビス講は商人の講として、今日でも地方の小都市にはかなり盛んにおこなわれており、広島ではエビス講の市は大売り出しを兼ねて人出も多く、重要な年中行事になっている。

 エビス神は商神として、さらに農神として農民にも信仰せられるようになる。農家の台所には大黒天とともにまつっている例があり、田植えをすましたあとは、苗を三把もって来て、これをエビスさまの前にそなえるという例が多く、この苗をエビス苗といっている。長野県地方に多く見られる風習である。


 このようにしてエビス神信仰は漁民以外の世界へひろがっていくのであるが、石津太神社、西宮神社、美保神社などをのぞいて、いずれもその社は小さく、時には社も持たぬ程度のものが多く民衆の生活に密着し、それぞれの家庭にまで入り込んでいった。
  『エビス神』 宮本常一 (えびす信仰事典)   

追記
 『「
新撰姓氏録」から解き明かす 日本人の血脈 神々の子孫 』 という戸矢学氏の著書を読むと、中国江南地方から渡来した海人族すなわち海部の信ずる神は「エビス神」との記述があります。豊後の海部の佐伯に居住する者として、大変勉強になりました。


下記の論文が大変面白く、参考になります。

伊藤周太著
えびす神信仰の起源に関する考察
 ー瀬戸内海沿岸地域における蝦夷系住民の活動を中心に                

 


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