「馬」と「船」の道
倭人・倭奴
古代の日本人が「倭人」と呼ばれていたのは、一般に知られるところである。もともとは、背が低くて(矮小)、猫背、かがみ腰の人を意味する漢語(『説文解字』、『漢書』谷永伝など)であるが『魏志倭人伝』に、主として日本列島西北部に住み、「沈没(シズミモグ)ルコトヲ好ミ、魚蛤ヲ捕り、身に文(イレズミ)する」と紹介されているように、「船」の文化の担い手である水上生活者「水人」を呼ぶ言葉として使われており、以後は日本人を指すようになった。
しかし、中国の文献を検証すると、『倭人伝』の書かれた三世紀以前は、必ずしもその使用が日本列島西北部のみに限定されていない。 「倭人」という漢語が、成立年代の確かな中国の古代文献に見え始めるのは、一世紀である。後漢の班固が著した『漢書』地理志(下)の「燕地」の条には、「楽浪ノ海中ニ倭人有リ、分レテ百余国ト為ル。歳時ヲ以テ来リ献見スト云ウ」が見える。ここでは「倭人」の居住地は「楽浪の海中」すなわち西朝鮮湾から渤海湾、黄海に至る海域と結びつけられ、古代中国の「燕地」すなわち現在の北京・河北の地域にまで拡げられている。
このように倭人を燕地と結びつける例はほかにもある。前三世紀頃の『山海経』海内北経には「倭ハ燕ニ属ス」とあり、さらに『魏書』太祖記には、太祖道武帝が登国十年(395)、同じく「燕地」に都を置く後燕国王・慕容宝の王子・魯陽王倭奴を生擒(イケドリ)にした記事を載せている。後燕国の王子に「倭奴」という名前が付けられているのは、「倭人」が古代中国の燕地と密接に結ばれていることの一例証と見ることができよう。
なお、この「倭奴」という漢語は、『後漢書』東夷伝に「建武(光武帝)ノ中元二年(57)、倭奴国、貢ヲ奉ジ朝賀ス」とあり、後の「唐書」東夷伝や『宋史』外国伝に、「日本ハ古(イニシエ)ノ倭奴ナリ」、「日本国ハ本(モト)ノ倭奴国ナリ」などと、日本国全体の名称とされている「倭奴」と共通する。ちなみに光武帝が倭奴国に与えたという「漢倭奴国王」の五文字を刻する蛇紐(ダチュウ)金印は、江戸時代に筑前の志賀島で発見され、現在は福岡市博物館に保管されているが、「倭」の字を古い形の「委」に作っている。
以上、「倭人」の居住地を「楽浪ノ海中」もしくは「燕地」と関連づける中国古代の文献資料を挙げてみたが、同類の資料として注目されるのは、後漢の王充(27-91)の『論衝』である。 その中の儒増篇「周ノ時、天下太平ニシテ越裳(古代の国名。今のベトナム北部)ハ白雉ヲ献ジ、倭人ハ鬯草(チョウソウ)ヲ献ズ」、同じく恢国篇「(周ノ)成王ノ時、越常(裳)ハ雉ヲ献ジ、倭人ハ暢(鬯)ヲ貢ス」の記述は、いずれも「越裳」とセットにして「倭人」の語が含まれている点で注目を引く。鬯草とは、祭祀用の芳草である。 この「鬯草」を、儒教の古典『周礼』の「鬱人(ウツジン)」「鬯人」などの記述や、『礼記』などに多く見える祭祀用の香草「鬱鬯」と同一視して、これを献じた倭人の居住地を漢代の鬱林郡(今の広西省貴県の東方地域」に比定する説もある。解釈としては一応成立する。しかし、上掲の文章に「成王」「天下太平」、「献」、「貢」などの漢代祥瑞思想(太平の世に吉祥が現れるとする天人感応学説)と密接に関連する用語が見えていること、また儒教の古典『逸周書』王会篇に「東夷」すなわち東方の夷狄が、周の成王に対してさまざまな貢献を行う記述を乗せていることなどを考慮すれば、「鬯草」を献じた倭人の居住地も、やはり古代日本の「倭の水人」たちと密接な関連交渉をもっていた呉越の地区と見るのが適切であろう。
呉越の地区の住民たちが、北方の「馬」の文化圏の支配者たちから東方の夷狄と見なされていたことは、儒教の古典『春秋穀梁伝』「呉ハ夷狄ノ国ナリ。髪ヲ祝(タ・断)チテ身ニ文(イレズミ)ス」、また後漢の袁康『越絶書』「越王勾践ハ夷狄ニシテ身ニ文ス」などによって確認される。 とくに、上述の呉と倭人との緊密な関係については、時代は少し下るが、元の金履祥『通鑑前編』に「呉凶、海ニ入ッテ倭ト成ル」、すなわち呉の国の不逞の族(やから=支配者にまつろわぬ者たち)が船で海原を渡って倭人になったのだという極論まで載せられるに至っている。
要するに、漢語としての「倭人」は、古く日本列島西北部の「倭の水人」のみでなく、西朝鮮湾から渤海湾、黄海に至る沿海地区、さらには東シナ海に至る広大な海域にもその居住範囲を持ちうる、「船」または「舟」の生活者集団を呼ぶ言葉であった。彼らは背が低くて猫背でかがみ腰、頭髪は短く切って身体に刺青を施し、主として漁撈に従事して水田耕作をも兼業する生活を営んでいた。
この「倭人」の「倭」を「やまと」と訓(よ)んで、固有名詞の中に使用しているのが、『古事記』東征神話の神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと=神武天皇)である。その「神倭」の「倭」を人名、地名、国名などに用いている例は、『古事記』全巻の中でおよそ70回に及ぶ。 そして、この「倭」の字を「心」と結合させた「倭心(やまとごころ)」を儒教の「漢意(からごころ)」と対比させたのが、「古事記伝」の著者・本居宣長である。
「倭人」と「越人」
漢語としての「倭人」
「倭人」という言葉は、『古事記』『日本書紀』などの奈良朝日本古典には全く用いられていない漢語、すなわち古典中国語であるが、この漢語としての「倭人」が現有する中国古典歴史文献に初見するのは、紀元一世紀の半ば、後漢の班固(32-92)によって編纂された『漢書』地理志(下)の「燕地」の条である。 玄菟(ゲント)・楽浪ハ武帝(前141-前87年在位)ノ時ニ置ク(玄菟・楽浪・臨屯・真番の朝鮮四郡の設置は『漢書』武帝紀によれば、武帝の元封3年〔前108〕夏のことである。……楽浪(現在の北朝鮮平壌の地域)ノ海中ニ倭人有リ、分レテ百余国ト為ル。歳時ヲ以テ来リ献見スト云フ。
この『漢書』地理志の文章においては、「倭人」は楽浪の海中、すなわち西朝鮮湾から渤海湾、黄海に至る海域と結びつけられ、古代中国の「燕地」すなわち現在の北京・河北の地域と結びつけられているが、「倭人」と「燕地」とを結びつけるのは、『山海教』海内北教にも「葢(ガイ)国は鉅燕ノ南、倭ノ北ニ在。倭ハ燕ニ属ス」とあって、ここでいわゆる漢語としての「倭人」の居住地が、朝鮮半島の西海岸から遼東半島の沿海地区を含めて渤海の沿岸地区に及ぶ広大な範囲であり得ることを強く示唆している。この「倭人」の居住地に関する上述のような強い示唆は、『後漢書』烏桓鮮卑伝に載せる以下の「倭人」の記述によっていっそう確実に裏付けられる。
光和元年(178)冬、(鮮卑)マタ酒泉(甘粛省)ニ寇ス。縁辺、毒ヲ被ラザル莫シ。(鮮卑ノ)種衆、日ニ多ク、田畜射猟ノミニテハ食ヲ給スルニ足ラズ。(鮮卑王ノ)壇槐槐、乃チ自ラ徇(メグリ)行(アルキ)、烏侯(ウコウ=地名)ノ秦水ノ広(ヨコ)従(タテ)数百里、水停(トドマリテ)流レズ、其ノ中ニ魚有ルヲ見テ、之ヲ得ルコト能ワズ。倭人ノ善(タクミ)ニ網モテ捕フルヲ聞キ、是(ココ)ニ於テ東ノカタ倭人ノ国ヲ撃チ、千余家ヲ得テ、秦水ノ上(ホトリ)ニ徙(ウツシ)置キ、魚ヲ捕リテ以テ糧食ヲ助ケシム。
すなわち、ここでもまた「倭人」の居住地は、騎馬民族である鮮卑族の居住する烏侯の秦水の東方、遼東半島の沿岸地域から渤海湾の沿岸地域に及ぶ朝鮮半島の西北部、ないし中国漢代の「燕地」に近接する地域とされている。 以上、見てきたように、前漢・後漢時代における漢語としての「倭人」の居住地は、朝鮮半島の西北部ないし中国漢代の「燕地」に近接する地域とされているが、ここで注目されるのは、同じく後漢の時代、起元一世紀の半ばに書かれた王充(27-91)の著書『論衡』に、その儒増篇など再度にわたってほぼ同文の用例が見える「倭人」の記述である。
(一)儒増篇「周ノ時、天下太平ニシテ越裳(国名。『後漢書』南蛮伝に「交趾ノ南ニ越裳国有リ」とあり、「交趾」は現在のベトナム北部)ハ白雉ヲ献ジ、倭人ハ鬯草(チョウソウ)ヲ献ズ」 (二)恢国篇「(周ノ)成王ノ時、越常(裳の訛字)雉ヲ献ジ、倭人ハ愓(鬯=チョウ)ヲ貢ス」
この王充の『論衡』にいわゆる「周ノ時……倭人ハ鬯草(チョウソウ)ヲ献ズ」の「鬯草」は、儒教の古典『礼記』郊特牲篇に「周の人ハ(祭祀)ニ臭(ニオイ)ヲ尚タットビ、濯グニ鬯ノ臭ヲ用ウ。鬱ヲ鬯ニ合セ、陰(ツチ)ニ臭シテ淵泉(チノソコ)ニ達ス」とあり、後漢の許慎(30‐124)『説文解字』第五篇(下)「鬱」字の条に、「鬱鬯ハ、百草ノ華ト遠方ノ鬱人貢スル所ノ芳草トヲ合セ、之ヲ醸シテ以テ神ヲ降ス。鬱ハ今ノ鬱林郡ナリ」とある。これらの記述によれば、「周ノ時……鬯草ヲ献ジタ」「倭人」というのも、鬱鬯の産地である「鬱林郡」すなわち現代中国の広西省貴県の東方地域に住む蕃夷の一種とみることもできよう。
ところで以上見てきた『漢書』地理志、『山海教』海内北教、『後漢書』烏桓鮮卑伝、『論衡』儒増・恢国各篇の「倭人」が、必ずしも古代の日本列島を居住地としないのに対して、中国の後漢時代につづく三国時代の正史『三国志』魏書、いわゆる『魏志』の倭人伝――「倭人ハ帯方(もと楽浪郡二十五県の一県)。後漢末期に郡として独立。現在の平壌の南地区)ノ東南ノ大海ノ中ニ在り。山島ニ依リテ国邑ヲ為ス。……漢ノ時ニハ(中国ニ)朝見スル者有リ。……(帯方)郡ヨリ倭ニ至ルニハ海岸ニ循イテ水行ス。……男子ハ大小ト無ク皆面(カオ)ニ鯨(イレズミ)シ身(カラダ)ニ文(イレズミ)ス。古(イニシエ)ヨリ以来(コノカタ)、其使(者)中国ニ詣イタレバ、皆自ラ大夫ト称ス……」。および、この三国時代につづく晋王朝の時代の正史『晋書』の倭人伝――「倭人ハ帯方ノ東南ノ大海ノ中ニ在リ。山島ニ依リテ国ヲ為ス。地ニ山林多クシテ良田無ク、海物ヲ食ス。……男子ハ大小無ク悉ク面(カオ)ニ鯨(イレズミ)シテ身(カラダ)ニ文(イレズミ)シテ、自ラ(呉ノ)太伯ノ後ト謂ウ。……其ノ道里ヲ計ルニ当(マサニ)会稽東治ノ東ナルベシ。……(男女)皆ナ被髪徒跣ス。其ノ地温暖ニシテ、俗、禾稲紵麻ヲ種ウエテ蚕桑織績ス。土ニ牛馬無シ……」――になると、これらの書にいわゆる「倭人」の居住地は、ほぼ現在の日本列島、なかんずくその沿海地域に限定されるようになる。 その主要な理由としては、それまで黄河流域に首都を置いてきた漢民族国家が、次第に南下して首都を江南の建鄴(南京)に移して古代日本国に近接し、したがって漢語としての「倭人」が、主として日本列島沿海地区の居住者を呼ぶ言葉として定着するようになった事情が考えられる。
『馬の文化と船の文化ー古代日本の中国文化』 |
福永光司 1996年3月25日初版発行 人文書院 2800円(税別) |
福永 光司(フクナガ ミツジ)
1918年大分県中津市生まれ。1942年京都帝国大学文学部哲学科卒業。同年10月熊本野砲兵聯隊入営。戦争末期に中国大陸に渡り、広東省で終戦を迎え、47年上海から復員。東方文化研究所(京都)助手、大阪府立北野高校教諭、愛知学芸大学助教授、京都大学人文科学研究所教授を歴任。1974-79年京都大学文学部教授。1980-82年京都大学人文科学研究所所長。定年退職のあと関西大学文学部教授、北九州大学外国語学部教授を勤める。その後、故郷の中津に住み、執筆・講演活動を行う。2001年没。
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