海部と佐伯-6 


佐伯是基とは?

 天慶2年(939年)から天慶4年(941年)にかけて藤原純友の乱が起こりました。純友の乱終焉後の天慶4年8月、日向国を襲って藤原貞包に捕われた藤原純友の次将佐伯是基は、その姓から推測されるように豊後国海部郡佐伯院の豪族で、翌月同地を急襲し追捕使次官源経基に敗北した桑原生行はその党類であったとみられている(本朝世紀)。

 上記のように、佐伯是基の出自は豊後国海部の佐伯といわれているが確証は無く、伊予の佐伯部との説もある。古来、豊後国海部郡の佐伯と伊予国宇和郡の宇和島は密接な関係にあったといわれる。伊予側の史料から佐伯是基を見てみよう。


伊予の佐伯部


 伊予の佐伯部に関する史料として景行紀五一年の条がある。これによれば、「日本武尊はその死にあたって俘虜の蝦夷を熱田神宮に献じたが、蝦夷たちが昼夜の別なく騒ぐので、倭姫命の献策によって三輪山の大神神社の付近におくことにした。しかし、それでも困り、結局畿外におくこととなった。それが播磨・讃岐・伊予・安芸・阿波五国の佐伯部の祖である」と記されている。これは大和朝廷が支配領域を拡大するのに伴って辺境の人民を編成し、同時に彼らをして地方の守備の任にあたらせたことを示している。
ただ、この記事では佐伯部の設定を景行期とするが、この時期の『日本書紀』の内容には多くの造作がみられるので、その時期については疑問としておくのが妥当であろう。
 さて、この記事にみえる佐伯部は果たして伊予国におかれたのであろうか。伊予国においてはこの史料以外に佐伯部の存在を示すものはなく、この記事をそのまま信頼することには慎重でなければならない。しかし、そのいっぽうで、伊予国を除く播磨・讃岐・安芸・阿波の四か国においてはいずれも佐伯部や佐伯直の存在が確認される。また逆に、『日本書紀』に記された国以外には佐伯部は全く認められない。したがってこれらの事情からすれば、伊予国にも佐伯部が設定されていた可能性が強いといえる。つぎに、佐伯部は地方的伴造を通して中央の佐伯連と氏族的関係をもっていたと考えられる。この佐伯連は大伴氏の一族であり、朝廷の軍事に深く関与した氏族であった。そのことは藻壁門は「佐伯氏造之」とあるように古くから天皇に近侍して宮城の守衛にあたっていた。このようなことからすれば、伊予国の佐伯部もまた軍事的意義を付されていた可能性が強いといえる。



伊予海賊発達史 
 
    著作者 景 浦 勉 
    発行所 三好文成堂 
         松山市外道後 湯之町本町 
    昭和13年11月28日発行 定価 七拾銭 


一 海賊の史的意義と伊予海賊発達の事情



海賊史研究の必要

 世界のいずれの国においても史上にその姿を現した海賊は、その国家並びに民族の発展活躍の上に重大な史的価値を有する。殊に四囲を海に囲まれた我が国や英国の如きにおいては国民の海上活躍即ち海賊的発展の歴史を没却してその国家の隆昌を語ることはできない。従って史書を繙くものにとって海賊を海軍史、外交史、社会史及び経済史の方面からもまた国家の発展史の上からも総合研究する必要がある。


「海賊」の意義

 海賊史を考究せんとするものにとって、まず記憶すべきは、わが国史上における「海賊」なる言葉の意義の時代による変遷である。
 我が国史に出現した海賊は、現今のいわゆる海賊と大にその意義を異にするのみならず、その形態も非常な相違を表示している。今日吾人が普通に海賊と言えば、所謂海上の盗賊であって、航行中の船舶を襲撃して人質を拉致したり、或いは金品を略奪する剽悍なる徒を指すけれども、我が国史において使用せられた海賊なる言葉は、昔からその時代の推移によって幾多の変化を免れなかった。次に私は、海賊発達史上に於けるこの「海賊」の意義の変遷について述べることにする。


海賊則ち海上の豪族

 瀬戸内海方面における海賊の活躍は、種々な史料から類推すれば、既に上古より存在していたように考えられる。降って奈良時代になって、其の横行は益々甚だしくなり、船舶を侵奪して交通を阻止し、且つ良民に危害を与えることも少なくなかった。
 然るに平安時代に入ると、時勢の趨移に従い、此の海賊の意義も内容も漸くその趣を異にしてきた。翻ってその所以を考えるに、中央政界にあっては、藤原氏が専権と驕奢を恣にするとともに、紀綱は甚だしく弛緩し、地方の政治は自ら紊乱していった。かくて地方の治安の維持が困難となり、甚だしきは無警察の状態に陥ったころ、地方の豪族が次第にその地の実権を掌握した。
 茲にこれらの豪族は武士なる新階級を形成したが、就中瀬戸内海沿岸の諸豪族は海上の武士すなわち水軍としての海賊の形態を組織して活動し始めた。当時の海賊はかかる過程によって成長し、且つ発達したものが決して少なくなかった。また中央政府に信頼することのできなかった地方の民衆は己の生命の安全を確保し、且つ生計の困難を克服するために、これ等の豪族、即ち海賊に依頼せざるを得なかった。
 例えば藤原純友を注跋するにあたり、官兵の一部となって大なる功績を挙げたのは、実にこの海賊であり、源平二氏の瀬戸内海の争奪戦に最も活動したのが当時の水軍即ち海賊であったことは這般(しゃはん)の消息を伝えたものと謂うことができる。
 かかる点から観察すれば、平安時代の海賊はもはや単なる海上の盗賊ではなかったのであって、既に両者の間に著しい相違のあることが分かる。
しかし私はこの時代の海賊が悉く善良なる豪族であったと断ずるのではない。海賊の中には交通を妨害した海賊もあれば、又当局者の施政に対して不平不満の極念に起こって反抗し、遂に乱暴狼藉を敢えてしたものもあったことを忘却してはならない。


海賊すなわち海軍

 さらに平安時代の末期から鎌倉時代にかけて海賊はますます戦闘的且つ集団的な訓練に習熟すると共に、その勢力は旺盛となり、遂にその地方の制海権をも独占することになった。殊に鎌倉幕府の威令の衰微するに従い、海賊は次第に海軍たるの組織とますます完備せる形態を保持するようになった。
 かくて海賊なる言葉が公然として海軍を意味するようになったのは吉野朝時代に入ってからのことであった。この時代の古文書を披見すれば、明らかに海軍のことを海賊と称し、その将士を海賊衆と言っている。これらの例は吉野朝廷側においても、これと反対の立場にあった足利幕府においても、また用いられたのであって、海賊すなわち海軍なる観念は殆ど全国的なものとなったのである。
 その後、室町及び織豊時代を経て江戸時代に入ってもなお海賊則ち海軍なる概念は遺存していたのであって、室町期に自ら海賊大将と称したものの少なくなかったこと、又徳川幕府の職制の中に海賊奉行なる名称の残存したことは、共にこの間の消息を伝えたものである。蓋し海賊奉行は海賊方、船手衆等の当時の水軍を統括する職務を持ったものであった。
 かかる点から観察すれば昔時の海賊が歴史上の意義及び社会上の地位に至るまで、今日のそれと非常な距離を持っていたことは明瞭である。更にこれによって我が国の海賊の発達変遷のあり様を想見することができる。


伊予における海賊の発達の地理的事情

 伊予海賊の名は、古来史上に著名であるのみならず、国史の上に重要な地位を占めている。次に私は伊予に海賊の発達した地理的事情を考察することにしたい。
 伊予の国は、前面に瀬戸内海を控え、其の東部は播磨灘を隔てて遥かに武庫の浦に対し、その西部は豊後水道によって九州に接する。従って伊予の国は陸路による交通は不便であっても、瀬戸内海に臨んでいるために中国九州との交通は甚だ便利であったのみならず瀬戸内海の航路の一要衝に当たっていた。その上国内には山地多く樹木が鬱生し、船舶を造るに適していたから、住民は海に親しみ、海上に活動すべき地理的条件を付与せられていた。
 更に伊予の前面には、大島・因島・屋代島・忽那島・日振島等の大小無数の島嶼が綺羅星の如く散在している。且つこれ等の島嶼が錯綜しているために潮流の激しい箇所が非常に多かった。従って瀬戸内海を航行するには、地理に精通するにあらざれば安全にかかる地点を通過し、無事に目的地に赴くことが甚だ困難であった。又海峡・瀬戸の咽喉を扼し、通行の船舶を一望の中に尽くすが如き絶好の地位を占めるものも少なくなかった。事実においてこれ等の島嶼が伊予海賊の重要なる根拠地となり、且つこれ等の海面が彼等の活動の舞台となったのである。
 又伊予本土及び島嶼に、農産物の豊富であったこと等も、伊予人の海上発展の緊要なる条件を形成するものと謂わなければならない。
 かく観察すれば伊予の海上部民は後のいわゆる「海賊」に発達すべき地理的要素を具有していたと称しても過言ではあるまい。


伊予海賊発達の歴史的事情

 更に翻って伊予海賊の発達の事情を史的に考究してみる。
 古来伊予の国及びその住民が、海と関係の深かったことは多くの伝説によって想像することが出来る。一例を挙げると伊予風土記逸文には瀬戸内海に面する国々、および島嶼の住民や海賊等の信仰の甚だ厚かった大山積神に関して、次の如き記録を遺している。

  (前略)大山積神、一名知多志大神成。是神者所
顕難波高津宮御宇天皇(仁徳天皇)御世一。此神自百済度来坐。
      而津国坐云々。謂
御島者津国御島名也。

 この風土記に伝えられた説話――大山積神の仁徳天皇の朝に百済から御渡航になった――に就いては、卒にこれを信ずることはできないとしても、大山積神を奉斎せる大三島神社に風雨雷霆の守神なる高龗神を合祀せる事情を併せ考える時、伊予の人々が海と甚だ密接不離な関係にあり、且つ海外渡航を理想としたことを明らかにできる。
 なお三島社伝には仲哀天皇の熊襲征伐、神功皇后の新羅征伐を始めとして数回に亘る外征に伊予の海辺の部民が従事し偉功を奏した記事が掲載されている。また略同様の記録が豫章記、河野家譜などにも見えているが、その史的考証は暫く措くとするも我が伊予の人士の活躍が非凡であったことを表象したものと考えられる。


海部の設置と海賊

 更に海賊発達史の上に忘却することの出来ない事項は海部 ―― この解釈については種々の異論があるが普通には一旦有事の際に海軍として活動すべき部民を指す ―― と海賊との関係である。応神天皇の朝に諸国に海人部が設置せられたが、瀬戸内海方面では吉備、阿波、豊後等の国々であった。蓋し海賊を掃討すべき海部の設置せられたことによって此の方面 ―― 伊予の近海にも海賊の活躍していたことを想像することができる。
 更に景行天皇の御世に日本武尊の蝦夷征討の結果伊予を始め播磨、安芸、阿波、讃岐等の五国に其の俘囚を分置せられた。これ等の俘囚は佐伯部の管下に属したが、その性質が剽悍なために、海賊の取締りに用いられるようになった。この前後の事情よりすれば、おそらくこれ等が佐伯氏を中心とする海部となったのであろう。
 茲に注意すべきは上代において、これ等の海部が中央政府の施設の良否、或いは時勢の動向によって、それ自身急変して海賊と化するの危険性のあったことである。殊に平安時代に入り、海賊の横行の甚だしい時において、当局者がこれ等の海部を重視して、その討伐に用いたため佐伯氏の実権はますます確固となった。かくて地方政治の紊乱によって海部の中には却って海賊となり暴戻を働くものさえ生じた。ここに海部の発達と海賊の猖獗の関係を察知することができる。


史料に現れた「海賊」の初見

 更に確実なる史料の中に瀬戸内海における海賊の活躍が、既に上代より存在したことを立証するものがある。
 奈良朝の頃まで九州から京都へ運搬する朝貢の物品は、海路によることを許されず、不便を忍んで悉く陸路によることが示令せられていた。蓋し、当時の如く交通の困難な時代においては、陸路によるよりも、海路による方が遥かに便利であったにかかわらず、不便な陸路を選んだのは、何を物語るものであろうか。又、この時代に伊予と豊後の間に鎮戍が設置せられ、しばしばこの方面における旅人の交通を禁止したのは、何によるものであろうか。これ等の事情の裏面を観察すれば、すでに瀬戸内海に海賊の横行していたことが明瞭に忖度せられる。
 翻って惟うに、海賊なる言葉は見えないけれども、其の活躍の具体的に我が国史の上に現れ始めたのは奈良時代であって、続日本紀の聖武天皇天平二年九月の詔に「京及諸国多有盗賊、或掠人家、或侵奪海舶、蠧害百姓、莫是」と記載せられたのを其の初見とする。従って南海の海賊の猖獗は、早くもこの頃に始まったものと推断することが出来る。
 次に海賊なる語が明瞭に史料に見えているのは、仁明天皇の承和五年の詔であって、「山陽南海海賊横行」と記されている。故に平安朝の初期に瀬戸内海にはすでに海賊による船舶の災害が甚だしかったのであろう。
 更に伊予海賊の活動を史上に索めると、清和天皇の貞観九年に諸国に令せられた條に「如聞近来伊予国宮崎村海賊略奪尤切」とあるを初見とする。これによれば海賊が越智郡の宮崎付近(現今の波方村)に占拠し、更に近辺の要地を扼し、瀬戸内海に猛威を逞しくしたのであろうと考えられる。


海賊史の取り扱い上の注意

 此の章を終わるに当たって留意すべき事項は織豊時代以前において海盗としての海賊と海軍としての海賊の区別の困難なる場合が多少存在したことである。
 又同じ海軍と称しても現今の陸軍と海軍の如く判然たる区画の施し得られないことが多かった。従って史上の海賊(海軍)は本来海上に浮かんで活動するけれども、上陸しては、立派な陸軍として武名を挙げたことも、決して珍しい事件ではなかった。私が伊予海賊発達史を述べるに当たって海戦ならざる陸上の戦役をも併せ取り扱ったのは、まったくかかる意味からである。


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