佐伯の風景表紙  旧佐伯市  上浦 弥生  本匠村  宇目  直川  鶴見  米水津  蒲江

佐伯市の伝説紹介

佐 伯 の 伝 説

河童伝説  神の井  醜女菊姫  川に投げ込まれた観音さま 
白子姫物語  化かされた源じい  狩床のたぬき  番匠川のおこり
鬼ケ原の幽霊  水かけゆうれい  うつろ船  吸ケ谷の雪女郎

河童伝説

昔々、浅海井(あざむい)に六兵衛という人がいました。一町歩あまりの田畑を耕し、滝のほとりに水車を持っていました。

ある日のこと、水車がギーイという異様な音を立てて止まってしまったので、「また子どものいたずらだろう」と思い六兵衛が水車の近くに行ってみたところ、おどろいたことに井堰(田に水を引込む用水口)で大うなぎと大蟹(カニ)とが格附していた。そのために水が溢れて水車が止まったのだということが判った。また、滝の主が大ウナギと大力ニであることもわかった。

その後何事もなくのどかな日々をすごすうちに暑い夏がきた。六兵衛は十五夜の月の冴えた晩に、田の草取りをしていたところ、大ぜいのカッパがやって来て、「おじい、すもうをとろうや」「おじい、すもうをとろうや」と言ってうるさくつきまとうので、「田の草取りが済んだら、すもうをとってやるからおまえどもも手伝え」と言って、カッパどもに加勢をさせた。

六兵衛は岩壁の根方にまつられていた地蔵さんのお堂の前に行って、まずやかんの茶を一杯飲み、やかんのふたを尻にくっつけそれからいくさの前の腹ごしらえに、地蔵さんに供えられている餅をいただいてカッパどもが草取りをしている田んぼに引き返した。

お供え物の御利益があって、六兵衛じいさんの眼が光るので、カッパどもは怖がった。

それでも時々、草をとるふりをしては、六兵衛の尻に手をやるがそのたびにカンカンと音がする。カッパどもは、「おじいの尻は金尻ぞ」と尻をぬくことはあきらめた。

やがて、田の草取りは済み約束どおり地蔵さんの前の広場こ集まった。六兵衛は相撲の礼式をして両手をついて頭を下げ尻を上げることを教えた。それは、カッパは頭の皿に水がなければ三つ子に等しいからだ。六兵衛はカッパをかたっぼしから投げ倒し、最後に残った大将にも相撲の礼式をさせ、立ち上がるやいなや相手の右腕をとって力いっぱい振り回した。
カッパの腕はスポッと音をたてて抜けた。
カッパどもは尻を抜ききらず、大将の腕はもぎとらて、ほうほうの体で引き揚げていった。

六兵衛は、カッパの腕をかついで村に帰り、得意げに事の次第を庄屋に話した。括は村
中に広がり、人々はカッパのたたりを恐れて 口々に六兵衛をののしった。
六兵衛は、あっけらかんとしてわが家に帰った。

ところがその後、毎夜のことカッパは川魚を持って六兵衛の家に現れ、「大将の腕を返してくれえ」と哀願した。そして六日目の晩、うとうとしている六兵衛の枕元に三匹のカッパが現れ、「七日過ぎると腕が元どおりにくっつかんので、明日の晩までにぜひ返してほしい。そのかわり、じいの言うことは何でも聞くから」と哀願した。

そこで 六兵衛は「明日の晩、八つの鐘を合図に地蔵前で漉す」と約束してカッパどもを帰した。翌朝みんなとカッパの腕を返すための条件について協議した結果、「ふか淵にある大石をシュロの木に仕立てて、その株が腐るまではこの村の氏子に手を出すなということを決め、いよいよ七日目の夕方、村人とともに地蔵前の広場に行ってみると、大勢のカッパが手に酒の入った竹筒と川魚を携えて待ち受けていた。

六兵衛が決められた条件を出すと、カッパどもは腕欲しさにすぐ承知した。事のついでに滝の主退治を頼むと、カッパの若者十数匹が威勢よく滝つぼに飛び込んだ。見る間に、大うなぎと大ガニを捕まえて村人の前に差し出した。六兵衛が約束の腕を返すと、腕はクックツと音を立てて元どうり大将の動におさまった。カッパは、大手びに喜んで村人に酒をふるまい踊りまくった。

村人もカッパも酒を飲み、踊り興ずるうちにいつか酔いがまわって、いい気分になり夜の更けるのも忘れて踊りまくった。残月は青くかがやいて美しかった。

これが二十三夜の地蔵踊りとしていい伝えられ、練り継がれて今に及び、夏の夜のにぎやかな行事として育てられてきたということである。
ヵッパは木の株はやく腐れと祈ったが、大石が腐るわけはなく、あきらめて何処ともなく去っていった。村人は、安心して涼を楽しむことができるようになったという。

             『上浦町の文化財』(上浦町教育委員会編より)

神の井 伝説

日向国、美々津の浜を出航されて、東にむかわれる神武天皇は、九州の東海岸ぞいにみ船をすすめられた。
み船は、うちよせる太平洋のあら波をしのぎ、豊後水道の潮にのって、やがて、佐伯湾にはいられた。ここには、海部とよばれる漁師(海人)たちが、あちらの浦、こちらの浜に、数戸ずつの村をつくつて、海のえものをとってくらしていた。
「おお、島が見える。漁師たちの船もいる。あの島で水をもとめよう。」いく日ものこうかいに、飲み水をつかいはたしたみ船は、佐伯湾の大入島によって船をつなぎ、天皇は、おとものものたちとともに上陸された。

「これ、水がほしい。ちかくに水はないか。」おとものものがたずねると、漁師は、こまったような顔でこたえた。
「はい、あの山の下に、岩をもれる水がわずかばかりございますが、このように大ぜいのかたがたのつかう水は、とてもありません。」
島のようすを見ると、浜べには、水をくむような谷川など見あたらない。漁師たちは、海にせまる山すその、岩間づたいにぽたりぽたりとおちる水をあつめ、またほ、岩のくぼみにたまる雨水をくんでは のみ水にしていた。
漁師たちの、こんなくらしを見てうなずかれた天皇は、山すその、岩根にちかい砂浜にあるいていかれた。そして、手にもたれた折弓のさきを、地中ふかくつき立てられた。

「水よ、でよ。水よ、でよ。」と、おいのりし、しずかに弓をぬきとられた。
すると、うつくしい水が、こんこんとわきあがってきた。
「おお、水だ。きよらかな水だ。」
おとものものたちほ、よろこんでその水をくんだ。
「ああ、なんとゆたかな水か。」「いのちの水だ。」
漁師たちも、ロぐちにさけびながらその水をくんだ。
あくる朝、まだ夜のあけないうち、潮どきをえて船出するみ船を、漁師たちは、心をこめたたき火で見おくり、航海のぶじをいのったという。

大入島のこの浦は、日向泊と名づけられた。弓のさきでほられた井戸は神の井とよばれ、いまもだいじにのこされている。また、日向泊の海岸には、み船をつないだというふたつの大岩ものこっており、海人たちが、み船を見おくるときたいた火明りは、いまも日向泊につたわるドンド(正月十五日、鏡もちを竹のさきにつけ、たき火でやいて食べる行事・左義長)のおこりであるといわれている。

醜女菊姫

今からおよそ二百年前、佐伯藩の家老に、18になる菊姫というむすめがいた。町なかを通る菊姫を見かけると、若侍たちは、「あれが、うわさにきく菊姫か。美しいのう。」「ああいう姫をよめにしたいものじゃ。」と、だれもがよめにほしがるはど美しいむすめであった。家老夫婦も、美しい菊姫によいむこがはやくみつかればよいがと願っていた。

ところがどうしたことか、あるとき、菊姫の美しい顔にふきでものが出はじめた。はじめはひとつだけだったのが、だんだんと黒く広がっていった。やかて右のほおはふきでものでいっぱいになり、見るもいたましい顔になってしまった。

菊姫はへやにとじこもったきり、外に出ようともしなくなった。家老夫婦は、むすめの美しさをとりもどそうとあちこちの医者をたずねてまわったが、さっぱりききめはなかった。そのうち、菊姫はだんだんとやせおとろえていった。
そんな日がつづいたのち、菊姫のへやから、お経を読む声が聞こえてくるようになった。

ある朝のこと、いっしんにお経を読みあげている菊姫の目の前を、ひとすじの光がさっと横切ったかと思うと、重々しい声がひびいた。

「おまえの病気は、大日寺の弁財天においのりすれば直るであろう。」
菊姫は、このお告げを信じた。さっそく大日寺にいくと、竹やぶにかこまれた境内は、人気もなくしずまりかえっていた。本堂のうらの弁財天をまつってあるお堂に入ると、菊姫は一心に祈りはじめた。
「弁財天様、わたくしをあわれとおぼしめして、どうかもとどおりの顔にしてくださいませこの日から、菊姫は21日間の願かけに入った。
雨の日も風の日も、菊姫はいっしんにいのりつづけた。
やがて、21日めの日がやってきた。菊姫は、朝からお告げにのぞみをかけていのりつづけた。昼がすぎ、夜になった。
うしみつどき(午前2時ごろ)になろうかというころだ。一本のろうそくだけのうす暗いお堂に、目もくらむような強い光がきらめいた。と思うと、弁財天のうしろから、らんらんと目をかがやかした大蛇が、まっ赤なほのおをはきながら菊姫におどりかかってきた。
「ああ、弁財天様、おたすけくだされ。」にげるまもなく、菊姫はその場にきぜつしてしまった。

つぎの朝、お堂の中にたおれている菊姫を、家来たちがみつけた。ふしぎなことに菊姫の顔からは、あのみにくいふきでものが、あとかたもなく消えていた。家来たちは、大声で菊姫をゆりおこした。
「姫様、あなたはもとの美しいお顔におなりですぞ。」この話が城中に伝わり、町じゅうに広がると、弁財天のご利益を受けて美しくなりたいと願うむすめたちのお参りがひきもきらなかったという。」

大手前にある弁財天のお祭りは昭和の初めごろまでにぎやかに行われていたというが、今は行われておらず、お参りにくるむすめもほとんどいない。

川に投げ込まれた観音さま

慶長十年(1605年)、春もさかりのある日、佐伯藩主毛利家代々の墓がある養賢寺は、飲めや歌えの酒もりでにぎわっていた。なみいる武士たちの衣服もくずれて、くみかわすさかずきに城をあげての喜びがいっぱいだった。
「貴公、もっと飲め。きょうは無礼講じゃ。」
「うむ、これで殿もご安心じゃのう。」
毛利高政公も、このにぎわいに満足のようすであった。

きょうは、養賢寺にご本尊がおさめられたお祝いだったのである。ご本尊は、すでにほろんだ栂牟礼城主佐伯氏の竜護寺から運ばれてきた千手観音であった。

きのうのさわぎとはうってかわって、しずかな朝があけた。三関おしょうは、「さて、これからお勤めしよう。」と、本堂に入っていった。じゆずをもってひょいと見上げると、千手観音のすがたが見えない。
「これはまたどうしたことじゃ。」おどろいてあたりを見まわすと、観音さまは今にもはい出しそうなかっこうで、うつぶせになっている。
「だれがこんないたずらをした。」
おしょうは小僧たちをしかりとばした。「とんでもない。どうしてだいじな観音さまを そまつにするものですか。」
「こんな重たいお像を、わたしたちの手で動かすことはできません。」と、小僧たちは口々に言った。

ところがそのあくる朝も、またその次の朝も、観音さまはいつの問にか仏だんからおりてうつぶせになっていた。
「よし、だれがこんな悪さをするか確かめてやる。」

かんかんにおこった三関おしょうは、七日めにはひと晩じゅう観音さまをにらみつづけていた。ところが長い夜のこととて、ちょっと気がゆるんで、はっとわれに返ったときには、観音さまはまたもうつぶせになっていた。おそれをなしたおしょうは、このことを高政公に申しあげた。高政公は家来を集めて相談したが、いっこうにわからない。思いあまって、祈とう師をよんでうらなわせてみることになった。祈とう師は、観音さまに手を合わせて、しばらくの間なにやらつぶやいていたが、やがて殿さまに言った。

「殿、観音さまは竜護寺に帰りたいと申しております。」
これを聞いた高政公はこまったような顔をして、「うむ、せっかくわが養賢寺におむかえしたものを‥‥‥。そのほうたちはどう思うか。」
と、家来たちを見まわした。家来たちはたがいにうなずきあって、竜護寺に帰りたがっている観音さまをとめおいては、どのような災いがあるかもしれませぬ。」
と、もとに返すことをすすめた。しかし、高政公は、「それでは、竜護寺が見える和田の坂にお堂をたてて安置すれば観音さまもなぐさめられよう。」と、千手観音を手ばなそうとはしなかった。

それからしばらくたつと、うでききの大工たちの手でお堂ができあがった。
「やれやれ、これでひと安心。」と、家来たちが胸をなでおろしたのもつかの間、やはり観音さまは、竜護寺の方へたおれるのだった。すっかり腹をたてた高政公は、「これほど大事におまつりしているのに帰りたいとは‥…・。佐伯の土地も民もみなわしのものじゃ。観音さまだけがどうしてわしの言うことを聞けないのか。」
と、頭をうちすえた。そのうえ、「手は二本あればけっこう。千手観音とは不都合千万!」と、手をぽきぽきともぎとってしまった。
「おのれひとりで竜護寺に帰れ。」と、和田の坂から番匠川へ投げこませてしまった。
人々は、どうなることかとはらはらしながら観音さまを見守っていた。すると、観音さまは流れにさからって川上へ上りはじめ、あれよあれよというまに、竜護寺めざして泳いでいったという。

高政公に切られた手は、その後新しくつぎ足され、今のような千手観音になった。安産の御利益があるというので、今も毎年旧暦三月十四日から十八日までは、子宝をほしがる人々のお参りでにぎわうという。

白子姫物語     中川 久人

おごる平家は久しからず。源平の合戦で壇の浦に敗れた平氏一門は、あるいは海に身を沈める者、あるいは陸に逃がれて命を永らえた者もある。

落人の一人白子姫は国東の沖を潮流に流され早吸の瀬戸から豊後の国佐伯の湾奥に流れ着いた。

土地の聞くところによると以前にも姫のような女性が尋ねてきて、その人達もあの山坂越えた向こうの西野浦というところに行った。
帰って来ないところをみるとまだあの地に在るのでは・・・・・
 若しや尋ね探した姉さんがいるのでは・・姫が雨の中を歩いていると村人に出会った。
いろいろ語らいながら西野浦への道を問うたたころ、西野浦というところは、あの向うの大きな峠を越さねばならぬ、ましてこの雨また女の足では難渋である。
 せめて今夜一晩はと村人の家に一夜を託した。翌日も雨は止まらない、姫のぬれた衣類はさおに掛けてある。

何とこの世で見たこともない美しい姫の着衣‥‥この姫はどれ程の金銀小判を身に付けているのだろうか?
 雨は止んだ、もうしばらくの休養をした方がよかろうと言うと先が急がるる程にと厚くお礼をのべ峠に向つて旅立った。
姫の出立した後を追う四・五人の村人は間もなく追い付いて、姫私共が近道を案内いたしましよう間道に姫を連れ込んだ。
 助けて給えと哀願する姫を殺害した。目を付けていた金銀小判は身に付けてなかった。

衣類所持品は奪われ姫の亡きがらは、その場に埋め村人は立去った。
 それから何年かがすぎた。
村人の一人が間道を通りかかり、確かこの辺で姫を殺したがあれからどれ位すぎたかな等と考えながら登っていると、不思議なことに人骨と思しきものが草履の下から足に刺さった。
 村人はすぐあの時の骨だと感づいつこの場所に目印の松の幼木を植えた。

それから又数百年がすぎた。
この村で手押しの消防ポンプを購入する話になり村の人達は購入資金のことで幾晩も話し合いが続けられた。 だれかが共有の大松を伐ろうやといいこの松を売る事に話が決った。
 松の木は消防ポンプが買える程の銘木になっていたのである.

この松の木を伐り倒すのがまた大変であった。松の木が大きいのでのこぎりが一度でとどかず回しひきこした。
 あっちからひくとねこのなき声がニヤン こっち側からひいてもニヤン ねこの姿は見えないのに、不思議である。
この木の跡にまた松の木が植えられた。

それから又数年が過ぎた。
 ある冬の寒い晩村人のある一人の家からか火の手があがった。
村の人達は先年松の未を売って備えた手挿しの消防ポンプを引いて本物の、火事に使ったが、何んとこのポンプからは一滴の水も飛ばず家財もろ共丸焼けになってしまった。

それからまた幾歳かが過ぎ後継ぎに植えた松も前のような大木になって、村の人達は白子松と呼ぶようになっていた。
 この松の木の近くにダムが建設されることになり松の木も伐り倒される運命になった。
 伐採するとき村の人は.この白子松の伝えを教えたが木を伐る人は「ナーニ今時そげな事があろうか」と言い伐り倒した。ところが間もなくその人はふらふら病で床についたが、時々窓の外に姫が立っている、と口走るようになった。
 他の人が見ても窓の外には人気も無い。白子姫の亡霊であろうか?

昭和の御代六十年の今日村人の子孫が、毎年白子祭を営み姫の霊を慰めているのは事実である。

写真は大中尾ダム傍にある白子姫の墓

化された源じい     児玉 ハル

まだ木立の道に自動車が通るようになる二十年も前の話である。
 大野の源じいは町からの帰り土井から、客馬車に乗るつもりでしたが生憎その日は馬車が帰った後でした。
 為店の豆腐をさかなで焼酎を飲んでおりましたが暗くなっているのに気付いて、網打ちの由おいさんが獲ったボラを二本土産に買うて帰ることにし、エラに縄を通しぶら下げて帰って行った。

そのころ木立にはまだ電気が通じてなかった。
由おいさんが燈を貸そうかと言って呉れたのにこれ以上暗うなりやしまいと言うたのが悔まれる程道は暗かった。
 ナキリの水神様の前まで来たと思った途端急にあたりが真暗くなり道が見えなくなってしまった。
マゴマゴしていると背中で男の声が、私も浦代まで帰ります一諸に帰りましようと言い暗い夜道を足早に歩き出した。 だいぶ歩いたようです、焼ちゆうのよいも手伝っていつの間にか眠ってしまった。

朝日も高く昇っていたが山の中はまだ暗かった。セリゴの奥のようである。
二本のボラは何処にも見当らない。 源おいさんはセリゴの犬に吠えられながら山を下った。



狩床のたぬき      岡田 晴美

町からの帰り一杯すきの三太は、角道の造り酒屋で遅うなりついでにまた一杯ひっかけ、鼻歌を歌いながら桟敷のわが家に千鳥足で急ぎます。
先程茶ケ鼻の慶おいさんに無理を言うて頒けてもろうた一尺余りのボラを二本、口から縄を通し背中に担いでいる。
 狩床のところまで来ると、飲みとぎの勘蔵が下って来るのにバツタリ出食わした。

「三ヤンご機げんじゃのう、今帰りか?」「ウン、チッタ遅うなったが夜道ちや日が暮れんキ」 「おりや、角道まで下りおんのじゃが後もどろうや」 人のいい三太は勘蔵と来た道を引返した。「勘ヤン、角道にやコゲナ美しい店があったかのう」 勘蔵は「何も言わずその中の一軒に入つて行った。
 今まで見たことのないごち走の山が出た三太はタラ腹食べ 酒のよいも手伝ってかそのままゴロリ、どの位寝たのかわからない。

何処かで鶏が鳴いた。ボンヤリした頭をもたげると外はもう明るくなっている。
 ナキリの方からガラガラ荷馬車の音がする三太はハッと我れに返った昨夜のきれいな角道の店は?何と狩床の炭がまではないか、又大物の二本のボラは・・さてはあの勘蔵の奴化けたぬきであったか‥

左の絵はボランティアグループ「こぐま紙芝居」の絵を使いました



番匠川のおこり

むかしむかし、まだ番匠川という名もなかったころ。この川のほとりに、朝廷へおさめる米を入れる大きな倉がたっていました。人々がここへ米を運ぶとき、川を渡るのに苦労していたので、朝廷は奈良の都から大工のとうりょう益右衛門をつかわして、橋をかけることにしました。

益右衛門は、工事の指揮者であることを表わす「番匠矩(ばんじょうがね)」を朝廷からさずけられ、大ぜいの大工をつれて川へやってきました。川は水かさが多く、特に橋をかけるところは深い淵になっていて、大へんむずかしい工事で、なかなかはかどりません。そんなある日、どうしてうまく橋をかけるか思い悩んでいた益右衛門は、あやまって番匠矩(ばんじょうがね)を川の中に落としてしまいました。さあ、大変。この番匠矩をなくすことは、朝廷に対して大きな罪をおかしたことになります。益右衛門はすぐにこのことを報告し、朝廷からの命令を待ちました。すると、朝廷は、益右衛門の人格と責任感を高く評価し、少しもせめることなく、再び番匠矩を与え、工事をなしとげるようはげましさえしました。

益右衛門は朝廷のこのありがたい処置に感激し、必死で橋づくりにはげんだので、このむずかしい工事も、数年ののち無事完了しました。
 しかし、益右衛門はこの無理がたたって病に倒れ、二度と奈良の都の土をふむことはなかったのでした。

その後、この番匠とうりょう益右衛門の功績をたたえて、唯いうとなくこの川を「番匠川」と呼ぶようになったとのことです。

鬼ケ原の幽霊

佐伯市の岸河内地方は鬼ケ原とよばれて、昼でもうす暗く不気味なところである。天正14年(1586年)11月4日、薩摩島津軍の大将、土持次郎親信のひきいる2000の軍勢と、佐伯大膳正惟末の軍勢1800とが、ここ鬼ケ原ではげしく戦って、薩摩軍はひとりのこらずほろぼされた。

戦いが終わって何年かたったころ、この鬼ケ原にゆうれいがでるといううわさが広がった。人々は気味わるがって、だれひとりとして鬼ケ原に近づく者はなかった。

ある若者が、ゆうれいのうわさをつきとめようとして鬼ケ原に出かけたが、次の日、死体となって川にうかんでいたという。

それを見たとなり村の若者は、「おれが、ほんとうのことをつきとめてやる。」と言って、両親や村人のとめるのも聞かずに鬼ケ原に出かけていった。鬼ケ原についた若者は、雨風にさらされて気味わるくころがっている頭がい骨を二つ見つけた。若者は、「これがゆうれいの正体じゃあ。こうしてやる。」と、その頭がい骨を竹でたたいて足でふみつけた。若者は、ゆうれいの正体を見たという喜びで、いばって家に帰ってきた。

ところが、家に帰ってから急に高い熱が出て、わけのわからないうわ言を言いながら、その日のうちに死んでしまった。このことを聞いた人々は、いっそうおそろしがって、夜も安心してねむれなくなってしまった。

その若者のうわさが、芦刈八郎兵衛の耳に入った。八郎兵衛は庄屋で、年は40才ぐらいであった。でっぶりと太って、きもったまの太い男であったが、たいへんやさしく情けぶかかった。八郎兵衛は、若者を死なせた両親をあわれに思って、となり村まで出かけた。たったひとりの子どもを失った両親をなぐさめているうちに、いつしか夜もふけてしまった。
若者の両親が心配して、「こげえ、おそうなってしもうた。もう、とまっち帰りよ。」と言うのをことわって、八郎兵衛は夜道を帰りはじめた。

道といっても雑草が生いしげり、こんもりとした林が八郎兵衛におそいかかってくるようであった。そのうえ、その林のどこからか、フクロウの鳴き声が不気味にひびいてきた。

さすがの八郎兵衛も、身も心もこおるような思いであった。どうしてとまらなかったかと、今になってくやんだが、もうおそかった。八郎兵衛は、音をたてないように、あたりをうかがいながら歩いていた。
そのとき、なまぬるい風が首すじをすうっとなぜていった。ぞうっとしてあたりをながめまわした。まわりはまっくらやみである。フクロウの気味悪い声と、どこかで川の流れるかすかな音が聞こえるだけであった。

ふと、前方に、青い火が二つ燃えあがった。その火は、だんだんと燃え広がり、八郎兵衛に近づいてきた。そして、その青い火は燃えあがるたびに、岸河内の千人塚の道しるべ「トッタ、トッタ。」と、うめくような声を出した。
八郎兵衛は、全身の力がぬけて、そこにすわりこんでしまった。青い火は、八郎兵衛をとりまいた。「トッタ、トッタ」 の声は、急に、「ワーツ、ワーツ。」というさけび声に変わった。青く光っている火の中から、たくさんの刀と刀がきりむすぶ音がはげしく聞こえてきた。死んだようにうずくまっている八郎兵衛の上に、とつぜん、天を切りさくようなけたたましい音がひびきわたったかと思うまもなく、八郎兵衛の体が、すうっと宙にういた。

ポッリボツリと雨が降ってきた。川原に、死んだように横たわっている八郎兵衛の顔にも降りかかった。ふと気がついた八郎兵衛は、ゆうべのおそろしいできどとを、ぼんやりとした頭で思い出していた。

「なんちゅうおそろしいこっちゃ。あの青い火は、鬼ケ原の戦いで殺された薩摩軍の2000の兵のたましいがさまよっているにちかいねえ。 こりゃあ、はよう供養塔を建てにゃ。」八郎兵衛は、だるい体をおこし、足をひきずるようにして村へ帰り、さっそく、供養塔を建てる仕事にとりかかった。

やがて、りっぱな供養塔が建てられた。八郎兵衛は、てあつく薩摩軍のれいをとむらった。
それからは、もう、ゆうれいがあらわれることはなかった。鬼ケ原はむかしのようにしずかになり、人々は、安心して生活ができるようになった。

今も、この供養塔は、「岸河内の千人塚」として鬼ケ原にのこっており、おまいりする人があとをたたないという。
                     文・渕上 孝敏

水かけゆうれい

今からおよそ500年ほど昔というと、ちょうど戦国時代のころである。豊後水道には、速見組とか村上水軍とかいわれる海賊がいて、争いや戦がたえなかった。このため、海にしずんだ人は、何千何万といわれる。
いつのころか、この海で死んだ人たちのれいが、豊後水道を通る船をしずめるといううわさがたった。そのうわさのとおり、漁に出たまま帰ってこない船があいついだ。

うしみつどき (午前2時ごろ)のころであった。たまたま、豊後水道を通りかかった船があった。すると、海のどこからともなくあやしい光が数限りなく波間にうかんできて、それがいつのまにか何千という白衣を着た人のすがたとなって、空にまい上がった。そして、地獄の底から聞こえてくるような声で、「ひしゃくをくれえ。ひしゃくをくれえ。」と、いく百いく千のさけび声がおこった。その声は、こだまのように海いっぱいに広がっていった。船頭たちはおそろしさのあまり、あかとりびしゃくをほうり出し、船の底にかくれてふるえおののいた。すると、今までのそうぞうしい音がはたとやんで、一本のひしゃくがみるみるうちに何千本にもなった。白衣の人が手に手にひしゃくをもって、海の水を船にくみこむのである。やがて、水がいっぱいになって船がしずんでしまうと、いつのまにか何千という白衣の人は、音もなくきえてしまった。

このようなことがたび重なるうちに、夜、豊後水道や佐伯湾を通る船は、まったくなくなってしまった。こまったのは、夜、漁をしてくらしをたてているこのあたりの漁師たちであった。

ある日、浪花(今の大阪)から荷物をつんで、佐伯に帰る船があった。向かい風のため思うように進まず、府内沖(大分市沖)にさしかかったころには、すっかり暗くなってしまった。
さあ、もう乗り合わせた客たちは、気が気ではなかった。
「ああ、こまったなあ。」
「夜中になると、あの白衣のゆうれいが出てくるかもしれん。」
「こよいは、府内にとまることにしよう。」
と、口々に船頭に言った。しかし、船頭が、「なあに、おれたちがしゃんとしとれば、ゆうれいたちにまよわされるようなことはない。元気を出せ。夜中までには佐伯に帰りつくぞ。」と強く言うので、このまま進むことになった。
船は、うるしを流したようにまっくらな海をギィーギィーと波をかきわけて、ゆっくりと進んでいった。夜がふけてくるにつれ、何か身の毛のよだつようなおそろしさがせまってくる気配がしてきた。

「さてはあらわれたか。」
船頭たちが目をこらして暗い海をみあやしい光がぶすぶすと海の上にもえていた。
船頭たちは、こわさのあまりかじぽうをつき放して、船の底にかけこんだ。そして、ドンダ(綿入れの着物)を頭からかぶると、両手で耳をふさいだ。体が、がたがたふるえてとまらない。船の上やまわりでは、白衣を着た大ぜいのゆうれいたちが、「ひしゃくをくれえ。ひしゃくをくれえ。」と、口々にさけんでいる。このままでは、船ともどもにしずんでしまう。船頭は、とっさにひしゃくの底をたたきこわすと、船の上にはうりあげた。

ぶきみでそうぞうしい音がぴたりとやんだ。何千もの白衣をきたゆうれいたちが、船に海水をくみ入れはじめたようである。しかし、くみ入れてもくみ入れても、船にはいっこうに水がたまらない。
それから、どのくらいたったであろうか。船頭たちが、おそるおそる船の上に首を出してみると、東の空は白んで、何千もの白衣のゆうれいはかき掛すように消えていたという。

このことがあってから、夜、豊後水道や佐伯湾を通る船は、底なしびしゃくをつむようになったという。

           大分の伝説  文:久保彰三

うつろ船

今から400年ほど昔、蒲江の東の方に小さな漁村があった。
ある日、7人の漁師がいそでアワビや海草をとっていると、沖の方からみょうなものが流れて、きた。「ありゃ、なんじゃろか。」
「ほんとじゃ、へんなものじゃのう。」
よく見ると、長い箱の形をした船のようなもので、波をかぶりながらもしずむようすはなく、浜に近づいてきた。漁師たちは、はじめはものめずらしげに見ていたが、そのうち、だんだんうす気味悪くなってきた。漁師たちはおそろしくなって、急いで浜にあがった。やがて、その長い箱のようなものは、ゆっくりと波打ちぎわに流れついた。見ると、それは箱船だった。漁師たちは、こわごわ箱船に近づいた。
 「いったい、何がはいっとるんじゃろう。」
 「人が乗っとるともみえんがのう。」
 「とにかく、中を見てみよう。」
漁師たちは、箱船を浜に引きあげた。合わせぶたになっているところをおそるおそるこじあけて、目をみはった。
 「きれいなつくりじゃのう。」
 「まるで、御殿のようにきれいじゃ。」

箱の中は、天じょうも胴の間(まん中の船室)もうるしぬりになっていて、長持ちやひつ(ふたのある大がたの箱)などが光りかがやいていた。もっとおどろいたことには、その胴の問に美しい着物を着た女が3人すわっていたことだった。年上らしい女がまもり刀をにぎりしめて、侍女らしい女と、7つ8つの童女をかばうように身がまえている。漁師たちはふるえあがった。これはいよいよ魔物にちがいないと、ひとつところにかたまって、箱船のようすをうかがっていた。

しばらくすると、年上の女が童女をかかえるように船をおり、小高い岩の上にすわらせた。
それから、しずかに漁師たちをさしまねいた。その気品と威厳のあるふるまいに、これはただの人でないとふるえながらも、やっとのことで、ひとりの漁師がおそるおそる進み出た。すると、年上の女は手を合わせ、「わたしは、伊予の国(愛媛県)の殿さまにつかえる者じゃ。このたび、国で戦がおこって、この幼いお姫様をおつれして難をのがれてきました。やがて、むかえが来ることになっているので、それまでかくまってもらえないであろうか。」とたのむのであった。
 「あんな小さい子どもじゃ、かわいそうじゃのう。」
 「そうは言ってもせまいところじゃ。かくしおおせるものでもなかろう。」
 「追っ手に見つかったら、ただですむまいな。」
漁師たちはひそひそと相談していたが、年よりの考えにしたがって、3人の女と箱船を沖へ流してしまうことにした。

「おれたちの力ではかくまうことはできん。どうかよそへ行ってくれ。」
漁師たちは、女たちを船へつれもどそうとした。女たちは、岩にしがみついてはなれない。
                                        
漁師たちは、かじや水さおで打つようにして箱船に追いかえそうとした。女たちは、泣きさけぶ姫を後ろにかばいながら、「せめて、この姫だけでも助けてくださいまし。」
と、手を合わせておがんだ。しかし、漁師たちが、それもならんと打ちたたいているうちに、3人の女は息がたえてしまった。
漁師たちは青くなった。ころすつもりではなかったのだ。漁師たちは3人の女のなきがらと箱船を焼いてしまうと、砂をかぶせてあとかたのないようにした。
 「ああ、ゆめのような一日じゃったな。」
 「このことは、家のものにも話さんことにしておこう。」

漁師たちは、にげるように家に帰っていった。

何か月かすぎたころ、3人の侍が村にやってきた。村人を集めると、強い声でこう言った。
「しばらく前、3人の女を乗せた箱船が流れついたであろう。もし見た者がいたら、話を聞かせてもらいたい。われらは、殿のど命令で姫さまをおむかえするため、伊予の固からやってきた者だ。」
7人の漁師はもとより、村人たちは、「そんな船は、見かけんだったなあ。」
 「いっこうに存じません。」
と、かしこまって答えていた。

あくる日、侍たちは漁師たちに案内させて、近くの浜を調べてまわった。いくらさがしても姫をのせた船が流れついたようすはなかった。侍たちは、首をかしげて、「四国の戸島から潮に乗せて流す船は、かならず豊後のこのあたりに流れつくばずじゃが。」
と、船を入江の奥へ入れさせた。日はもうくれかけていた。今、この浜に侍たちを上陸させては、あのことを見やぶられるかもしれないと、漁師たちは気が気でなかった。ひとりの年上の漁師が進み出て、おそるおそる言った。

 「ここは、おれたちが毎日漁をしているところじゃ。流れつくものがあれば、だれかの目につくはず。この浜のことは石ひとつまでどこにあるか知っているくらいだから、何の手がかりもないというのは、きっと何もなかったのだと思いますがのう。」
「それがまことならば、浜にあがって調べるまでもあるまい。もし、これから、箱船のうわさを聞いたら、すぐに知らせてもらいたい。」
と言い残して、侍たちは去っていった。

それから何年かたったあるとき、7人の漁師のうちのひとりが、いつのころからか両方の目が赤くただれるようになり、ついには目が見えなくなってしまった。ちょうどそのころ、目の病が村じゅうにひろがったので、だれ言うともなく、あの浜で死んだ3人の女のたたりだということになった。

やがて、だれともなく、女たちと箱船が焼かれたといわれるあたりに石を建て、小マツを植えて、おがむようになった。それが蒲江町にある姫松さまである。

以前は、目の病気をなおしてもらうためにお参りする人が絶えなかったというが、今はめったにおとずれる人はない。

             大分の伝説  文:久保 彰三

吸ケ谷(現在の水ケ谷)の雪女郎伝説

300年ものむかしの話。
宇目の里から、ずうっとふかく、木だちをわけいったところに、シイタケづくりの山小屋がふたつあったそうな。
大きいほうの小屋には、近郷の山師18人がすみこんでおった。小屋にはいると、めしたき場があって、大きいかまと、なべがすえられてあった。そのおくに板間があり、まん中にいろりがほられてあった。

小さいほうの小屋には、女がひとりすみこんでおった。女は、めしたきせんたくなど、山師たちのせわをしておった。この女は、とても気だてがよくて、こまごまとようはたらいた。
ところがこの女、どうしたことか、とりわけみにくい顔をしておったそうな。よめにもいかず、この山おくの男衆にまじってくらしておった。信心ぶかい女で、朝ははようおき、小屋の中におまつりした山の神に、まっさきにサカキをあげ、お茶をそなえておがんでおった。
年の瀬もおしせまったある日のこと、山は雪となって、山師たちは、しごとができなくなってしもうた。雪は、二日も三日もふりつづいてつもった。正月もちかいというのに、山師たちは、宇目の里にかえることもできず、雪の山小屋にとじこめられてしもうた。

4日、5日と日はたった。そのあいだじゅう、雪はさらにふりつづいた。世間話のたねもつき、どぶろくも、のこりすくのうなってしもうた。
今夜も山はしんしん雪。山師たちは、いろりをかこんでおしだまっていた。
「ああ、あ、たいくつじゃのう。」
わかい山師が、あくびしながらいうのをきいて、年よりの山師がいうた。
「どうじやみんな、ひとつ百ものがたりでもやってみらんかえ。百ものがたりをすると、まものがでてくるというが、うそかほんとかためしてみよう。」
山師たちは、おもしろ半分すぐに話にのった。女はやめるようにとめたが、山師たちはきいてはくれん。女は、じぶんの小屋にもどり、なにごともないようにと、山の神をおがんでねた。
山師たちの小屋では、もう百ものがたりがはじまっておった。一本のろうそくに火がつけられた。こわい話がひとつおわって、その火がけされた。2本目のろうそくに火がつけられ、はなしおわると、火がけされた。3本、4本、5本……と火がついて、こわいこわい話がかたられ、つぎつぎに、ろうそくの火がけされていった。

とうとう百本目のろうそくがけされた。きもったまのすわった、さすがの山師たちも、背すじがぞくぞくしてきた。いまかいまかと化け物をまった。が、それらしいものはあらわれん。まちくたびれたかあきらめたか、ひとりふたり、はてはみんなねむってしもうた。

さて、そのころ、小さな小屋でねていた女は、つめたい風にほおをなでられるおもいがして、ふと目がさめた。見ると、あいた戸口に見知らぬ白髪の年よりが立っておって、おいでおいでと手まねきをしておる。女はひかれるようについていった。
年よりは、となりの山師小屋にはいり、めしたきがまをゆびさして、その下にはいれというた。
女が、いわれるとおりかまの下にもぐりこむと、「日がのぼるまで、どんなことがあっても、けっして声をだすなよ。」と、きつういいのこして、雪の中にきえてしもうた。
女は、息をころしておった。と、いりロの戸のすき聞から、白い粉雪が、音もなく、生きもののようにながれこんできて、それが見る間に人間のすがたにかわった。それもなみの人間じゃなかった。かみの毛は、青白い顔をつつんで足もとまでのび、目とまゆは、針金のようにほそくつりあがり、ロは、耳までさけて血のように赤かった。

「雪女郎だ。」
かまの下の女は、つばをのみこんだ。
雪女郎は、板間にねむりこけている山師の上に身をかがめ、ひとりひとりと血をすいはじめた。
血をすわれた山師たちは、雪のように白うなって死んでいった。18人の血をすうてしもうた雪女郎は、まだ人間のにおいがするという顔で、すみずみ見まわした。かまの下の女は、生きた気もちはせんで、ただただ山の神にいのっておった。

そのうち、朝のあかりがぼうっと見えてきた。雪女郎は、またもとの粉雪となって、音もなくきえてしもうた。

半ときほどたった。女はかまの下からはいだした。顔も手足も、すすでまっ黒け。雪の中をひっしでかけおり、村の衆にいちぶしじゅうをはなしてきかせた。
そのあとで、女が、そばの小川で顔をあらうと、これはふしぎ、見ちがえるようなきりょうよしにかわっておった。

村人たちは、この山師小屋のあったところを、吸ケ谷(水ケ谷)とよぶようになったそうな。

          偕成社発行   大分県の民話より

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