母の病気




24. 母の日に

私が勤めている道の駅に売っている昔なつかしいお菓子を、びっくり袋にしていろいろ送った。
はたして、よろこんでくれているだろうか。
目を丸くしている母の姿を想像している。
この頃は、家に帰って庭の草取りでもしようかなどと言ってるようで、草取りなどしたら、また悪くなるのに、
懲りない性格は、私と一緒である。
随分よくなっているようで、うれしい。
病院にいた時は、とんちんかんなことを言っていたが、かなり頭もしっかりしてきたようだ。
同じ世代の方とおしゃべりするのは、リハビリにもなるのかもしれない。


23. ひさしぶりの電話

3月ももう終わり。
仕事が忙しくて、気にはなっていてもなかなか電話ができなかった。
久しぶりに電話をした。父の元気そうな声がしたので、ひと安心。
母もとても元気だということなので、つっかえていたものが、とれた感じがします。
施設の環境にも慣れて、うまくやってるようです。
家に帰ってヘルパーさんに来てもらって、何日かを過ごすということも可能かなと思います。
寒さもだんだん通りすぎて、あたかかくなると身体もこころもいい状態になるでしょう。
5月生まれの母は、春が大好きなのです。
よく旅行にも出かけていて、旅先からおみやげが、届きました。
もう旅行は無理だけど、元気なうちに曾じいちゃんの墓参りに連れて行ってやりたい。
ボケるとご飯を食べたのは、忘れるけど、昔のことは、よく覚えているのが、不思議です。
父さんっ子だった母は、きっと帰りたいだろう。でも那須は、遠いなあ。


22. 遠距離介護

遠距離介護といってもいろいろあって、私のようにめったに行けない距離や、
車で行ける距離で、仕事が休みの土・日に、通う方もいます。
とにかく、頭を切り替えなければ、気持が残って、毎日 気になります。

友達が、新聞の切り抜きを持ってきてくれました。
そこには、こう書いてありました。
悪いなどと思わないで、自分に少しのご褒美を買ったり、お友達と食事に行ったりしましょう と。
そっと切り抜きを渡してくれた友達に感謝です。



21. 2005年2月

去年の8月27日に、老健に入所して、半年が過ぎようとしています。
老健は、自宅に帰るのを支援する施設なので、違う所に移るか、いったん自宅に帰らねばなりません。
自宅に帰れないと、あっちの施設こっちの施設と移らなければならないようです。
でも、いったん自宅に帰って、また同じ施設に行くのも可能なようです。

電話をすると、昔だったら 「はい、もしもし」とよそいきの歯切れのよい高い声が聞こえてきましたが、
今は、「はい?もしも・しー」と低く舌の回らない声が聞こえてきて
「わたしよ。わかる?」と言うと しばし黙って涙をこらえているのが、受話器から伝わってきました。
私が、 「お父さんは、やさしくしてくれる?  昔のことは、もう許してあげる?」と言うと 「うん」と答えました。
心も身体も安定している様子で、杖を忘れるくらいに、歩くのが上手になっています。

父は、洗濯物を、2日おきに取りに行って、手をつないでトイレに連れていってるようで、
やさしいご主人と評判になっているみたいです。

その夜、私は、ふとんを頭からかぶって、泣きました。



20. 福祉

脳神経外科に入院していた時に、お世話になった看護師さんから電話がありました。
私は出かけていたので、ドキドキしながら折り返しの電話をしました。
ああよかった!心配なことではなかった。
母が、ああいう状態から回復したのは、めずらしいことなので、実名を出して、発表していいかとの話しでした。
お役に立てればうれしいので、いいですよ。と答えました。
そうなんだー。よくなったのが普通だと思っていた私は、改めて大変な病気だったんだなあと思いました。

同じ病気は、同じような経過をたどっていくので、だいたいどうなっていくのかが、だんだんわかってきました。
早く終着してしまわないようにするために、福祉があるんだということも心から理解できました。
それは、一人一人違う人間相手なので、からまった毛糸をほぐすような複雑な気の長い仕事です。
行き着く先は、皆同じ。
私は、運良く、母の介護ができる状況にあり、施設にお世話になることができましたが、できない方もいます。
決められた政策のなかでしか国民は動けないのですから、もっと広く奥の深い福祉政策を 考えてほしいものです。



19. 国立病院を退院して老健へ

大変お世話になった病院を退院しました。
今度は、老人保健施設(シルバーホーム)に入所が決まりました。
前に入所していたグループホームと同じ敷地内にある施設です。母が前のところは、いやだと言うので、そうなりました。
皆さんが歓迎して、出迎えて下さいました。母もニコニコしています。
4人部屋ですが、話ができるので、かえっていいかもしれないと思いました。
一同に食堂に集まると60人位いらっしゃいました。
体操をしたり、ゲームをやったり、リハビリに行ったり、ボランティアの方の訪問を受けたり
けっこう忙しく、楽しそうです。
洗濯物は、家族が取りに来るようになっています。
自分の部屋とトイレと食堂とリハビリ施設の場所を、何回も連れて行って覚えさせました。
なかなか トイレが わからなくて、非常階段のドアを開けようとしたりするので、
目立つ色で、鶴を折って貼り付けさせてもらいました。
「この目印を忘れないでね」「トイレのときは、ヘルパーさんを呼んで行きなさいよ」などと言い置いて
後ろ髪をひかれながら、郷里を後にしました。



18.私を応援してくれた母

 「母さんはお前が九州に行くときに、車を追いかけて泣いたんだ。
  そうしてまで行ったのに、お前は、いつまでたっても安定した生活を送れていないじゃないか。」 と父は言う。
父は父で複雑な思いなんだろう。    そう言われても仕方ない。
でも、その時の私は、知恵の少ない頭で、一生懸命考えて導き出した結論だ。

高度成長期で世の中の景気がいいときに、手形の入力やお金を数える仕事をやっていて、
時には、鍵を閉めた部屋の中でお金を数えました。(外から内からも盗られないように閉められた)
束になった1千万円を投げて遊んでる男子行員が、いました。
そんな生活に疑問を持ちました。たまに会社に来るプログラマーに、恋したりしましたが、
人生お金じゃないんだ!生き方を直そうと思いました。時代の流れに適応できなかったのでしょう。
人生の目標をもった彼と出会って、地に足をつけて、環境を破壊しない農業をしようと、
何十年もほったらかしにしていた畑の開墾からやりはじめました。
生後2ヶ月の子供を、助手席にふとんを重ねて、そうっと寝せて、山を越えて、農作物や卵を売りにいって、
お金がないから、ガソリンの節約のために山の頂上から、エンジンを切ってギアだけで下ったりしましたが、
頂上から見える真っ赤な夕日をみて、子供たちと大声で、歌をうたったりして、大変だったけど楽しかったことが
いっぱいありました。

母は、そんな私の人生を応援してくれて、、いろいろ助けてくれました。
子育ても終わった今、今度は、私の番です。
私は、母にできるだけのことをしてやりたい。たとえできなくなっても、何も言わないと思いますが・・・・


 

17.  悩みの続き

遠くに嫁いだ娘が、長期間帰って 里の親を看るのは、変なのでしょうか。 情を最初に持ってきたら、いけないのでしょうか。

私には、弟が2人いて、ひとりはシングルですが、二男の奥さんは、病院の院長秘書をしている。
この義妹は、美人で頭がよく、話し方も丁寧で、父との関係は良いのだが、
彼女の通勤途中に、母の入院している病院があるのに
私が毎日通っているのを知っていても、寄ってくれなかった。
母が孫に会いたいからと、来てくれるように頼んでやっと来てくれた。
だからといって、会うと感じの悪い人でもないのだが、忙しいのを理由に、母のことを取り合ってはくれない。
忙しいのはわかっている、でも誰だって大変じゃない人は、いない。おまけに病院関係者じゃあないか。
私は、やりたいから母の介護をしているだけのこと。
父や義妹のことなど悩んでいる暇はないし消耗するだけだと思っても左右されることが多かった。
義理、立場、常識なんて持ち出してなんになるんだろう。
そんなこと なんにもなりやしない。


16. 父とのいさかい

母は、いつも相手の気持になって、誰とでも仲良く付き合いをしていましたので
お友達や親戚が、何回もお見舞いに来て下さっていました。
私は、いつもやさしかった母が大好きで、できる限りのことはやりたいと考えていました。
私は、介護が辛いとは思いませんでしたが、とっても消耗してしまったのは、父との確執です。
何度も衝突しました。大人気ないので、何度もやめようと思いましたが、ああ言えばこう言うということになっていました。
嫁に行ったお前が何ヶ月もいると近所の手前、格好が悪いとかその他いろいろなことを言ってきます。
じゃあ私が来なければよかったの?
弟は、会社をやっていてシングルで受験生を抱えているので、介護は無理なのは、わかっているでしょう。
あの時 必死にやらなかったら、今頃死んでたわ。(これはさすがに言いませんでしたが)
もっと父の気持を考えてやればよかったのですが
私も自分の身体を計りながらの介護でしたので、気持に余裕がありませんでした。
とにかく何でこんなことで、悩んでへとへとにならなくちゃあいけないのと
自問自答する日々でした。


15. 目を見張る回復

母は、どんどん回復していきました。
整形外科の病棟を看護師さんの見守りで、歩行器を使って歩いていると
「まあー!じょうずに歩けるようになったわねぇ」と何人もの方が声をかけてくれます。
2ヶ月で、これだけ回復するとは、思ってもみませんでした。
回復が早い理由のひとつは、姑息手術をしたことです。
若い人なら、人工骨頭を何十年ももたせるためにしっかりした手術をしなくてはならないのですが
そうなると回復するまでに時間がかるので、年齢と脳梗塞を考えての手術でした。
次に、徹底したリハビリ、そして、本人の頑張るという意思だったと思います。

落ち着いてくると、気持にもゆとりが見られるようになり、
車椅子で病院の庭を、ぐるっと散歩をする気力も出てくるようになりました。
ここの病院は、昔は、軍隊の病院で、戦後は結核療養所から国立病院になり、今に至っています。
庭が広々としていて、散歩コースがいくつもあり、久しぶりに母娘の話に花が咲きました。
幸せな時間を、ここで過ごしました。


14. 看護師さん

幼さを残した看護師さんの卵が、実習に来てました。
「自分の目標は、食事をしてもらうことです」と言って、かなりの時間がかかっても、
母の口にゆっくりとスプーンを運んでいました。
母にとって何が一番大切なのかが、よくわかっていました。
もうとっくに彼の食事時間は、過ぎているのに一生懸命やっていて、
「あなたが食べなさい」と母に言われて、やっと休憩を取りに行くのでした。
私は、彼が来てくれていたときは、ゆっくりできました。

看護師さんにもいろいろな人がいて、客観的に見るとつり合いがとれているのだなあと思って見ていました。
でも 患者側からすると、細かいことが気になります。
たとえば、点滴の針が、なかなか入らなかったりすると痛いし、きびしく言われたりすると落ち込んだりしますが、
注射の苦手な人が、丁寧に身体を拭いて下さったり、きびしい人の後に優しい人がやってきたりするので、
ちょうどいい具合になっているようです。
患者の間で、看護師さんたちのランキングを、話し合っていて、それを聞くのもおもしろかった。


13.リハビリの先生

びっくりしたのは、たった数週間のベッドでの生活で、車いすに座ることが困難になってしまったことだ。
座らせても首が固定しないので、すぐに身体が前のめりになってしまう。
背中にクッションやバスタオルをはさんだりするが、うまくいかない。すぐ疲れるので、寝たがる。
筋肉は、使わないとすぐに退化してしまうんだなあと思った。

ここでもリハビリが始まり、効果が日に日にあらわれるようになった。
理学療法士と作業療法士の先生に、仕事とはいえ感謝しても感謝しきれない気持です。
センターでリハビリを受けている方々のように歩けるようになるのかなあと心配が頭をかすめましたが
頑張るしかないと、毎日リハビリセンターに、付き添って通いました。

ある日、母が、作業療法士の先生が好きだということがわかった。
同室の方に、「いい男だねえ」と言ったそうだ。40代後半の山登りが趣味の先生・・・
自分の身体が精一杯なのに、そういう感情は残ってるんだ。
先生に言われる通りに作業を一生懸命やっていく母、
粘土を片手でこねている時に、美味しそうだと思ったのか口に入れてしまって、あわてたこともあった。
トイレに自分で行く練習をしていた時には、間違えてシャワーを押してしまい濡れてしまったこともあった。
先生の対応はすばやく、たとえそれが う○こであっても手でつかむだろうなという真剣な態度でした。
日曜日でもリハビリに行こうとする母が、可愛かった。


12. 手術後

「もうだめだ!」と弱音を吐くようになった母に、また気力を取り戻させなければならない。
家族がもう仕方ないとあきらめてしまうと、気持が伝わってだんだん本人もそうなってしまうように感じる。
まだまだ頑張って欲しい。77歳だもの 平均寿命には、10年もある。
脳神経外科での介護を、もう一度やりなおせばいいんだ。

食べることをしなくなった母の腕は、点滴がもれてしまったあとが、内出血になって痛々しい。
始めに、りんご セロリ にんじんをミキサーにかけてジュースにして病院に運んだ。
これは元気な頃に、いつも飲んでいたものなので、抵抗なく飲んだ。
次に、好きなおやつを毎日いろんな種類を持って行った。
お友達になった部屋の人と一緒に食べるのは、楽しいようだ。
そのうちにおやつの交換が始まり、和気あいあいのおやつタイムになった。
突然話し出す母の話にも耳を傾けて下さり、話すことも楽しみになったようだった。
それから、おにぎり とうふ かぼちゃの煮物 ゆで卵 ナスの炒め物など好きな物を持っていくと食べるようになった。
病院食を食べてくださいと言われるかなあと思いましたが、看護師さんは、「いいなあ」と言ってくれました。
そうこうしているうちに、車いすでの移動が可能になり、気晴らしに外に連れ出すことにした。
ちょっと行くと疲れてしまい「いやっ」と言い出しますが、少しずつ時間を長くしていきました。


11. 大腿骨骨折の手術

チタンでできた人口骨頭が母の脚に入った。見せてもらったが重い。骨の中に差し込むのだそうだ。
手術後は動かさないように固定するので、、かなりつらそうだった。
ベッドで動かないでいるために高齢者だと寝たきりになる可能性が多いと医者に言われた。

昼間は、私がいるので気がまぎれるようだが、
夜になると我慢できなくなるので、声を出して同室の方にかなり迷惑をかけた。
個室に移ろうかと考えたが、看護師さんは、「だいじょうぶですよ」と言われた。
理由は、一人になると痴呆が進んで、鬱になることもあるということだった。
それにしても、同室の方々は、「 私たちの行く道だからね」と言って、親切でやさしかった。
30代、50代、70代、病気もリューマチ、外反母趾の手術後、膝の人工関節の手術待ちの方々でした。

ここでも問題は、食べることでした。
脚の方は、日に日によくなっていったが、食べないので、身体が思うように動かない。
上半身起こしても自然と倒れてしまうので、食べさせる作戦を練らねばならなかった。



10. 親を施設に入れる子供の気持

身体がどんなになっても、ほとんどの患者は、家に帰りたいと思っていると看護師さんから聞いた。
母は、帰りたいと看護師さんには言っても家族には言わなかった。
その気持を思うとそうしてやれなかったのが、辛い。

いろいろ考えた。
私の家に連れて来てしまおうか・・・ 最終の生活を知らない所で過ごすのは、負担が大きいだろう。
私が行こうか・・・・自分の生活があり、先が見えない介護は行き詰まるだろう。
ヘルパーさんに来てもらって自宅で父が介護するのがいいのか。・・・・今の母の気持を考えると無理だ。
体験した方に、聞いた。
・家での介護は並大抵の大変さではなく、自分がつぶれそうになった。
・なんとかなるものなのよ。
どちらもその通りだろう。
結局、施設に入れることを選んだ。今も気持のどこかにひっかかっているがこれでいいんだと思っている。

人生どんなことがあっても、最後が良ければ幸せだったといえると思う。
親の人生の最後の生活は、こころ静かに、楽しく過ごさせてやりたい。
遠くの地から、そう思っている。


9, 再びのでんわ

母は、グループホームに慣れただろうか、お友達ができだたろうか、気がかりだったが
日常の生活にまぎれていく日々が続いていた。
ある日、弟から電話があり、めったにかかってこないので、胸騒ぎがしたが、やっぱりそうだった。
大腿骨骨折したので、緊急入院したというのだ。
なぜ?どうして?入所してたった2ヶ月半で、なんでそうなるの?
頭の中がぐるぐる回ってしまった。

その時思ったこと。
@大腿骨骨折では、歩けなくなるかもしれないし寝たきりになるかもしれない。
A母は、気をつける方なのにどうしてそうなったのか。
Bホームの対応が悪かったのではないか。
Cいくら注意していても起こってしまうことがあり、仕方ない。
D痴呆が、進んでしまったのか。

郷里に帰るのは、3回目になりました。今度は、もっと長くなるかもしれない。
ホームの方が、整形外科に連れて行って下さってから後の、家族への対応は、
ほんとに介護士さん?と思わせるものでした。
退所という措置になります。という一言に怒りを覚えました。
事故が起こった説明もせず、すみませんもなく、いきなり出て行って下さいでは、あんまりじゃないですか。
責任者を呼んでくださいと 2日訪ねたが、詳しいことはいませんのでわかりませんと言うばかり。
その後5日間、責任者の電話を待ったが、まったくかかってこなかった。
このままでは納得がいかない。
同級生が、特養老人ホームの施設長をやっているのを思い出して、電話をかけて相談した。
それでは、自分が連絡をしてあげましょうと電話をしてくれた。
そしたらなんと、20分もしないうちに、グループホームの責任者から電話がきた。
そして、次の日に理事長とマネージャーと主任が、家にきた。
私は、怒りをそのままぶっつけた。言わなきゃわからないんだ。
真摯に受け止め、これからはこのようなことのないよう気をつけますということだったので、
引き下がったが、こんなことって他にもあるのだろうか。


8, グループホームに行く

グループホームに入所する準備を始めました。
1階と2階に13人ずつで、一人一部屋で、部屋には洗面台と収納スペース、ベランダがあり
広いリビングに清潔なダイニング、トイレの数も充分で、回りも散歩するところがありとても住みやすい環境です。
小型テレビ ベッド 寝具 着替えを持ち込み準備万端になりました。
費用は、1ヶ月に約14万円、死んでもお金は持っていけないんだから できるんだったら充分なことをしてやりたいと
思いました。父も半月の介護で大変さがわかったようで、納得しました。
私たちの年代が高齢になった頃には、年金や福祉ももっと削られて、たぶん今のような状況にはならないだろう。
契約書を交わす時に、マニュアル通りに話しているなあと感じましたが、慣れていないのだろうと思いました。
グループホームとは、痴呆があって、自分でなんとか身の回りのことができるというのが対象だそうですが、
車いすの人、ずっと座っていて話さない人もいました。入った雰囲気は暗く
介護士さんだけの声がしていて忙しく立ち働いていました。
これもまだできたばっかりなので、仕方ない。
同列のもうひとつのグループホームは、明るく自由な雰囲気だったので、
だんだんそうなっていくに違いないと思っていました。
母の病室に2ヶ月ちょっと通い、それから1ヶ月間大分に戻って、これからは、このホームに慣れるまで通って
4月の終わりには、帰ろうと考えていました。家族や義父母に理解があっても、日々の生活に支障をきたしているし
近所の人が、いろいろ変なうわさをしていると聞いてましたので、早く帰らなければと思っていました。
何回もマネージャーやヘルパーさんと話し、母の状態これまでのことを書いた手紙を渡しました。
緊急の時の連絡先、趣味、好きな物、家族との様子、
これまでの治療とリハビリ してもらいたいことなどを細かに書きました。
これでひと安心とホッとして、ゆっくり帰ろうと飛行機ではなく夜行列車にしました。



7, グループホームに入所するまで

病院では、充分な治療、リハビリ、介護を、受けることができましたが、家には、気をつけないと危険がいっぱいある。
まず、玄関を上がるのに一苦労、廊下や畳がすべる、ベッド 柱 タンス あらゆるところに角がある。
こたつに入ったら、立ち上がれないし トイレ お風呂は、暖かくしなければならない。
病院だったら、栄養士さんが考えてくれるけど、家では、そんなに多く食品を摂取できないし
好きなものだけ食べさせるわけにもいかない。
まあ、それはなんとかできることだが
グループホームへ行くまでの半月間、親子3人水入らずだなあと思ったのもつかの間、ゲーッと思うことが起こりました。
父は、自分のやることは正しいし、相手にとってもよいことのはずだと、それを行うことです。
母を抱き上げようとするし、80才の父が77才の母をです。すべらない靴下を履かせると、つまづくと言って履かせ直して
案の定、すべって頭を打ってしまったり、 私と衝突がおきました。お互い母を思ってのことで、おかしなことでした。
父は子供の頃、学校に行く時は馬車で通い、走る土地はすべて自分の家のものという環境でしたが、
祖父が散財し、みるみる貧しくなって、祖母は、とても苦労したという経験をしていて
おへそが、横についているんじゃないかと思うくらい 偏屈です。
その根性の曲がった性格を、私もたぶん引き継いでいるだろう。
忘れた頃に、ひょっと出てきたりすると 何て私っていやな奴だろうと思うときがあります。

父は、自分が母を介護すると言い出しました。
これはまずい どうなってしまうかわからない 悪くすると共倒れだ。
今考えると、思うようにさせてやればよかったのか?いや それはやっぱりできなかったと思う。
なぜなら
私は、母のベッドの隣で寝ていたのだが、「おやすみなさい」と電気を消すと
いっときして、ヨタヨタと起き上がって部屋を出て行くので
あぶないなあどこに行くんだろうと息をこらしていると、父のところに行くのでした。
ふすまのむこうから、たどたどしい口調で五十数年の結婚生活の不満を言ってました。そしてそれは毎晩続きました。
私はびっくり仰天しました。静かな母が、ボケてから、たまっていたものをはきだしているのでしょうか。
昔からどんなことがあっても、子供たちには話さない母でした。
私は、見て見ぬふりをしていましたが、複雑でなんとも言えないたまらない気持になりました。



6, 母、家に帰る

4月1日、母のもとに戻りました。
待っていましたというように、すぐ退院になりました。
看護師さんに見送られて、病室をあとにする時、母は、涙をためていました。
私ももらい泣きそうになりました。よくなってよかった、これからどうしたい?いろいろよけいなことを言い続けながら
母をひっぱってエレベータに乗りました。
私は、病院を振り返り、深く一礼しました。大変お世話になりました。でももう二度と来たくはないです。

家に帰り着くと、母は、ほっとした表情になりました。やっぱりうれしそうです。
家での介護は無理なので、入れてくれそうな所を、ケースワーカーさんと相談して探しました。
交通の便がよく、リハビリを続けられるところ、親切なところ、
電話だけではわからないので、実際に何ヶ所か行ってみました。
そして、新しくできるというグループホームに行こうということになりました。
家から近く、病院も隣接しているので、もってこいのところでした。
しかし、この判断が、良かったのかそれとも悪かったのかと思い悩むことになろうとは、思ってもいませんでした。


5, 病院内のチームワークとコミュニケーション

その病院は、郊外の田園が回りに広がるところに建っていますが、待合室は、いっぱい。
「あっ!また救急車だ」というように頻繁に、脳の治療に運ばれて来ます。
入ると、なんとも言えないここちよいような、緊張感が、漂っています。
その緊張感が、母を治してくれて、退院できるだろうという気持にさせていました。
受付の人、売店のお姉さん、早足の看護師、医師、薬剤師、ケースワーカー、介護士、言語療法士、作業療法士、
事務局の人、お掃除の人、栄養士、調理師、出入り業者、
いろんな人に行き会い、挨拶をして通り過ぎます。
大変お世話になりました。特に、母の身体とともに心をなごませて下さった看護師さんが、いました。
母に、にこっと笑って、Yちゃんと親しみをこめて、呼んでくれてました。
病室の窓から見える夕日を、母の肩を抱いて、「、きれいだねえ」と言って下さったり
「寂しかったら一緒に寝ようね」と言って下さって、夜に母は布団を、ずるずるひっぱっていったこともありました。
「なんでもいいから書いて下さいね」とノートを渡されていたので、毎日の様子や気になることを、書き込んでいました。
母に関わってくれている方たちに、状態はほぼ確認されていました。
入院して2ヶ月以上が経ち、医院長が、そろそろ退院の準備をするようにとのことでした。
父は高齢で母を看るのは耐えられないだろう、、家には帰れないと事情を話しました。
また、私は、3月1日に息子の卒業式がある。そのほかのことを済ませて、また来ます。と言いました。
ケースワーカーの○さんは、私が用事をすませて、また戻るまで、母を退院させないで、
待ってくれるように話して下さいました。
入院は、4ヶ月になりました。、
病院内の方のチームワークとコミュニケーションで、いい方向に進めたんだと思います。

                                                                               
4, 口とおしり

口から食べられるようになると、力が入り出して、ベッドから自分の力で起き上がれるようになりました。
病院食はミキサーでドロドロにしたもの。隣の人にメニューを見せてもらって
「煮物だわよ。酢の物だ。おいしそうだなあ。」などと言ってもあまり食が進まない。
本意ではないけれど、母の好きなものばかり持っていくことにしました。
いろんな味のアイス、ゼリー、ヨーグルト、プリン お菓子ばっかり。
それでも、口の端から、こぼしながらもおいしそうに食べるのをみて、よかったと思いました。
食事のあとは、トイレと歯磨き。
母は、ふらふらになりながらも支えられて、点滴を引っ張って、トイレに行ってました。
男子トイレに間違って入ったり、そんなに必死に自分でいかなくてもいいのにとみんなが言っても聞きませんでした。
緑内障で視野が狭くなっている、骨と皮のような身体、ボケ始めている、のを思えば
人の手を借りても仕方がないと思えるのですが、はってでも トイレには行くという感じでした。
「歯磨きは大切です」と言われていたので、じっくりやらせたいのですが、疲れるので、さっさと終わりにしてしまいます。
鏡の中の母に、「きれいだよ。顔色がいいよ。」などと歯の浮いたお世辞を言いながら、歯磨きを長くさせました。
頭のてっぺんははげて、頬のこけた顔をほめるのですから、無理がありますが、
母は、まんざらでもないように、斜めにして自分の顔を見つめて、にやっと笑います。
とどのつまり、お口とお尻なんだなあ。



3, 食べることって、とても大切で大変。

このまま栄養剤の点滴だけでは、どうにもならない。
どうやったら食べられるようになるかと考えていた時
デイサービスに通っていた頃、お世話になっていたケアマネージャーの方に口腔ケアの専門家を紹介して頂きました。
グーハウスを主催する柴田浩美先生です。さっそく伺いました。
でも先生は、お亡くなりになられていて、ご主人があとを引き受けていらしゃいましたが、いろいろ助言を頂きました。
「必ず食べることができるようになります。」と言われて希望が出てきて力が湧いてきました。
教えて頂いたことのひとつは、過去に体験した食生活を理解し、回想させることが有効であるということです。
その日から、母に過去を思い出させることを、始めました。
「子供の頃は勉強できた?」「おじいさんは、どんな人だった?」「初恋は、いつ?」などなど。
顔がかがやき出しました。いっしょうけんめい話そうとします。そうこうしているうちに、母の言っていることが、わかりだしました。
もうこっちのもんです。とめどなく昔話をする日々が続きました。
アッと気がつきました。母は、バニラアイスクリームが大好きなのです。栄養のありそうなのを買って来ました。
とろみのついた麦茶も飲み込めなかったのに、おいしそうに飲み込みました。
やったー!心の中で叫びました。それから、少しずつ食べる力をとりもどしました。


2 ,リハビリは、早い方が良い

2週間の治療のための点滴をした後。すぐにリハビリが始まりました。
エッこんなに早く?と思いましたが、早い方が回復が良いんだそうです。
母の一番の問題は、喉の筋肉がやられているので、声がでない、唾も飲み込めない、
喉からなにも入らなくなってしまったことです。
体重が30kg を切ると胃に管を通すことになってしまうと医者に言われて、あせりました。
母に言いました。「あんた、このままじゃあ胃に穴を開けることになるよ。それでもいいの?」
声にはなりませんでしたが、はっきり「いやっ!」と言いました。
それから母の食べることへの闘いが始まりました。
食は命の素を、切実に感じた瞬間でした。
その脳神経外科の病院には、言語療法士の方がいらして、毎日病室に来て下さいました。
まず、舌を動かすことの練習からです。
上に下に回してと言われてもなかなか思うようには、動きません。
でもすごいことです。毎日何回もやっているうちに少しずつ動くようになってきました。
言語療法士さんは、母の気持をくんで、無理をせず気長に、やって下さいました.

1, 母親が脳梗塞で倒れた!

母は、2003年12月、脳梗塞で入院しました。2回目です。
買い物に出かけて、途中でじぶんがどこにいるのかわからなくなり
家に帰ろうと、1時間ほど同じところをぐるぐる歩いていました。
やっとのことで家に帰りついてから、倒れこみました。
たまたま様子を見に来た長男(私の弟)がすぐに救急車を呼び、入院しました。
滞っている血液を流し、血管を拡張する点滴を2週間して、退院しようかという時に、
小脳梗塞が来て、ふたたび治療が始まりました。
その頃、大分に住む私は、何も知りませんでした。
あぶないと思った長男から、連絡がきました。すぐ行こうと思ってもなんせ遠い。家のこともある。
家のことをかたずけ、言いおきして、2日目に出かけました。
1回目の時はすぐ、飛んで行きましたが、2回目では、すぐには、死なないだろうということを、確認してから
家のことを済ませて、これからのことをいろいろ頭で、シュミレーションしてからでかける余裕がありました。
自分の薬も大量にもらって、郷里の病院への紹介状を主治医が書いてくださいました。
その時、これから始まる介護が、重要で大変なものになるとは、思ってもいませんでした。