山部を歩くーその2 



平 原

平原地区(集落背後の山中に天神社と石塔がある)

平原の天神社は、過ぐる年の台風で社殿が倒壊、現在はブロックづくりの仮社殿に菅原道真の神像が安置されている。

     
  平原天神社の神像   




元山部

元山部地区


元山部の愛宕神社

元山部愛宕神社の原生林と古塔

〇原生林
 佩盾山(標高753.8メートル)の西麓に位置する小集落元山部の「愛宕神社」に残る原生林には、シイ・シラカシ・タブ・モミジなどの大木が残り、森厳な鎮守の森を形成している。その中心を成すものはシイの古木で、その一本は樹高25メートル、胸高周り6,18メートル、樹齢300年以上と推定され、以下胸高周りで3.6メートル、3.4メートル、2.6メートル、1.7メートル、タブのそれは1.7メートル、モミジのそれは1.63メートルで、いずれも独自の樹相を見せて、鬱蒼と生い茂り、長い歳月の重みとその静寂を深く感じさせられます。

〇古塔
 神社の前の小高い丘の上に四基の庚申塔があり、その一つの板碑型形のものには萬治三庚子天(1660)の文字があり、本匠村最古の庚申塔として非常に大切なものです。このほか境内には宝篋印塔の笠と相輪の一部が残り、一説によると、ここにはかって庵寺があったが、いつの頃か破却され、後に愛宕神社になったことが、同社に残る墨書の板札から分かります。鎮守の森の自然木、苔むした庚申塔、宝篋印塔のそれぞれは、私たちの先祖の古い時代のれ基礎を証明する貴重な文化財です。いずれも大切に保存し、後世に残すことが私たちの大きな責務といえます。
                              本匠村教育委員会



   
  元山部のお大師さん(右側の祠) 左の祠は帝釈天?  
  集落背後の山の頂きに鎮座している。その昔、元山部のお大師さんのお祭りには平原のGさんも参加していたが、餅まきやお接待があり大変賑わっていたという。   



元山部高岩の雷天神



 


雷天神

 元山部の茶園の裏側にそびえる険しい岩山の頂上に古い石の祠があり、亀の背に乗った神像が納められている。祠の前に石灯籠が一基あり、前面に「御神燈」の文字が、側面には建之の年月が刻まれており文久二戌(1862)十一月と読める。

 何度も元山部を訪れて、雷天神の所在場所を探してきたがわからなかった。とにかく人に出会うことが少ないので、なかなか調査が進まない。今回、平原のGさんを訪ねたおりに、Gさんを訪ねてきた元山部のYさんに出会った。Yさんは、雷天神へ行く山道は雑草が覆いかぶさって、行くことはできないだろうから、自分が雑草を刈って通れるようにしようとおっしゃってくれた。有り難い限りである。Yさんから聞いたことでおおよその所在場所が分かったので登山靴に履き替えて山に入り、山頂付近で雷天神を見つけることができた。





腰 越

上腰越と佩楯山


  松葉から上腰越へ至る途中には下腰越の集落(住家二戸)があったが、現在は無住地区になっている。上腰越には四戸の住家があるが、現在居住しているのは二戸のみである。また、かってはかなりの面積の水田もあったが、なぜか水枯れになり稲を育てることができなくなったという(石場ダムができてからであるとか、周辺の広大な山林を伐採した為であるとかの説があるが、飲料水にも不自由するようになったという)。
 上腰越集落入口の右側に古い石灯籠がある。山部松葉地区から野津町清水原に至る山道は、この石灯籠のあるところから右の道を進んで尾根を越えていたのだろう。近世から近代にかけて、腰越集落は物資運搬の「中継ぎ場所」になっていたのではないだろうか。しかし、腰越の集落がいつ頃からあるのかは定かでない。腰越集落の天神社は古くからあると思われるが、すでに社殿も失われて仮の社殿に神像が安置されており、創設時期は不明である。天神社の場所が分からず、腰越地区のAさんをお訪ねして神社への道を聞いた。Aさんは「話しても分からないだろうから、車で連れて行ってあげよう」と言われ、四輪駆動の軽四に乗せていただき、神社まで案内していただいたが、確かに神社への道は分かりづらく、四輪駆動車でなければ通れないようなひどい道だった。
 Aさんから腰越地区のさまざまなお話を聞くことができた。佐伯市内に住んでいながら日用品を購入するためには、九十九折の山道を臼杵市野津町まで出かけなければならないと言う。不便だが、それでも腰越での暮らしを続けたい。だが夫婦のどちらかが死んで一人になったら山を下りざるを得ないだろうと言われた。そういえば平原地区のGさんも、日用品を購入するためには豊後大野市三重町市場まで行かなくてはならないと言っていた。




上腰越の天神社(社殿が朽ちた為、祠を設置した)





佩 楯 山


佩楯山(豊後大野市三重町上空から)

佩楯山(灰立山)


 佩楯山(はいだてさん)は、豊後大野市三重町松尾と佐伯市本匠大字山部との境に位置する標高753.8mの山である。山頂からは豊後大野市三重町中心部や祖母山、九重連山、由布岳、鶴見岳、大分市などの雄大な景色が見える。三重町から見る山容が甲冑の佩楯(膝鎧)に似ていることから佩楯山といわれるという。また律令時代、この山の山頂に烽(とぶひ=のろし)の火炬(かこ)が置かれ、火を燃やして灰が舞い立つさまから「灰立山」と呼んだとの説もある。佩楯山頂には電波塔が林立しており、歴史的文化遺産としての価値はすでに失われている。


佩楯山頂 (ピークが二つあるが、左のピークは進入禁止)

佩楯山

 佩楯山(標高753.8メートル)は、古代、烽(とぶひ)の火炬(かこ)が置かれた神聖な山であった。山岳信仰が盛んになると、役の行者を開祖とする修験道が発達し、佩楯山は修験者たちの重要な修行の場となった。近代になって修験道が廃止されると、四国石鎚神社が勧請されて、佩楯山頂には神社が建立され、お籠もり堂も建設された。古くからの修行の場は三重石鎚協会の継承、管理するところとなった。明治36年(1903)ごろ同教会が廃絶したのち、役の行者信仰が復活して尊像が安置され、以後、修験道の流れを汲む松尾山吉祥寺が祭りを司り、下鷲谷・松尾区民が護りつづけている。昭和初期ごろの祭りには、松尾神楽・松尾獅子・下鷲谷白熊・本匠杖術が奉納され、祭り場は立錐の余地がないほどの賑わいであった。なお、当所は大分県指定民俗文化財松尾神楽発祥の地でもある。

     
  役行者の広場   


左と中央が神変大菩薩(役の行者)、右が石鎚大権現

役行者(えんのぎょうじゃ)

 役の行者は、今を去る1300年前の人である。役の君小角という。大和葛木山にこもり、孔雀呪法を修行して呪術を身に付け、人間の病難・苦難の救済につとめたという。超人性のゆえに支配者から忌避されて、伊豆の国に流された。修験道の開祖として尊敬され、全国各地の名山に祀られて山伏たちをはじめ人々の信仰を集めた。
      平成18年12月
                            豊後大野市観光協会






海部と山部

 大宝2年(702)の豊後国の戸籍に茨田連族・安曇部・河内漢部・各田部・榎木連部・海部君族・山部・手嶋部の姓(かばね)が見られる。
 海部(あま、あまべ)は、大和朝廷の臣下となり、朝廷に海産物の貢納と航海技術を以て奉仕した「部」を言う。
 山部(やまべ、やまぶ)は、大和朝廷に山林の産物を貢納した。山部は大和、河内、摂津、遠江、近江、上野、越前、出雲、播磨、豊後にみられる。




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