孤高の画家 田中一村 |
愛媛県立美術館(現在は愛媛県美術館) | ||
愛媛県松山市堀之内 | ||
1996(平成8)年3月某日、松山市へ行くために大分県佐賀関港からカーフェリーで愛媛県の三崎港に向かった。フェリーの船内で、近くにいた男性と会話をした。その人は大分県庁にお勤めで、看護の勉強をしているお嬢さんの卒業式に出席するために松山市まで行くと言われた(その当時、大分県内に看護大学は無かった)。 「あなたは、どこに行かれるのですか。」と聞かれ、「松山市の愛媛県立美術館で田中一村の展覧会があるので見に行きます。」と答えると、その方は、「絵を見るために、松山市まで行かれるのですか?」と、ビックリした顔でまじまじと私を見た。「そうです。」と答えたが、この時のやりとりをなぜかいつまでも忘れないでいる。 田中一村は「日曜美術館」で紹介されて一躍有名になった。私も「日曜美術館」を見て、田中一村は忘れられない画家のひとりになった。特に「アダンの浜辺」に、強い印象を受けた。 今回、愛媛県立美術館で「田中一村展」が開催されることを聞き、「アダンの浜辺」をどうしても見たいと思い、妻と松山市まで出かけた。「田中一村展」は、愛媛県立美術館でしか見る機会がなかった。 「アダンの浜辺」は想像した以上に素晴らしい絵だった。「アダンの浜辺」を見た瞬間、「あぁ、田中一村がいる」と、思わずつぶやいた。 「アダンの浜辺」の空と雲は、宇宙につながっている。この作品を見るためだけに松山市まで来た。 田中一村は、1908(明治41)年、栃木県に生まれた。父は仏像の彫刻家で、名を田中彌吉(号は稲村)という。1926年、東京美術学校(現:東京芸術大学)に入学したが、2ヶ月で中退、以後南画を描いて一家の生計を支え、1938(昭和13)年から千葉で暮らすようになった。 1947(昭和22)年、青龍展に、柳一村の名で「白い花」を初出品して入選した。翌年も「曙光」を出品したが、川端龍子と意見を異にし、以後画壇との接触を絶った。 1955(昭和30)年、四国・九州へスケッチ旅行。 1958(昭和33)年12月13日、49歳で奄美大島に渡り、大島紬の染色工で生計を立て絵を描き始める。 1977(昭和52)年9月1日、死去 69歳。 |
![]() アダンの浜辺 |
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