高 木 兼 寛
タ カ キ  カ ネ ヒ ロ

 嘉永2年(1849)9月15日、薩摩藩郷士高木喜助の長男として日向国諸県(もろかた)郡穆佐(むかさ)郷白土坂(現在の宮崎市高岡町穆佐)に生まれた。幼名を藤四郎といい7歳の頃には同地方の学者の中村敬助について四書五経を学び、9歳になると漢学塾に通うかたわら、穆佐の年寄阿万孫兵衛に示現流の剣術を習った。
12歳の頃に、穆佐の有識者黒木了輔医師の影響を受け自分も医師になって世の中の役に立ちたいと考えるようになった。18歳の頃から薩摩藩蘭方医の石神良策に師事、戊辰戦争に薩摩藩兵の軍医として従軍、他藩の西洋医学の進歩を知る。
明治2年(1869)、開成所洋学局に入学し英語と西洋医学を学ぶ。明治3年(1870)、薩摩藩によって鹿児島医学校が創設されると学生として入学、校長の英国人ウイリアム・ウィリスに認められ、別科の教授に任命された。明治5年(1872)4月、海軍医務行政の中央機関として創設された海軍軍医寮(後の海軍省医務局)の幹部になっていた石神良策の推挙で、一等軍医副(中尉相当官)として海軍に入る。
海軍病院勤務の傍ら、病院や軍医制度に関する建議を多数行ない大軍医(大尉相当官)に昇進。軍医少監(少佐相当官)になっていた明治8年(1875)に、日本政府の要請により日本海軍の軍医養成のために教師として来日していた英国セント・トーマス病院の外科助教授ウイリアム・アンダーソンの斡旋で、セント・トーマス病院医学校に留学。高木は在学中優等の成績を収め最優秀学生の表彰を受けると共に、英国外科医・内科医・産科医の資格を取得した。
明治13年(1880)帰国、東京海軍病院長に就任。明治15年(1882)、海軍医務局副長兼学舎長(軍医学校校長)。海軍医療の中枢を歩み、明治16年(1883)海軍医務局長、明治18年(1885)に海軍軍医総監(少将相当官。海軍軍医の最高階級。)に就任。
明治25年(1892)予備役となり、貴族院議員、大日本医師会会長、東京市教育会会長などの要職を歴任。
大正9年(1920)4月13日逝去 享年72歳

宮崎市高岡

 脚気論争


 高木兼寛は海軍医務局副長に就任以来、軍隊内部で流行していた脚気に本格的に取り組んだ。脚気の原因はある種の栄養素の欠乏のためではないかと考えた高木は兵食を分析した結果、炭水化物が多くタンパク質が少ない場合に脚気が発生すると結論し、予防策として兵食をパンや肉食中心の洋食に変えることを提案した。
 明治17年(1884)、この前年に別の軍艦が行なった遠洋練習航海と食生活以外は全く同じ内容で軍艦「筑波」に遠洋練習航海を行なわせ、これら2度の遠洋航海における乗組員の食事の内容と脚気の発生率の関係を検証した結果、乗組員333名中に脚気患者の発生を見なかった。これを受けて海軍は、高木が主張した白米の中に大麦を混ぜた麦飯食で脚気の撲滅に成功した。
 これに対し陸軍は軍医総監の石黒忠悳が、脚気は細菌が引き起こす感染症であるとして高木兼寛説を批判し、東大教授緒方正規も「脚気病菌発見」を発表したが、緒方の細菌説はドイツ留学中の北里柴三郎によって否定された。しかし、陸軍はその後も石黒忠悳と森林太郎が頑なに高木説を否定し続け、明治27年の日清戦争では、食糧を陸軍省医務局が一元管理し全部隊に白米を支給した結果、戦死者453名に対して脚気による死者4、064名を出した。その後も陸軍上層部は脚気細菌説を採り続け、10年後の日露戦争では陸軍の被害は、戦死者4万8400余名に対して傷病死者3万7200余名、うち脚気による死者は2万7800余名にのぼった。
 その後、ビタミンが発見され脚気病はビタミンB1の欠乏により起こることがわかった。イギリスのビタミン学界の第一人者レスリ・ハリスは世界の八大ビタミン学者を写真入りで紹介し、その中で高木兼寛を二番目に取り上げ、彼の偉大な業績を紹介している。高木はこれらの功績により明治21年(1888)日本最初の博士号授与者(文学・法学・工学・医学各4名)の列に加えられ、医学博士号を授与された。
 さらに、明治38年(1905)に華族に列せられ男爵の爵位を授けられた。人々は親愛と揶揄の両方の意味をこめて彼のことを「麦飯男爵」と呼んだと伝えられている。また、死去した直後に従二位の位と勲一等旭日大綬章が追贈されている。
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