佐藤忠良先生


 「佐藤忠良展」と題された彫刻の作品集があります。1982年(昭和57年)1月14日から日本橋高島屋で開催された「佐藤忠良展」の作品集です。前年の1981年5月はじめから2か月間、パリのフランス国立ロダン美術館で開催された佐藤忠良展が成功を収めたのを機に、帰国記念展が開催されました。
 今から52年前のことですが、佐藤忠良先生の「群馬の人」を平凡社の日本美術全集で見た私は、電気ショックを受けたような感覚に襲われました。この時から、佐藤忠良という名前は私の頭の中に大きく刻み込まれました。しかし大分県では佐藤先生の作品に接する機会は多くなく「帽子の女」なども作品集などで見るだけでした。そんな時、「佐藤忠良展」が東京で開催されるとの報道に接した私は、矢も楯もたまらず大分から上京して佐藤忠良展の会場を訪れました。そして「群馬の人」を、「帽子の女」を見ました。
 胸が震えるような感動に包まれながら会場を何度もまわりました。その時、何か会場がざわめくような気配がして、何気なく入口の方を見ると、佐藤忠良先生と「帽子の女」のモデルを務めた笹戸千津子さん(彫刻家)が立っておられました。本当にびっくりしました。まさか、佐藤先生ご本人が会場に来られようとは想像すらしていませんでした。その時、佐藤先生のお近くにおられた方が作品集にサインをお願いしており、先生は気軽にサインしていました。そこで、私もサインをもらおうと思って、その方の後ろに並び「佐藤先生の作品に憧れて、大分から上京しました」と、お伝えしようなどと考えていました。私の順番になりました。佐藤先生は、ジッと私を見つめました。その瞬間、すべてが頭の中から吹き飛んでしまい、一言も発することができませんでした。眼光紙背を貫くとい


佐藤忠良作品集
ったらよいのでしょうか。一瞬にして対象のすべてを把握してしまう芸術家の眼の怖さを、つくづく思い知らされました。私の発する言葉などは無意味です。
 サインを終えた佐藤先生は「すぐ乾きますから、ちょっとだけこのまま開いておいてください」と、言われました。
その時の先生は、慈愛に満ちたやさしいまなざしをしていました。その後、先生は新聞記者の質問に答えて「佐藤忠良展はこのあと大分県立芸術会館で開催されます」。
「佐藤忠良展」の作品集は、34年後の今も新しいままで私の手元にあります。

佐藤忠良 2011年3月30日午前8時16分、死去。98歳。 宮城県生まれ。東京美術学校(現在の東京芸大)彫刻科卒。在学中から国画会展で受賞を重ね、1939年に新制作派協会彫刻部の創立に参加した。44年出征し、戦後3年間シベリアに抑留された。帰国後、国画会展に出品した「群馬の人」が評価され、彫刻家としての足場を固めた。身近な人々をモデルにした洗練された人体彫刻が広く親しまれ、日本の近代具象彫刻の頂点を形成した作家の一人とされる。代表作は「母の顔」や「ブラウス」、「帽子・夏」など帽子を被った女性像のシリーズ。 芸術選奨文部大臣賞ほか受賞。88年6月、日本経済新聞に「私の履歴書」を連載した。(日本経済新聞)



佐藤忠良さん

                安野光雅

 
佐藤忠良さんが白寿(99歳)を控えて健在である。作品は無論のことだが、生き方、芸術に対する心構え、そのどれをとっても偉大な先人である。彫刻家だが、頼まれて「おおきなかぶ」という絵本もかいている。綱を引く人間を描いても押しているように見えるので、納得のいくまで書き直したという。
 わたしも「繪本 平家物語(1996年、講談社)」で乱戦の部分を描いた。刀を持って左右に向かい合った状態は描けるが、前後に向かいあった2人は遠近法のせいで剣が短くなるので描けない。漫画家はそれでも描く。
 佐藤さんは職人を自称している。粘土をいじってばかりいるからだそうだ。芸術家というと、ほかの人より優れた才能があると自負しているように見えるためか。これはわたしの感じ方である。
 ある日、アトリエに行ってみたら、製作中の人体が、心棒の仕組みに不具合があったのか、彫刻の中ほどで折れて無残に傾いていた。これには驚いた。ちょうどテレビの取材が進行中だったが、佐藤さんはその失敗も自分の力のうちだといって、撮り直すことはせず、むしろ得がたい体験として記録にとどめた。
 旧ソ連の崩壊直後だから1992年の夏だったか、佐藤さんが抑留されていたバイカル湖のほとりまで、いっしょに行ったことがある。
 なんという光栄だろう。彼が直接に絵を描くところを初心者の眼でみたのである。当然だが、ほかの誰もが描く方法と少しも違わない。外見に違いはない。まねのできない心の中にどうすることもできない違いがあると思えた。
 シベリア抑留時代は、佐藤さんの生涯を決定づけた。その現地とは44年ぶりの再会だ。この時、ロシアのテレビ局が取材に来た。「抑留生活は大変だったでしょう」と聞かれた佐藤さんは、わらって「彫刻家になるための労苦を思えば、あんなものは何でもありません」といってのけた。
 以前はアグリッパとかヴィーナスとか、端正な人物像がいいとされたが、ロダンは鼻のつぶれた男など、むしろ醜い人物像もつくっている。佐藤さんがシベリアで開眼したのも、ただきれいな肖像ではなかった。そして「群馬の人」「常磐の大工」などの名作が生まれた。
 佐藤さんは「解放されたらパリに歩いていこう」と考えたという。後日、パリのロダン美術館で彼の個展が開かれたとき、たまたまわたしはパリにいたので見る機会に恵まれた。
 佐藤さんは暇を見つけては自然の風物を描くが、この絵の真似ができない。わたしは手や足の長さや頭の中まで改造しなければならぬと思ってあきらめた。
 肖像の彫刻は絵と違って、まつげとか、頬の色、小皺、ほくろなど、肖像として便利なものは何も表すことができない。それでも似ていると感じるのである。ただ全体の量感をつかんで製作する。こまかなことにこだわらず、対象の本質を見通しているのだというしかない。
 その佐藤さんも、彫刻家と人が認めるまでには、50歳を越えなければならなかったといわれた。その言葉の重さを思う。佐藤さんでもだれにでも若いときがある。100歳まで努力を続けても、大成するかどうか誰にもわからないのだ。(画家)

      「私の履歴書」日本経済新聞 2011年(平成23年)2月26日(土曜日)文化欄


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