支那事変(初期)における参謀本部第一部長の回想録摘記 |
石原莞爾少将 (昭和12年1月7日~9月28日) 〇 昭和十年八月、初めて陸軍中央部に入り、非常に驚いたのは、日本の兵力特に在満兵力の真に不十分なことである。すなわち満州事変二、三年にして驚くべき国防上の欠陥を作ってしまった。そこで直ちに急速な軍備拡張をやる気持ちになった。 このためには全国軍の作戦に必要な軍備工業が日満になければならないので、参謀本部の外郭機関として宮崎機関を作り研究を進めた。この宮崎機関の献身的努力こそ、今次事変に日本が辛うじて計画経済に進み得た基礎を作ったもので偉大な功績と思う。 〇 日本側における事変惹起の直接的原因は、国内では政党が地歩を失い、これに代わる強力な政治力がなかったこと、中央部が関東軍の北支に手を出すことを止めさせることができず、その対策として支那駐屯軍を増強したこと、北支における兵力配備に関する軍事的意見が政治的意見に押されて、通州の代わりに豊台に兵を置くようになったこと、綏東事件(綏遠事件)で日本側が完全に失敗したこと、中国との国交調整を図り合理的な日支提携を図るという努力が不足であったこと、事変勃発前後において、現地軍に対する中央の指導力が強力でなかったことなどが挙げられる。 〇 不拡大の方針を決定するにあたり重大な関係を持つのは対ソ見通しであった。ソ連は、今は出てこないが対支戦が長期となればやってくるであろう。そのとき日本はこれに対する準備ができていないということである。 〇 参謀本部の年次計画では、対ソ戦争の始まった場合の大綱だけは立案していたが、支那から始まったときの作戦計画は出来ないうちに事変を迎えた。対ソ戦だけでも兵力が不足するので対支全面戦の計画は全く立案されていなかったのである。参謀本部は、日支戦の起こることはほとんど考えておらず、平時研究の貧弱であったことが参謀本部の不統一をもたらした原因である。 〇 対支作戦は、速戦即決で片付けることが出来ると考える者もあったが、私は必ず全面的な戦争になり永引くと判断していた。このため作戦範囲をなるべく限定し、小兵力をもってその地域を何年間も確保し、主力を対ソ戦準備に向ける考えであった。 〇 不拡大方針を執りながら動員を決意したのは、派兵には数週間かかるので、不拡大を希望しても形勢が逼迫すれば、万一の準備として動員をする必要があったからであり、動員即不拡大方針の放棄ではない。もっと輸送力があれば、相当の兵力を国境近くに置いて対処することもできたと思う。 〇 北支那方面軍司令官は、平時計画どおり当然阿部信行大将がなられるものと考えていたので、寺内大将の就任は意外であった。これは戦略的見地から、動員計画による第二方面軍の名称を避け北支那方面軍ということになったが、陸軍省はこれを臨時編成と解釈し、司令官に安部大将ではなく寺内大将を推した。寺内大将も現役の最長老として東京におることは杉山陸軍大臣に対し勝手が悪いし、真崎大将事件等面倒なことがあったため、北支行きを希望されたと承っている。 綏遠事件(すいえんじけん) 1936年11月、内モンゴル独立指導者の徳王(とくおう)が日本の関東軍の援助を受けて綏遠省に侵入し、 綏遠省主席の傅作儀(ふさくぎ)が率いる中国軍に撃退された事件。徳王は関東軍参謀総長東条英機の指導を受け、蒙古軍総司令部を組織し、5月に挙兵して百霊廟鎮に進出。11月綏遠に攻撃を開始し、壊滅的な打撃を受け、拠点の百霊廟鎮が陥落して敗走。これが中国全土に伝えられて、中国の抗日運動を高める結果となった。関東軍の華北(北支)分離工作の一つ。また、ソ連の影響で赤化することを遮断する目的もあった。12月、関東軍は百霊廟の奪還を企図したが、逆に日本人機関員19人が虐殺された。 下村定少将 (昭和十二年九月二十八日~十三年一月十二日 〇 参謀本部は、九月二十日、対支作戦中、対ソ作戦の発生したときの作戦計画を立案し上奏したが、当時はソ連を非常に重大に考え、その年の十一月頃になったらソ連が動いてくるだろうと判断していた。従って対支積極作戦と持久作戦の限界を十月末と予定し、情勢に変化あれば、昭和十二年度対露作戦計画が実行できるよう作戦準備を整える考えであった。 〇 事変初めの数ヶ月を回顧すると、中央が予めしっかり樹立した作戦計画というもの、また純然たる独自の発意により下達した命令さえ少なく、その多くは現地の企図、出先の意見に引き摺られただけでなく、その行動を後で承認するということもあった。これは勿論当時の統帥当事者の至らぬ所でもあるが、また平時からの情勢判断、作戦計画についての準備に欠陥があったからだと思う。 〇 最高統帥というのは、多くの人間が分業的な組織下に仕事している関係上、ややもすると皆の考えが乖離してくるので、幕僚長主催の下に状況判断を時々やって大いに反省し且つ各人の思想を統一することが必要であると痛感した。 〇 南京を攻略するということは、中支那方面軍(十一月七日編成)を作る時には誰も考えていなかった。私が積極的な考えを持ち始めたのは、白茆口の上陸が成功し予想以上の速度で制令線の蘇州、嘉興の線に殺到する勢いを示すようになってからであり、二十四日、制令線を廃止する時分から南京追撃を決意した。しかし多田次長の同意を得られたのが二十八日であり、そこにゆくまで統帥業務がゴタゴタし不手際であった。これは次長以下部課長、部員の間に戦況見透しについて判断を異にし、意見の相違があって、調整に時日を要したためである。橋本群少将 (昭和十三年一月十八日~十四年九月十三日) 〇 南京攻略作戦ののち、漢口作戦、津浦線貫通作戦、南支上陸作戦、航空基地を推進する安慶作戦など考えられたが、参謀本部は、この際あまり戦面を拡げないという方針で兎に角兵力の整備をやるということで研究を進めた。この結果、今年中は整備の為にかかり、昭和十四年になって徹底的に積極作戦を進め、一挙に事変を解決する、それまで占拠地域を拡げないという計画を立て、二月十六日の御前会議で決定された。 〇 戦面不拡大といっても絶対的なものでなく、兵力の関係上時期的のものである。徐州会戦は戦面不拡大から拡大への転換期とも言える。この変更は必ずしも中央の自発的方針の変更からきたのではなく、現地の状況がそういうふうになってきたのである。
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