佐伯藩二万石 |
関ケ原役後の慶長六年(1601)、毛利高政が豊後隈(大分県日田市)より佐伯二万石に入封し、毛利氏は幕末まで在封した。毛利家は近江源氏佐々木氏の後裔で、近江鯰江荘森村(滋賀県愛東町)に住し森を姓とした。高政の時、羽柴秀吉につかえ三千石に取り立てられる。天正10年(1582)秀吉にしたがい、備中高松城攻めに従軍した。秀吉は、本能寺ノ変により主君織田信長倒るの報に接するや、毛利輝元と和解。そのとき高政は、毛利への人質として送られるが、毛利の当主輝元は高政の人柄を愛し、「毛利」の姓を贈ったという。 六代藩主高慶(たかやす)は名君といわれた。最初高年と名乗り、元服後とくに幕府に乞うて、五代将軍綱吉の奥小姓になり、幕府の儀式典礼をまなんだ。藩主に就任するや、政事十五ヶ条を布告した。公正な裁判をすすめ、苛税をいましめ、博打を禁ずる等の内容だった。 領内では木炭の製造がさかんで、炭山奉行がおかれた。佐伯木炭の声価が高く、年産二万四千俵に達した。領内の百姓に、紙の原料となる梶・三椏(ミツマタ)を栽培させ、紙を漉かせた。城下の紙座であつかい、佐伯半紙の名が上方で高まった。九十九浦の海岸の地の利をえて、豊富な海産物がとれ、海からの運上銀(税金)は、米に換算し九千五百余石におよんだという。 佐伯の教学は、六代藩主高慶(たかやす)によりはじめられたという。城中で「大学」を講義させた。八代高標(たかすえ)は安永六年(1777)、城中に藩校四教堂(シコウドウ)を開いた。このそばにまた、直新陰流の道場が開かれた。「佐伯文庫」は世に名高く、蔵書八万冊をかぞえた。大部分は中国からの輸入原書で、清国船が長崎に入港するたびに、書物係が派遣され、毎回数十冊、数百冊が購入された。二万石の屋台は、このため傾いたといわれる。のちに、二万七百余冊が幕府に献上された。 幕末、佐伯藩は英式調練をおこない、海岸に砲台をきずいて防備をかためた。藩は佐幕派で、たった一人の勤王志士青木威比古は、慶応三年(1867)、京都三条大橋で暗殺された。 JR日豊本線佐伯駅の南西に、佐伯城址がある。中江川の西岸標高140メートルの城山で、黒門と呼ばれる三ノ丸櫓門がのこっている。大手門から城山のふもとにそった道が、日本の道百選にえらばれた。明治の文豪国木田独歩はこの地で私立学校の教師をしており、城山の風物を愛し、作品に取り上げた。
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