長崎の西洋医学


     
   長崎港  

 天文12年(1543)、種子島に中国の密貿易船が来航、その船に乗っていたポルトガル人が我が国に鉄砲を伝えた。天文18年、中国の船に乗ったイエズス会士フランシスコ・ザビエルらが鹿児島に来航して、わが国にはじめてキリスト教を伝えた。天文19年(1550)にポルトガル船が平戸に入港、ポルトガル貿易が始まった。
 平戸は良港を持ち東シナ海から玄界灘に抜ける交通の要衝であり、古くから中国貿易の港として栄えていたので、ポルトガルの商人や船乗り達も平戸に入港する事を望んだ。平戸領主の松浦隆信は貿易は大歓迎であったがキリスト教を嫌っており、住民や家臣の中には熱心に信仰する者が増えたために、領内ではポルトガル人を巡って軋轢が絶えなかった。
 永禄4年(1561)、入港してきたポルトガル船の積荷の売買でにぎわう中、お互いの言葉が通じないことから行き違いが生じ、ポルトガル人が刀を抜いて日本人に切り掛かった。このため大騒動になり、ポルトガル人14人が殺され、船長を始めとして乗組員の3分の1が死亡した
(平戸港近くの氏神・七郎宮前で発生した暴動事件なので、俗に「宮ノ前事件」「宮前事件」と呼ばれている。
 この事件は単なる商取引上のトラブルにとどまらず、キリスト教の布教が障害となり、平戸でのポルトガル貿易は行き詰った。この暴動では日本人への処罰は行われなかった)
。これがきっかけになり、当時イエズス会の日本布教責任者であったパードレ・コスメ・デ・トルレスは平戸領主松浦隆信への不信感を強め、ポルトガル人に対して今後は平戸に入港しないように強く要請した。この後、ポルトガル貿易は大村領横瀬浦に移ることになった。
 イエズス会日本布教責任者トルレスの命により、ルイス・デ・アルメイダは大村領主の大村純忠と横瀬浦開港の交渉を行なった。大村純忠は永禄4年(1561)の冬、豊後にいたトルレスに手紙を出し布教を認めることを条件に横瀬浦開港を要請した。純忠の手紙の内容は、一人のイルマン(修道士)の派遣を求め、領内での布教を許し数カ所に教会を建てる事を認めるものだった。更に重要な事は、イエズス会の経営を支えるために横瀬浦の周囲3里の地をそこに住む農民と共に与える。また、横瀬浦にはパードレの意に反しては異教徒の居住を許さず、10年間は貿易のための税は一切取らないというイエズス会にとって大変有利なものだった。横瀬浦は永禄5年夏に開港し立派な教会が建った。
 永禄6年
(1563)、大村純忠は25人の重臣とともに横瀬浦のトルレスを訪ねて洗礼を受けた。大名自身の受洗は始めてでありその衝撃は大きかった。大村純忠は有馬晴純の次男であり、晴純の強要により大村家へ養子として送り込まれていた。しかし、大村家には純忠が養子に入る3年前に大村貴明という嫡男が生まれており、天文14年(1545)に、11歳の貴明は武雄の後藤家に養子に出されていた。
 大村純忠の受洗は、純忠が大村家に養子として入ったことに不満を持つ大村家の家臣に決断を迫るものであった。永禄6年7月25日、有馬家は竜造寺隆信との戦に大敗北を喫し、大村純忠は大村城に逃げ帰った。後藤貴明は大村家の家臣と連絡を取り大村城を攻撃したが、純忠は間一髪山中に逃れた。
 この混乱に乗じたのが堺から南蛮の貨物を買い付けに来ていた商人達で、横瀬浦の町に放火して貨物を略奪したために町は灰燼に帰した。
 永禄7年(1564)、2隻のポルトガル船が横瀬浦に入港すると、そこはもはや無人の土地になっていたので平戸に向けて進み平戸港の入り口近くで停船した。ポルトガル船の司令官は領主の松浦隆信に対し、神父たちの平戸立ち入りを認め教会を建てる事を許可するように強く求めた。どうしてもポルトガル船に入港してもらいたかった松浦隆信はやむなく承認した。隆信はポルトガル貿易で大きな富を得る一方、イエズス会は平戸に教会を建設した。
 しかし、永禄8年(1565)、ポルトガル船は再び横瀬浦に来航し、平戸駐在の司祭コスタ(前年平戸に来航した神父)の使いがやってきて福田に入港するように指示した。
 ポルトガル船が平戸に入港しないことを知った松浦隆信は激怒して武装船団を福田港に派遣し、ポルトガル船を襲撃させたが撃退されて平戸に退却した。ここに平戸とポルトガルは完全に断絶した。元亀2年(1571)に長崎が開港されるまで福田港は大いに賑わった。
 福田開港2年後の永禄10年(1567)、イエズス会の日本布教の責任者であるパードレ・トルレスの命により、ルイス・デ・アルメイダは長崎を訪れた。アルメイダはポルトガルの貴族で外科医であったが莫大な財産をイエズス会に寄進して自らも修道士になり、永禄12年(1589)まで長崎に滞在して布教や診療を行いその後、豊後府内に移り全財産を投じて日本最初の医学校を建設する傍らなお長崎地方の布教と診療を続けた。
 アルメイダの後任として長崎にやって来た神父ガスパル・ブィレラは、トードス・オス・サントス会堂を建立してキリスト教と共に当時の西洋医学、いわゆる南蛮医学を伝えた。当時、長崎は長崎甚左衛門純景の支配地であり、甚左衛門は祖父が有馬氏の出で有馬氏に従属していたが、甚左衛門の時に大村氏の家臣になった。長崎甚左衛門は大村純忠等と共に横瀬浦で受洗したようで、大村純忠は長崎の地を重視して側室に生ませた娘を甚左衛門に嫁がせている。
 大村純忠は岬の先端を直轄地とした上で、さらにイエズス会の支配を認める土地とした。岬の先端には島原町・大村町・平戸町・横瀬浦町・文知町・外浦町と出身地を示すような地名が付けられ、迫害されたキリシタンが移り住んできた。その後、天正8年(1580)から同15年(1587)まで、イエズス会により知行された長崎は、教会による南蛮医学が栄えることとなった。キリシタン救療施設たる教会の外郭団体の慈悲屋組合(ミゼリコルディア)が本博多町に建設され、当番制で会計・病院事務・収容看護が行われた。院長は日本人のジュストであった。慈悲屋は組合員の寄付で男女の養老院、療病院と貧民救済院等を経営した。
 天正15年(1587)、島津義久を降して九州征伐を成し遂げた豊臣秀吉は、長崎の地がイエズス会により所有されているのを知って激怒、長崎の没収を含むバテレン追放令を発した。
 慶長元年(1596)10月19日、フェリペ号事件
(注)が発生し、豊臣秀吉は「国中の宣教師を捕らえて死刑にせよ。」と命じる。慶長元年12月19日(西暦1597年2月5日)6名のフランシスコ会士と日本人信徒17名、イエズス会の日本人修道士3名合計26名を長崎市外の丘で処刑した。世界でも類のない日本での大殉教の始まりであった。

(注)
マニラ発太平洋を東航中のガレオン船サン・フェリペ号が暴風雨により船体を破損し、修理のため土佐の浦戸に向い港内に入る際に座礁した。船の修繕許可と船員などの身柄の保全を求める使者を秀吉の元に差し向けたが、待機していた同船の舵手が当局を威嚇するために世界地図を見せてスペイン王の勢威に言及し、新しく土地を征服するには始め宣教師を送って人々を改宗させ、その後に軍を送りこむなどと日本も征服するが如き暴言を吐いた。これを知った秀吉は激怒し、サン・フェリペ号の臨検により発見した銃砲、火薬、財宝等の船荷を没収、乗客と乗組員のマニラ帰還を命じた。



26聖人殉教の地(長崎市西坂)
 関が原の戦いで天下を手中にした徳川家康は、当初はキリスト教に比較的寛容であったが、次第に禁教へと傾斜していった。禁教令が出された慶長19年(1614)1月、全国の宣教師や修道士に対して、外国人や日本人を問わず、すべて長崎に行き国外に退去せよとの命令が出された。
 長崎にあったキリシタンの諸会堂は豊後のサンチャゴ病院などと共に破却されたが、慈悲屋(ミゼリコルディア)は難を免れた。しかし、元和6年(1620)、慈悲屋は破却され長崎の南蛮医学系の救療施設はすべて姿を消した。

 元和2年(1616)、2代将軍徳川秀忠は、まだ多くの宣教師が国内に潜伏している事を知り、厳しく取り締まるように命じた。元和6年(1620)、平山常陳というキリシタンの朱印船がイギリス船に捕獲されたことがきっかけになり、秀忠は日本にいる宣教師とそれを支えるキリシタンを、家族を含めてすべて死刑にするように命じた。
 イエズス会宣教師のクリストファン・フェレイラは、慶長5年(1600)、19人の修道者と共に日本に渡ってきた。このときフェレイラは21歳であったという。彼の活動の場所は主に近畿地方であったが、取り締りの厳しい中を丹波・攝津・四国などで成果を上げていた。
 元和6年(1620)の夏には平戸に潜行し、長崎を中心にひそかに布教活動をしていたと思われるが、訴えにより捕縛された。イエズス会の管区長であったフェレイラ神父と小倉で捕らえられたジュリアノ・中浦神父,アダミ神父、大阪で捕らえられたソーザ神父とドミニコ会のエスピリット・サント神父、イエズス会のペトロ修士、マテオ修士、ドミニコ会のフランシスコ修道士が、寛永10年(1632)の秋に、長崎西坂の刑場で揃って穴の中に吊るされた。ジュリアノ・中浦神父は吊るされてから二日後に殉教したが、吊るされる前に「私はローマに行ったジュリアノ神父である。」と誇らしげに叫んだという。最後に息を引き取ったのはエスピリット・サント神父で、吊るされて9日後のことだった。
 フェレイラ神父は、吊るされた5時間後に棄教を申し出て穴の中から出された。フェレイラは奉行の指示に従い日本人妻を娶って沢野忠庵と名乗り、キリシタン目明しとしてキリシタンの取り締りに協力、忠次郎という息子と娘一人を設けた。娘は、後に門人杉本忠恵の妻になる。
 沢野忠庵ことフェレイラは天文学に通じ、南蛮天文学書を表した。また医学にも造詣が深く外科を教え、慶安3年(1650)に没したが、その門人として、杉本忠恵、半田順庵、西玄甫等が知られる。忠庵の女婿杉本忠恵は、寛文6年12月1日、将軍家綱に拝謁し、寛文10年12月25日、幕府の医官となったが元禄2年10月6日没した。杉本忠恵の子孫は代々医療を業として名を為した。
 寛永15年(1637)、「島原の乱」が起こり一揆勢は当時廃城になっていた南有馬の原城に立て籠もった。幕府軍総大将の老中松平伊豆守は二十万の大軍をもって原城を包囲し、さらにオランダ商館長に船から原城を大砲で砲撃するように要請した。この時、オランダ商館長は長崎代官の末次平蔵から、積極的に協力すれば今後のオランダ貿易に役に立つと言い含められていた。オランダ船レイプ号は、15日間で425発の砲撃を行った。当時のオランダは平戸に商館を置いて貿易を行っていた。
 寛永16年7月5日(1639年8月4日)、幕府は、ポルトガル人の入国を禁じオランダ人と中国人以外の外国人との通商が禁止された。これより先、寛永11年(1634)から築かれていた長崎の出島が完成しており、そこに居たポルトガル人等が追放されたままであったので、その跡に寛永18年(1641)5月、幕府の命によりオランダ商館が、平戸から移転した。
 慶安2年(1649)、オランダ商館医としてカスパル・スハンベルヘンが渡来し、日本人青年4人が官許を得て、彼に紅毛医術の教授を受けた。
 オランダ商館は、初めは貿易業をつかさどる者だけが居住していたが、間もなく商館員の医療に携わる医官が来朝した。以来、オランダ東インド会社職員の医官1名が相交代して出島に来て、主としてオランダ通詞に医学を伝授し、オランダ医学がわが国に興隆することとなり南蛮医学を凌駕するに至った。
この医官がわが国の医学の発達の上に、極めて重要な役割を演じた人々であり、その数は幕末までに150人を数えている。

ポンぺ
 徳川幕府が最初に雇った外国人は、安政4年(1857)8月に長崎に来たオランダ貴族で海軍医官のポンぺ・ファン・メーデルフォールト(1829-1908)だった。ポンペに師事するために長崎に来て西洋医学を学んだのが、佐倉順天堂佐藤泰然の次男で、幕府医官松本良甫の養子になった松本良順である。
 ポンペは長崎奉行の岡部駿河守に実習の場としての病院設立を働きかけ、長崎奉行は幕府の了解を得るためにポンぺに建白書を作らせた。この建白書の中には近代病院の立地条件などが述べられている。おりから、翌安政5年(1858)になるとコレラが大流行し、コレラの治療のためにも病院の必要性は高まっていた。文久元年(1861)、長崎奉行によって、小島に洋式の病院が建てられ、西洋医学伝習所である養生所(長崎大学医学部のルーツ)が設立され、ポンペはこの養生所の教師となりカリキュラムに基づいて西洋医学を教えた。
この養生所で学んだ人の中に、伊東方成(玄伯)、佐倉順天堂佐藤泰然の養嗣子であった佐藤尚中、司馬凌海、関寛斎、大坂の適塾からは緒方洪庵の次男緒方惟準、八木称平、太田雄寧、佐々木東洋などがいた。ポンペが講義した内容は、重学(物理学)、化学、解剖科、繃帯則、原生学(生理学)、原病学(病理学)、内科則、薬性論、外科誌、外科手術などだった。

ボードウィン
 ボードウィンはユトレヒト陸軍軍医学校では教官としてポンペを教えている。出島に在住していた弟のオランダ貿易会社駐日筆頭代理人アルベルト ボードウィンの薦めにより、ポンペの後任として文久2年(1862)に養生所教頭となった。生理学教科書をドンデルスとともに著して、外科手術学の教科書や検眼鏡の使用法を蘭訳本にしていて医学全般を教授できた。
 長崎養生所は、慶応元年(1865)に精得館と名称を改めたが、ボードウィンは物理学、化学等の基礎科学を充実させる為に養生所(後に精得館と改名)に分析窮理所を建設し、オランダからハラタマを専任教師として呼んだ。この分析窮理所はボードインの意見によってやがて学生ともども江戸に移り、開成所内に理化学校を作ることになっていたが、幕府が崩壊して舞台は大阪に移った。
 慶応2年(1866)長崎精得館教師はボードインからマンスフェルトに引き継がれ、ボードウィンは1866年11月、一旦離任帰国する時に、緒方惟準と松本_太郎(良順の子息)を同伴し、ユトレヒト大学に入学させた後に、1867年2月再度来日した。
 1868年に発足した明治新政府はボードウインとハラタマを大阪に招聘して医学校と理学校の建設を計画、同年ハラタマは大阪舎密局の建設に着手、ハラタマが診療していた大福寺の仮病院にボードウィンが遅れて1869年3月に着任した。
 1869年4月、オランダから帰朝した緒方惟準を院長として正式に大阪府仮病院(大阪大学医学部の前身)が発足、医学校教頭ボードウィンの講義が始まった。大阪医学校の日課は、午前6時〜8時が緒方惟準の講釈、8時〜10時がボードウィンの講釈、10時〜12時が入院患者診察、12時〜外来患者診察、夜6時〜8時が再び緒方惟準の講義となっており、日曜日は休業していた。
 ボードウィンは、大阪医学校で泌尿生殖器および性病について講義した。これらの病気が日本人の間に蔓延していたのを見て必要性を痛感していたためであると言われている。その後、明治3年(1870)2月に、大阪城内に作られた大阪軍事病院の設立を指導し、同年6月の任期満了となるまで診療と軍医教育に関わった。
 明治政府は国策としてドイツ医学教育のためにドイツから医者を招聘していたが、普仏戦争のために到着できない状況の中、ボードウィンは明治政府の強い要請を受け、大学東校(東京大学医学部のルーツ)で、神経生理学と消化生理学を2ヶ月間講義し、明治3年(1870)10月、母国へ帰った。ボードウィンの長崎、大阪と東京での講義録は日本全国に流布されその令名は鳴り響いた。

ハラタマ (在日期間1866-1871) 
 ユトレヒト陸軍軍医学校の卒業生であり、ユトレヒト大学で自然科学を学びながら母校で理化学教師をしていた。1866年4月ボードウィンに招かれて精得館分析窮理所の教師として来任、精得館の自然科学教育と病院の調剤を担当した。
 明治元年(1868)、政府はボードウィンとハラタマを大阪に招聘して医学校と理学校を建設しようとした。同年ハラタマは大阪舎密局の建設に着手した。ハラタマが診療していた大福寺の大阪仮病院にボードウィンが遅れて着任。同年6月、舎密局が開校しハラタマはその教頭となった。近代日本化学の父ともいうべき人である。

マンスフェルト(1832-1912)
 艦上勤務の海軍の軍医として東洋にやってきたが健康を害して船を下り、上海で開業していた。ポンペが任期を終えて帰国する際に、後任としてマンスフェルトを推挙したが、この時は実現せず、慶応2年(1866)になって、ボードウィンの後任者として長崎精得館の教頭となった。
 明治元年(1868)、長崎医学校校長長与専斎のもとで教頭となり長崎医学校の整備に尽力した。以降、明治3年(1870)12月まで通算5年間勤務した。
 その後、吉雄圭斎(1822-1894)の斡旋により熊本藩の治療所兼医学校(後に熊本大学医学部)に招かれるが、その時の教え子に
北里柴三郎緒方正規等がいた。
 マンスフェルトは、明治7年(1874)7月に任期が満ちて帰国したが、明治9年(1876)3月に再度来日し、京都療病院(後の京都府立医科大学)教師となり、さらに翌明治10年(1877)8月には、エルメレンスの後任として大阪府病院に転じた。明治12年(1879)3月に任期満了により帰国。帰国後ハーグ(オランダ)の種痘局長を務めたが、大正元年(1912)10月17日に81歳で没した。



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