森村市左衛門



森村市左衛門
 6代目森村市左衛門(1839〜1919)、幼少の名を市太郎といい、明治27年、父5代目の七回忌を機に市左衛門を襲名した。江戸京橋の馬具、袋物商の家に長男として生まれたが、安政2年の安政大地震で火災に遭い森村家は灰と化した。
 市太郎は銀座の露天で煙草入れを売ったり人夫として働き、一家を支え店を再建した。安政6年の横浜開港後、横浜でラシャや時計などを仕入れ江戸で売った。中津藩の屋敷に出入りして5歳年長の福沢諭吉と知り合い、福沢の人間性、博識、西洋流の合理的な考え方に深く傾倒し、以来一生の友となり助け合う。
 文久年間に土佐藩士の板垣退助の勧めで、各藩に騎兵用の鞍や、軍服、武器などを売り、富をなす。明治に入ると製塩業、養蚕、銅山、漁業にも手を広げたが失敗した。本業の馬具が山縣有朋らに評価され、陸軍に納品したが、賄賂を要求され方針を転換し外国貿易に眼を向けた。
明治9年、慶応義塾大学に学んだ異母兄弟の弟、豊と森村組を設立し、豊はニューヨークに渡り貿易商を営む。
 明治37年、日本陶器合名会社(現ノリタケカンパニーリミテッド)を設立し、森村銀行(後に三菱銀行と合併)、東洋陶器、日本碍子、大倉陶園、イナックスなど森村グループの基礎を成す。
  実業界で活躍する傍ら、日本女子大学、慶応義塾大学、早稲田大学、東京工業大学など多くの教育機関に資金援助した。明治25年には、福沢諭吉が伝染病研究所の土地、建物を寄付したことを知り、全く面識の無かった北里柴三郎に研究機材の購入資金を提供した。
 明治32年長男の明六、弟の豊を相次いで亡くし、悲しみの極みにあった森村は、二人の名前をとって「豊明会」を設立し、教育・社会に奉仕することに尽力した。明治43年(1910)には芝高輪の私邸に森村学園を創立し、女子教育の先駆者として人づくりに力を注いだ。大正4年、男爵を授かる。早稲田大学に対する度々の多額の寄付により、大正5年(1916)早稲田大学の応用科学実験室「豊明館」が建てられた。平成9年(1997)竣工した大久保キャンパスのハイテク・リサーチセンター棟に「森村記念会議室」を設け、肖像画を掲げ森村の功績を顕彰している。大隈重信は森村市左衛門のことを、「森村氏とは40年来の友人であるが、実に立派な紳士である。極めて平民的な人で、身を奉ずること厚く、品行方正、人格高尚、待合遊びなどは大嫌いである。当今の実業家には珍しい立派な人である。」と評した。
 また早稲田大学創立35周年式典の際、「ここに忘る可からざる人は澁澤男爵の友人で、この学校に応用科学の実験棟を拵えて下さったところの森村男爵である。これは私より一つ年下、私は一つ兄だ。これが又人格の優れた人である。諸君は勉強して鍛え上げると澁澤君、森村君以上の人間になる。澁澤さんも森村さんも教育に力を尽くされるのは、自分以上の人間をつくることを望んで居るのである。」と演説し学苑の終身維持人に推薦しその功に報いた。
戻 る