宮本常一   
   谷川健一  

 「児童百科事典」が終わったあと、私は自分の民俗学への関心を編集の仕事に生かしたいとおもった。
 私が企画したのは、民俗学を中心とした地方誌であり、風土記の近代版を目指したものであった。それをはじめるにあたって、私は知り合いの鎌田久子に相談した。鎌田は柳田の側近の大藤時彦を推薦し、大藤は、宮本常一を推薦した。こうして三人を編集委員に「風土記日本」(全七巻)の仕事がはじまった。
 編集会議は本郷にある「のせ」という京風の旅館をもっぱら使ったが、宮本常一が和服の布地を黒く染め、それで仕立てた洋服を着、布製の靴を履いて、炭焼小五郎のような風体で現れたとき、その異様さに、はじめはどう対応してよいか分からず、とまどった。
 炭焼きをしている汚い男が、黄金の小判を見せられて、こんなものなら自分の家のかまどのあたりにころがっているとうそぶく。そのように宮本の中におどろくべき宝物が無雑作に貯えられているのは、最初の編集会議から分かり、これは大変な掘り出しものだと思った。
 会議は朝十時ごろから夜までぶっ通しにやったが、宮本はその間ぢゅう一人でしゃべっていた。ふつう学者の知識といえば、標本室の陳列品のような、どことなくカビ臭い匂いがするが、宮本の豊富な旅の体験に裏付けられた知識は、たった今海底から刈りとってきて、潮水に濡れた海藻のように生き生きしていた。私は全身が吸い取り紙のようになって耳を傾けた。
「ある農家に泊めて貰おうと思って声をかけたら、そこの主が家に入って下さいというのですね。ところが農家の玄関先には馬がいる。そこで私は四つん這いになって、馬の脚の間をくぐって、家に入った」というような話を、次から次にするのだから、面白くないはずはない。
 宮本と一緒に仕事をするようになって間もなく、私は見舞いに行ったことがある。
 宮本はその頃胃痛になやまされ、時折寝込んだ。彼は広大な渋沢敬三邸の一角に建てられた長屋に玄関番のような格好で住み込んでいた。三畳敷ほどのせまい部屋には、壁ぎわに天井まで届くような本棚が置いてあり、その脇に彼はせんべい布団にくるまって寝ていた。布団の皮は五月の節句のとき立てる鯉のぼりの布地をぬいあわせたものだった。私はそれを見たとき、胸に迫るものがあり、今度の企画はきっと成功すると思った。
 そのあと、新宿駅の地下道を歩いているとき、彼とぱったり出会ったことがある。
 宮本は出会い頭に
「谷川さん。私はあなたに発見された」
と言った。私はそのときの宮本の言葉が嬉しかったので今も忘れないでいる。年間二百日以上を旅にすごし、泊まった民家は八百軒という大旅行作家宮本も、当時は世間的にはほとんど無名であ
ったのだ。
 私は柳田国男のみちびきで民俗学の道に進んだが、民俗学に一生取り組んで後悔しないという確信を得たのは、宮本常一から学んだ庶民像によってである。そのことを宮本に感謝しすぎることはない。宮本の家は周防大島の庶民の出であったから、宮本は幼少のころから庶民の間ですごし、実情を知り尽くした真実の庶民像が生まれた。(民俗学者)


  (日本経済新聞 私の履歴書⑭ 20086   



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