北 里 柴 三 郎


 北里柴三郎は嘉永5年12月20日(1853年1月29日)、肥後の国阿蘇郡小国郷北里村に生まれた。兄二人は疫病により早世。柴三郎の生まれた北里惟信家は、加藤、細川に仕えた上田北里宗家から分かれた北里惟経を祖とする北里伝兵衛家の4代目北里傳兵衛惟延の弟、惟度(これのり)が明和元年(1764)に分家して坂下屋敷と称したのに始まり北里村総庄屋を勤めた。
 万延元年(1860)、柴三郎は小国郷志賀瀬村の橋本龍雲の許で四書五経の素読を受け、文久3年(1863)、豊後森の久留島藩士 加藤海助家(母の実家)に預けられ久留島藩儒・園田保の私塾で学んだ。慶応2年(1866)冬には熊本に出て儒者田中司馬に入門したほか、熊本藩儒・栃原助之進の塾で漢学を学び、同時に武芸にも励んだ。村一番の暴れん坊であった柴三郎は、軍人か政治家を志望したが、両親は柴三郎が医学に進むことを強く望んだ。
明治4年(1871)、熊本城下の古城医学所(後の熊本医学校、現在の熊本大学医学部)で、
緒方正規浜田玄達らと共にオランダ人教師マンスフェルトに師事した。熊本医学校時代の柴三郎は、初めは医学に関心が無く語学に才能を発揮し、マンスフェルトの授業の通訳を任された。マンスフェルトは北里の非凡さを見抜き、医学も男子一生の仕事足ることを説き東京で勉強を続け、さらにはヨーロッパで学ぶことを薦めた。マンスフェルトが4年の任期を終え明治7年7月に熊本を去ると、柴三郎は助言に従い東京へ旅立った。
 明治8年11月、東京医学校に入学。医学校在学中の柴三郎は牛乳会社で働き自活、さらに熊本から弟の裟袈男を呼び寄せ学資の面倒も見た(裟袈男は東大法学部卒)。


北里柴三郎
 明治10年(1877)東京医学校は東京開成学校と合併して東京大学となり、医学校はその中の医学部となった。医学部総理には池田謙斎が着任、副総理に長与専斎が就任した。長与専斎は肥前大村藩に代々漢方医として仕えた家に生まれた。専斎の父中庵は大村藩の侍医で、漢方を当時江戸幕医の最高権力者多紀元堅楽春法印に学んでいる。この楽春法印はシーボルトの高弟伊藤玄朴が幕府御典医になるまで幕医として権勢を誇り漢方医の地位を死守しようとした人物である。中庵は、多紀元堅が「傷寒論述義」を著したとき協力している。その後蘭学に転向し、コンスブリュクの「病学通論」を訳述している。祖父の俊達は、若いときから医術の才に恵まれ30才前後で大村藩中はおろか近郷近在までその名は聞こえ、門前には診察を乞う人々が溢れる程の名医であったが、40才になって、当時国禁の蘭学を志している。モーニッケ(Otto Monike)の牛痘苗を大村藩に広める事に成功、この時の最初の実験台が長与専斎であった。その後父中庵が早逝したため、専斎は9才の時に祖父俊達の養子となり長与家の嫡子となった。
 専斎は3才の時から、大村藩五教館で漢学の修業を始め、16歳で
緒方洪庵の適塾に入門し5年近くを適塾で過ごして、1858年、塾頭の福沢諭吉が江戸に出た後に塾頭になっている。1年間塾頭を務めた後、洪庵の勧めにより長崎養生所でポンペからオランダ医学と科学的思考法を学んだ。その後、一旦大村に帰ったが再度、長崎でポンペの後任のボードウイン、マンスフェルトに師事している。慶応4年(1868)長与専斎は長崎養生所が改名した精得館の学頭になった。5月には選挙により頭取に就任、10月に精得館が長崎医学校になると校長に選ばれている。マンスフェルトと長与専斎は長崎医学校の整備に大きく貢献し、日本の医学教育制度の確立に多大の貢献をした。
 明治4年(1871)7月に文部省が設置され長与専斎は東京に転勤、その後の衛生行政政策の立案に貴重な体験となる岩倉具視らの欧米使節団に参加し、帰国後の明治6年3月に文部省医務局長に就任、明治8年6月に医務局が内務省に移されると同時に医務局を衛生局と改名しその初代衛生局長に就任。北里柴三郎の在学時には東京医学校校長を兼任した。長与専斎と池田謙斎は、緒方洪庵に師事し共に長崎で学んだ間柄である。
 明治16年(1883)、東大を卒業した柴三郎は、牛乳会社の社長の兄で大蔵官僚(後に日銀総裁、男爵)の松尾臣善の次女トラを娶り、内務省衛生局に奉職する。明治18年(1885)12月5日、ドイツへ留学。明治19年1月よりベルリン大学のロベルト・コッホの研究室に入り、細菌学の研究を本格的に始め、明治22年(1889)、破傷風菌の純粋培養に成功。次いで翌23年には破傷風免疫体(抗毒素)及びその治療方法(血清療法)を発見するなど前人未踏の研究成果をあげ、一躍世界の医学会に注目されるようになった。
おりしもこの頃、難治性感染症結核のツベルクリン療法を発見したコッホ自ら日本政府に北里の留学期間延長を請願。長与専斎、山田顕義らの助力により宮内省から滞在資金壱千円下賜と留学期間1年延長を許された。明治24年(1891)にツベルクリン研究終了後、英国ロンドンで第4回万国衛生会議に出席し、世界一流の医学者らと知遇を得ると共に、帰国の途にあたって官命による英仏伊米各国の衛生事情の視察を行った。このとき各国の著名な研究所や大学からの招聘が絶えなかったがすべて丁重に断っている。この年、文部省より医学博士の学位を、更に25年5月1日、ドイツ政府から「プロフェッソル(大博士)」の称号を受けた。ドイツ人以外では初めての栄誉という。5月28日に帰国したが凱旋も無く、11月18日付きの辞令でようやく内務省衛生局への復帰が認められるなど、海外での熱烈かつ破格な厚遇とは一転して冷遇続きであった。それは脚気菌論争において、東大の恩師 緒方正規の学説を否定する論文をドイツ留学中に発表、東大の重鎮青山胤道
(安政6年、東京生まれ。北里の卒業の前年の明治15年に東大医学部を卒業、29歳で教授に、後に医科大学長。帝大の青山か、青山の帝大かと言われた。)と犬猿の仲だった為、或いはツベルクリン研究の際、東大の医師派遣が拒絶されて面目を失い、ツベルクリン研究に参加できた北里柴三郎を恨んだためとするなど諸説あるが東大と軋轢が生じていたと云われている。
 これに屈せず帰国直後より関係者の支援を得て精力的に研究を進め、日本橋衛生協会主催大演説会での脚気論争では緒方正規の細菌感染説を採る森鴎外(林太郎)に対して、栄養素の不足
(白米飯を食すると発症し、麦飯またはパンを食すると脚気が無くなる。)を原因とする医学博士高木兼寛の説を支持した。さらに、大阪私立衛生会では赤痢研究をめぐって、緒方正規本人と再び対立した。
しかし、研究上の対立とは別に、私生活では緒方正規と北里柴三郎の交流は終生続き、緒方の葬儀では北里が弔辞を奉読した。緒方正規は、肥後のドンネル(かみなり)といわれた柴三郎とは正反対の温厚な人であった
(緒方正規は死去数時間前に北里柴三郎を枕頭に招き、息子たちをよろしく頼むと依頼して握手した)
 北里柴三郎は、国による伝染病研究所設置の必要性を説くも思うように進まなかった。柴三郎の終生の後援者となっていた長与専斎は適塾以来の友人である慶応義塾の福沢諭吉に相談すると、諭吉は即座に芝公園内の私有地を提供するとともに私財を投じ、さらに友人の森村市左衛門へも助力を要請した。北里とは面識の無かった森村は無償で1千円の大金を提供、そのほか有志の援助により、芝公園(東京都港区)内に伝染病研究所を設立、柴三郎は所長に就任(27年2月に芝区愛宕町2丁目に移転。32年国立に認定)、次いで明治26年9月、福沢諭吉の助言と援助により結核サナトリウム(専門病院)「土筆ヶ丘養生園」を開設して伝染病撲滅をめざした。
 明治27年(1894)6月には、政府の要請によりペストの流行する香港に調査団として派遣された。これは北里ら伝研組と青山胤道ら東大組との合同であったが、北里はいち早くペスト病原菌を発見(8月13日号ランセット誌上にペスト菌発見を報告)するという前人未踏の快挙を成し遂げて世界の医学会から賞賛を浴びた。このとき、青山胤道と北里柴三郎の助手の石神亨がペストに感染、イギリスの病院船に収容されて奇跡的に快復した。
 明治34年(1901)、第1回ノーベル賞医学生理学部門の最終候補となるも、ドイツのベーリングが受賞。ただし、受賞対象であった「ジフテリア治療血清における業績」は北里の血清療法をそのまま利用したものであり、ベーリング本人も「北里の先駆的研究のお陰」と認めている。この年、青山胤道が日本医学会の頂点たる東大医学部長に就任した。
 明治39年(1906)、伝染病研究所を白金台町(現東京大学医学研究所所在地)に移転。この年、日本連合医学会会頭に就任。以後大正2年(1913)、日本結核予防協会を創立し副会頭となる。
 大正3年(1914)11月5日、内務省所管であった伝染病研究所が文部省・東大医学部に移管(原因は政界の大隈重信の主治医を兼ねていた青山が彼に直接働きかけた為と云われている)。柴三郎は即日、伝染病研究所長を辞任した。このとき、北島多一以下研究員全員がこぞって文部省へ辞表を提出し、無人となった研究所施設のみを引き渡す格好となった(伝研騒動)。
伝研辞任後、北里は直ちに私立北里研究所を設立して所長に就任。一方、伝研所長を兼任(4年1月)する事となった青山はのちに、北里は良い弟子を持ったと述懐したという。
 大正5年(1916)8月、故郷小国町に北里文庫を落成。大日本医師会会長就任。翌6年4月1日、慶應義塾大学医学科を創立し初代科長に就任し福沢諭吉の恩義に報い、貴族院議員となった後も社団法人北里研究所所長(7年10月)、大日本私立衛生会会長(同11月)、日本医師会初代会長(昭和3年11月)等を歴任した。
昭和6年(1931)6月13日午後5時、脳溢血症により麻布の自邸で逝去 享年79歳



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