第一次世界大戦はなぜ起きたのか |
第一次世界大戦についての講義の依頼をいただいたのは、2017年に、イギリスの歴史家クリストファー・クラークの『夢遊病者たち—第一次世界大戦はいかにして始まったか』という本を翻訳したことが理由の一つかと思います。原著は2012年に発表され、国際的な論争を呼びました。ドイツだけでも、半年間で20万部の売れ行きを示しています。第一次世界大戦は1914年から1918年まで続き、その100周年に当たる時期は世界各地で関連書の出版が続きましたが、『夢遊病者たち』はそうした第一次世界大戦ブームの火付け役となりました。 2014年の秋に出版社から訳出を勧められた時は、かなり大きな本ですから、お引き受けすべきかどうか少し迷いました。それでも訳業を決意した理由は二つあります。一つには、この本の海外での評価を聞いていましたので、邦訳が出れば、日本でも議論が広がるきっかけになると思ったからです。もう一つはしかし、いわば危機意識のようなものを感じていたからで、私が翻訳を依頼された時点で、『夢遊病者たち』はすでに13の言語に訳されており、日本が世界の議論から取り残されているのではないかと懸念したためです。後述するように、人類史上初のグローバルな戦争であった第一次世界大戦は、近代日本の歩みにも少なからぬ影響を及ぼしました。また、あのような大戦争が三度も繰り返されぬようにするには、世界中が過去の過ちについて深く考え、互いの意見を交わしあう必要がありますが、当然ながら、日本もその輪のなかに参加すべきです。 訳出を終えた後、しばらくは肩の荷が下りたような気分でいましたが、今は何か引っかかるものを感じています。それは第一次世界大戦の終戦100周年にあたる2018年ごろまで、日本でも多くの論文が出たり翻訳が出たりという状況だったのですが、どうもここ数年は研究状況が不活発になってしまったのではないか、大戦の歴史的検証が一過性のもので終わってしまったのではないかと思うからです。 日本では第一次世界大戦に対する関心が少し弱くなってしまった印象があるのですが、欧米は事情が違います。そう申しますのも、例えば、敗戦国となったドイツが第一次世界大戦の賠償金支払いを完了させたのは、2010年10月3日です。つまり、欧米では第一次世界大戦は一時の流行で済ませられない、アクチュアルな問題であり続けており、また一銭にもならない感情論で片づけられない問題として扱われているからです。 しかし他方で、第一次世界大戦は100年を経てなお、ナショナルなプライドに係る問題でもあり、人々の感情に強く訴えかける力を持ち続けてもいます。この戦争はセルビアの青年によるハプスブルク帝国の皇位継承者夫妻の暗殺から始まりますが、そのセルビアでは、クラークの『夢遊病者たち』が出版されると、自国がまるでテロ国家のように描かれていて不公平だということで、不買運動が起こりました。更には官民一体となって、『夢遊病者たち』に対する反駁の書も出版されています。 2014年6月末にEUが大戦100周年の式典を開いた際には、セルビアはこれをボイコットし、EUの式典にぶつけるようなかたちで独自のイベントを開催しています。この時にセルビアは、歴史的な街並みを再現したアンドリッチグラードと呼ばれる疑似的な都市、いわばテーマパークのようなものを急ごしらえして、暗殺事件が起きた6月28日に街開きを行い、市民が祝うということをやりました。こうしたセルビアの動きに示されているのは、ヨーロッパ世界から孤立してでも主張せざるを得ないアイデンティティーであり、このアイデンティティーの中核にあるのは、未だに100年前の大戦の記憶だと言えます。 そもそも、セルビアに留まらず欧米においては、自分たちが生きている「現代」がどこから始まるかといった場合に、1914年とか1918年を起点に考えるのが普通です。日本では、現代の始まりを1914年よりも1945年と見なすのが一般的で、これは自国の歴史的経験に基づいた歴史認識です。しかし、現代史を、日本という枠組みを超えて国際的な視点で考え、国際的な場で議論する場合には、第一次世界大戦の重要性を軽視することは決してできません。 そうしたことを踏まえて、本日は、第一次世界大戦がいかにして起きたのか、第一次世界大戦が世界をいかに変えたのかについて、新しい研究の成果に目配りしつつ、お話しさせていただきます。 東のロシアが有する広大な領土は、世界の陸地の15%くらいです。この国はそれほど広大な領土を持ちながら、まだ欲しいものがある。つまり、年間を通じて自由に使うことができ、外界と自由に行き来できる不凍港を確保したくて、21世紀の今なお拡大をやめません。 ヨーロッパの真ん中にはドイツ帝国が位置していますが、長らくたくさんの小国の寄り合い所帯だったドイツが統一されるのは1871年のことですが、その前後からドイツは急激に成長し、ヨーロッパの中央部で大きな勢力を成していました。 五番目の大国ハプスブルク帝国は東欧地域に広がり、様々な民族、様々な宗教集団を統治する、多様性に富む国家です。先ほど紹介したアンドリッチグラードのあるヴィシェグラードとか、世界大戦のきっかけとなったサライェヴォといった都市も、当時はハプスブルク帝国の支配下でした。第一次世界大戦の前に、この国は主だったものだけでも九つの言語、16の民族、五つの宗教から構成されており、支配層はドイツ語を話すドイツ系の人たちでした、しかし、彼らは国内人口の4分の1を占めるに過ぎませんでした。 通説では、20世紀初頭のヨーロッパでは、これらの国々がさらなる勢力拡大を目指してしのぎを削っており、この対立関係が大戦に繋がっていくのだというふうに説明されます。しかし、近年の研究は対立ばかりを強調するのを避け、国家間の競争の反面で、国際的な協調関係が成立していたことを重視する傾向を強めています。具体的に言えば、第一にヨーロッパ各国は時々喧嘩もするけれど、しかし大局的な観点からすると、植民地という利益を共有している、言い方を変えれば共犯関係にあり、なかなか決定的な対立に至らなかったということがあります。 第二に、王侯貴族同士の血縁関係の深さもよく指摘されます。1894年のヘッセン大公ルートヴィヒの結婚式の時の写真を見ますと、真ん中に座っている女性がイギリスのヴィクトリア女王、端の方で斜に構えて座っている人物がドイツ皇帝のヴィルヘルム二世、そのすぐ後ろがロシア皇帝となるニコライです。さらに後ろには後のイギリス国王エドワード、ルーマニアやベルギーの王族などの姿があり、他にも多くの有名人が同席しています。このような大家族のつながりが、国際紛争に対する抑止力になっただろうというわけです。 第三に、当時のヨーロッパでは経済協力が相当進んでいます。例えば、現在もヨーロッパ最大の工業地帯であるライン地域の場合、1913年の時点で、ドイツやベルギーの企業がフランスの鉄鉱石採掘の25%程度を担当し、逆にフランスやベルギー、ルクセンブルクの企業がドイツの鉄鋼業の20%を支配していました。更にそこにイギリスからも大量の資金が供給され、東欧からは大量の移民労働力が流れ込むことで、同地の産業は成り立っていました。その姿は、私たちが見慣れている現在のヨーロッパによく似ていると思います。つまり、こんにちのEUのように国境を越えてヒトやモノやカネが行き来する状況が既に大戦前に出来上がっており、各国は互いの存在無しには、自国も長期的に存続しえなかったと言えるでしょう。 ヨーロッパは半世紀に亘り大規模な戦争を起こさず、第一次世界大戦の開始まで平和と繁栄を維持していました。19世紀のヨーロッパの戦死者の数は、18世紀の七分の一程であったという試算がありますが、今から100年前のヨーロッパが世界大戦に至る道は必然だったのか、あらためて考える必要があります。 国際関係の変化 大戦前のヨーロッパ外交に話を移します。今しがた、半世紀に亘る平和と言いましたが、これは、1871年から数えて半世紀ということです。この1871年は、三度の戦争(デンマーク戦争、普墺戦争、独仏戦争)をつうじて、プロイセン主導のドイツ帝国が創設された年です。 なお、しばしば指摘されるように、ドイツ帝国の建国と同時期、1868年に日本では明治国家がスタートし、また少し前の1861年にはイタリアが国家統一を達成しています。この三国は第二次世界大戦で同盟国となりますが、それと対立した国、アメリカ合衆国もこの時期に南北戦争を経験して、こんにちに至る国のかたちを創りあげています。 ドイツに話を戻しますと、三度も戦争を行って帝国を創建したので、周辺国の恨みを買っています。ですから、ドイツ統一を成し遂げたビスマルクにとっては、出来上がったばかりの帝国を守るために、とくに復讐心が強いフランスを孤立させること、そしてヨーロッパの平和を維持してドイツが紛争に巻き込まれる危険を避けることが、外交の基本路線になりました。ビスマルクという人はこの後、1890年まで帝国宰相を務めて、ドイツにおいて独裁的な地位を築きましたが、この時期はドイツのみならず、ヨーロッパ全体がビスマルクの外交術を中心に動いていきます。 それでは、フランスの孤立とかヨーロッパの平和をどうやって実現するのか。ビスマルクが重視したのは、東方の二つの国、ロシアやハプスブルク帝国との協調でした。ヨーロッパの地図を頭に思い浮かべていただくと分かるように、現在であればこれら三つの国の国境地帯にはポーランドがあるのですが、19世紀のヨーロッパは、この三つの国がポーランドを寄ってたかって分割してしまい、いわばポーランドの犠牲の上にヨーロッパの東半分の秩序が築かれていた時代です。 この基本的な構図のうえに、ドイツ帝国創設から2年後の1873年、三帝同盟(ドイツ・ハプスブルク帝国・ロシア)が結成されます。しかし、ロシアとハプスブルク帝国はバルカン半島の権益をめぐって潜在的な対立要素を抱えており、三帝同盟はすぐに有名無実化してしまいます。その後の20年弱、1879年の独墺同盟、1881年の三帝協商(ドイツ・ハプスブルク帝国・ロシア)、1882年三国同盟(ドイツ・ハプスブルク帝国・イタリア)など、ビスマルクは次々と同盟関係を結んで、自国の地位をなんとか保とうとし続けました。 ビスマルクは、とくに外交については天才的な政治家だったといわれます。しかしそのビスマルクですら、当時のヨーロッパにおいて、一つの外交プランを長期的に持続することはできず、急場しのぎの政策を繰り返さなければなりませんでした。そのことが最もはっきり表れているのが、彼のキャリアの末期、1887年に結ばれた二つの条約です。この年の六月、ビスマルクは独露再保障条約を締結し、ロシアとの関係を一応は回復しました。しかしそれと前後して、ドイツの仲介でイギリス、イタリア、ハプスブルク帝国、スペインが地中海協定という秘密協定を結んでいます。名前のとおり、この協定は地中海に利害をもつ国々が互いの権益を保護し合うためのものですが、そういう条約が成立するには、共通の敵が必要です。この仮想敵国はどこかと言えば、それはロシアです。要するに、ドイツは一方では反ロシア的な協定を作りつつ、他方ではロシアに接近するということを同時に行ったわけです。これはどう考えても矛盾しており、こうした同盟関係が長く続くとは思えません。 1871年から90年頃までのヨーロッパは、確かにビスマルクの高度な外交術によって平和が保たれていましたが、彼がこしらえた国際関係はあまりに複雑で、また危うげでした。ビスマルクほどの外交家であれば何とか操作できるかもしれないが、後継者たちには上手く扱えないシステム、負の遺産となりかねないものが残されたと言えるでしょう。 1890年にビスマルクが退任した後、新たにドイツの政治を担ったのは、ヴィルヘルム二世という、若く野心的で、軽率な皇帝です。旧来の外交路線からの転換を掲げた彼は、ビスマルクの辞任から三カ月後に、独露再保障条約の更新をやめてしまいます。この新皇帝の世界観の根底には、前述の王族のファミリー・ポートレートのようなところがあったのかもしれません。自分とロシアのニコライ皇太子とは大きなロイヤルファミリーのメンバー、「ヴィリー」と「ニッキー」と呼び合う親密な間柄で、ちょっとしたことでは完全な仲違いにはならないだろうという判断です。しかしロシア側は危機感を抱き、ドイツに代る強力な同盟相手を探します。新たなパートナーになったのはフランスで、1894年、露仏同盟が締結されました。 ロシアと離れたヴィルヘルム二世は、その分だけイギリスに接近しようとしました。しかし、これをイギリス側がどう思ったか。第一次世界大戦の際の同盟関係を知っている後年からすると少し意外かもしれませんが、イギリスにとって一番怖い国はドイツではありませんでした。伝統的にイギリスが恐れ、注視している国はロシアです。ヨーロッパの地図においては英露は距離を隔てていますが、世界地図においてはこの二つの国は接している。つまり、イギリスは世界中に植民地があり、広大なロシア帝国とあちこちで対峙しています。イギリスにしてみれば、かつてのようにロシアとドイツが手を組んでいる状態は危惧すべきものでしたが、そのロシアとドイツの関係が切れた。だから、ヴィルヘルム二世が近寄ってきたからといって、これに応じる必要はないだろうということになります。さらには、ヴィルヘルム二世は海軍の増強に力を入れてイギリスに軍拡競争を仕掛けてしまいます。こうした状態が続くなか、イギリスは1904年に、それまで植民地をめぐる対立を抱えていたフランスと英仏協商を結びます。 同盟関係というのは、仲良しグループのようなイメージがありますが、むしろ仲が悪い相手と同盟するからこそ、効果があります。イギリスはロシアを危険視していますが、機会をみてロシアと「手打ち」ができれば、安全保障面での負担を減らすことができます。その手打ちのきっかけとなったのが、日露戦争です。ロシアはこれに敗北し、また戦争中に国内で革命が起きてしまいます。イギリスからすれば、怖いロシアが力を落としたから、この辺りで手を差し伸べてみてはどうかといった形勢です。こうして1907年、英露協商が結ばれます。 振り返ると、1890年まではドイツ中心の国際関係がおよそ維持されていたのですが、これが大きく変わってしまい、一方に英仏露、他方にドイツとハプスブルク帝国という風に、ヨーロッパが二極分化されてしまいました。これこそが第一次世界大戦への途を規定した背景だというのが、定説的な説明です。 しかし、クラークなどの研究は、こうした構図を見直そうとしています。例えば強大な軍事力を誇るロシアですが、日露戦争に負け、革命で混乱している状況ですから、まずは国内の立て直しに力を注がざるを得ません。したがって、当時のロシア首脳部が他国との紛争を望んでいたかといえば、そうではありません。フランスも国内の政治対立が厳しい状態だったため、露仏同盟を結んだからといって、両国が無条件で共同の軍事行動をとったかどうかは疑問です。またロシアの動向を警戒しているイギリスは、ドイツの些細な振る舞いにいちいち動じなかっただろうという見方にも、一定の説得力があります。ドイツはどうか。たしかにドイツはヴィルヘルム二世が失策を犯すのですが、外交官たちが頑張って、大戦前にはかなりのところまで各国との関係を修復していたことが、実証研究の積み重ねから指摘されています。クラークの表現では、世界大戦が始まる1914年頃のヨーロッパは「デタント」の時期にあり、戦争の危機は縮小さえしていました。 ここまで、第一次世界大戦前のヨーロッパ各国について見てきましたが、翻って、近代日本はどうであったか。日本は、明治の始まりとなった戊辰戦争いらい、台湾出兵、西南戦争、日清戦争、義和団の乱への派兵、日露戦争、第一次世界大戦、シベリア出兵、さらにはその後も満州事変、日中戦争、太平洋戦争と、1945年まで、ほぼ10年と空けずに戦争を続けています。この点で、近代日本は同時期のヨーロッパにもまして、きな臭い国家だったことを認めざるを得ません。付け加えれば、今の世界の大国である米中ロ、さらには英独仏のすべてと戦ったことがある点でも、日本は稀有な国家だと言えるのではないでしょうか。 ヨーロッパ史では、第一次世界大戦と第二次世界大戦を一まとめにして「20世紀の30年戦争」の時代とする捉え方がありますが、日本史の場合はもっと長期的に、戊辰戦争から数えて80年の「戦争の時代」があったと言えます。この講座のタイトル「開戦80周年」が示すように、あと数年で戦後80年となりますが、近代日本は1945年を境にして、前半は戦争の80年、後半は平和の80年という、極めてコントラストの強い歴史、かなり独特な歴史を歩んだことを確認しておきます。 大戦前夜 話を戻しますが、第一次世界大戦が始まった1914年、ヨーロッパは戦争が避けられない状態であったわけではありませんでした。しかし、実際には、偶然に発生した火花が、短期間に思いも寄らないような大火事をひきおこしてしまいます。その小さな火花が生じた場所は、バルカン地域です。バルカン地域はかってはオスマン帝国の支配下にありましたが、19世紀にはいってオスマンが弱体化してからは、様々な民族集団が政治的自立を目指すようになり、また大国であるハプスブルク帝国とロシアが進出を目論んでいました。 ロシアは国土が広いので、バルカン以外にも進出先はあります。例えば、その一つが日本のある極東です。あらためて地図を眺めると、日本という国は弓のような形をして、ロシアが外に出ていくのを上手く塞いでいるような、ロシアから見れば邪魔くさい国に見えます。この日本に日露戦争で敗れたことで、極東の進路は阻まれています。 ロシアにとって別の選択肢は、中央アジア周辺で、ここを陸路で南下すると、イギリスの植民地にぶつかってしまいます。しかし、1907年の英露協商によって、ペルシャやアフガニスタン、チベットでの勢力範囲が確定されたことで、この地域での両国の衝突は回避されるようになり、言い換えれば、ロシアは中央アジアで動けなくなりました。その結果、大戦勃発の少し前、ロシアはバルカンに関心を集中させていきます。 他方でハプスブルク帝国は、1908年にバルカン西部のボスニア・ヘルツェゴビナを併合しました。その近くにセルビアがあります。セルビアのナショナリストからすると、ボスニアは中世に自分たちの支配下にあった土地で、民族的にも同胞が多く住んでいる、自分たちの一部に「復帰」すべきだという思いがあります。このセルビアが大国のハプスブルクに単独で立ち向かおうにも、子供と大人のようなもので、まともな喧嘩になりませんが、セルビアには後ろ盾になってくれる国がある。それがロシアでした。こうして、バルカンを舞台に、ロシアとハプスブルク帝国の対立が激しくなっていきます。 このような構図を背景にして、第一次世界大戦の前、1912年から13年にかけてバルカン地域では二度、戦争が起こっています。第一次バルカン戦争、第二次バルカン戦争です。ただ、これらは二回とも局地的な紛争であり、バルカンの外までは戦火が拡大せずに済みました。 そこに1914年6月28日、サライェヴォ事件という大変な出来事が起こってしまいます。 ハプスブルク帝国の皇位継承者であり、間もなく帝位に登るはずのフランツ・フェルディナント夫妻が、ボスニアの首都サライェヴォに軍事演習の視察に訪れたところを暗殺された事件です。暗殺が行われた6月28日は、セルビア人にとって重要な日です。セルビアは1389年にオスマンに敗れたことが契機となって、中世の王国が滅亡してしまうのですが、このコソヴォの戦いでの敗北の日が6月28日であり、サライェヴォでの暗殺はこれを意識して行われました。 事件を起こしたのは19歳のセルビア人、ガヴリロ・プリンツィプという人物です。大戦100周年にあたる2014年以降、セルビアではプリンツィプを民族独立のために戦った闘士として顕彰しようと、銅像や記念碑があちこちに建立されています。 プリンツィプをはじめとする犯人たちは、ハプスブルク帝国からボスニアを独立させよう、できれば自分たちセルビアに統合しようと考える、民族主義的な秘密結社のメンバーです。しかし彼らは単独で行動していたわけではなく、その背後にはセルビアの軍部がついていて、資金や武器を提供したり、軍事教育を受けたりしていました。 この事件が発端となっていよいよ第一次世界大戦が始まるのですが、しかしハプスブルク帝国がセルビアに宣戦布告して第一次世界大戦が始まったのは7月28日ですから、暗殺から一ヵ月の期間があります。この一ヵ月間、各国はどのような状況だったのでしょうか。 まず当事国となったハプスブルク帝国は、自分の国の皇位継承者を殺されたのですから、断固たる態度を示さなければなりませんが、政府や軍部の間で意見が分かれてしまいます。セルビアだけを相手にするのなら、さして難しくなかったのかもしれません。しかし、早く事態を収拾しないと、セルビアの親分であるロシアが出てきてしまう。そこで、セルビアを短期で片づけて、他国の干渉を招かずに済ませられるかどうかが問題になります。ところが、これをシミュレートしてみると、ロシアに背後を突かれないよう気をつけながら、国のあちこちから農民を軍隊に徴収し、言葉も宗教もばらばらの兵士たちを効率よく動かすのは、どうも無理ではないかという話になり、議論百出、方針が定まりません。 他方のセルビアは、小国ながら老獪な外交術を発揮します。彼らはこの一ヵ月の間、暗殺は一部の過激分子が起こした突発事故に過ぎない、自分たちは大国ハプスブルクから恫喝を受ける弱小国、被害者なのだと主張して、何とか時間を稼ぎ、国際世論を味方につけ、他国の助太刀を得ようとします。 では、セルビアの後見役であるロシアはどうかといえば、決して介入に乗り気ではありませんでした。日露戦争と革命の痛手が残っていて慎重論が強かったこと、また首脳部のなかに親ドイツ派がおり、セルビアに加勢してハプスブルクと喧嘩することで、そのバックにいるドイツまで敵に回すのは避けたい、という考え方があったからです。 いま説明しましたように、ハプスブルク帝国が戦争を始めたら、ドイツは同盟関係に基づいて協力を求められることになります。暗殺事件の後、ハプスブルク帝国は本当に味方してくれるかどうかをドイツに尋ね、確約を得ます。ドイツがいわゆる「白紙委任状」を示してハプスブルクの背中を押してやったのは、早く戦争を終わらせてほしい、自分たちが手を出さなければならなくなる前に問題を解決してほしいという気持ちがあったからです。しかし、現実にはハプスブルクの動きは遅く、結局、ドイツは当てが外れることになります。 イギリスとフランスは、両国の世論はこの事件にあまり関心をもっていません。一口にヨーロッパと言っても、イギリスからするとバルカン地域は随分遠い場所にあります。当時のイギリスにとって、もっと大きな問題は国内にありました。それは、アイルランドの独立問題です。 それからフランスについてですが、1914年8月2日付、世界大戦に参戦した直前の号の「ル・プチ・ジュルナル」という大衆紙の表紙には、当時国内世論を沸かせていた「カイヨー事件」の裁判の様子が描かれています。カイヨーという人は首相も務めた大物政治家ですが、彼のスキャンダルが『フィガロ』という新聞にすっぱ抜かれ、ネガティブ・キャンペーンの材料に使われました。詳しくお話ししますと、カイヨーは前妻と死別して再婚したのですが、前妻の存命中から、後妻となる女性と関係をもっていました。『フィガロ』紙はそのことを示すラブレターを見つけ出して、すっぱ抜いたわけです。ところが、事件はそれで終わりませんでした。カイヨーの後妻が『フィガロ』の新聞社に押しかけて、編集長を射殺してしまうのです。1914年の夏のフランスはこの事件の裁判に注目が集まっていたこともあって、バルカン情勢に敏感に反応しませんでした。 しかしここで見逃せないのは7月20日から23日に、フランスのポアンカレ大統領がロシアを訪問しているという事実です。露仏同盟を結ぶ二国の首脳がこの時に何を話し合ったのか、極めて興味深い問題ですが、第一次世界大戦が終わった後、どちらの国にも会談の記録が残されていません。そこでクラークは、会談に参加した人たちの書き残したものなど、様々な周辺的な史料を駆使して、この時のやり取りの中身を推論しています。彼は、フランスとロシアはサライェヴォの暗殺事件、そしてその後の対応についてじっくりと話し合ったのではないかと判断しています。通説では、世界大戦の開戦に際してフランスが演じた役割は他の国よりも軽く見られがちです。しかし、セルビアとハプスブルク帝国の戦争が迫っている時にロシアの背中を押したとすれば、フランスの役割は重大です。 さて、こうした状況を経ていよいよ戦争が始まるのですが、7月23日、ハプスブルク帝国セルビアに対して最後通牒を突き付けます。すると、ハプスブルクに先んじてロシアが、開戦前の7月25日に軍事動員をしてしまいます。セルビアの親分と言っても、世紀の同盟関係は無いのだから、これは勇み足です。しかしロシアは動員はしたものの、部分動員と総動員を行きつ戻りつしており、この段階でもなお躊躇していただろうと思われます。 7月28日にハプスブルク帝国がセルビアに宣戦布告をして、いよいよ戦争が始まると、ドイツは機敏に動きます。8月28日にルクセンブルクを攻撃、翌日にフランスに宣戦布告します。 8月4日、主要国で最後に戦争に参加したのがイギリスです。一般的には、ドイツが中立国ベルギーに侵攻したことがイギリス参戦の理由とされますが、クラークはこれも見直そうとしています。イギリスは、ベルギーが陥落しても直ちに自国の危機につながるとは考えておらず、それよりも、参戦しなかったら戦後に何が起こるかを予想してみたのではないかという見方です。参戦しなかった場合、もしドイツやハプスブルク帝国が勝ったら、敵陣営が勝つわけですからあまり都合が良くない。しかし、逆にフランスやロシアが勝ったとしたら、同盟を結んでいながら協力しなかったことを咎められ、戦後の国際的な立場が悪くなる。イギリスが戦争に参加することを決めたのは、こうした判断によるところが大きかっただろうということです。 このように各国の様子を見ていきますと、第一次世界大戦はいずれかの国の単独の行いによって始まったのではなく、複数の「夢遊病者たち」によって始められた、つまり実は眠っていて、自分がどこをどう歩いているのかはっきり分かっていない国々がぶつかり合うことで戦争が起こったと見るべきです。ただし、これはあくまでも開戦の責任をめぐる話であって、戦争が始まってから何が起こったのか、戦争中のいかなる行為に対してどれほどの責任が追及されるべきなのかは、別問題です。 そして戦争に至る道はずっと前から続いていたわけでも、不可避だったわけでもなく、むしろ、小さな出来事が短期間に積み重なって、大きな戦争になってしまったと考えられます。そこには、ヒトラーのような突出した、悪魔のような存在はいませんでしたし、各国の政治家や外交官もそれなりに優秀で、実績ある安全保障体制が保持されていたはずでした。戦争を予想もしていなかった平和な世界が、あれよあれよという間に未曽有の惨事に向かっていった恐ろしさを、あらためて感じずにはいられません。 列車に乗って戦場に向かう大戦初期のドイツ兵たちを捉えた当時の写真を見ますと、車両には「パリまで遠足」とか、「いざ、出陣! サーベルがうずうずしている」などと落書きされており、多少の強がりもあったでしょうが人物の表情は明るく、いかにも陽気な雰囲気です。このようにして、戦地へ向かった兵士が多かったと言われます。 しかし蓋を開けてみると、次第に戦況が厳しくなっていきます。戦争が始まって間もなく、大規模に活用されるようになったのが機関銃です。機関銃の弾が連射されると、ばたばたと兵士がたおれてしまう。これまでの戦い方を続けていては損害が大きいので、機関銃に対抗するために塹壕を掘り、塹壕を拠点にして戦うスタイルが主流となり、戦争のスピードが遅くなってしまいます。独仏両軍が無数の塹壕を掘り、数百キロに亘る塹壕のラインを形成しました。 機関銃や塹壕戦に続いて、戦車が開発されました。アメリカのフォード社やフランスのルノー社が製造した戦車はよく知られています。そして、大砲も巨大化していき、列車のレールを利用した巨大な列車砲も造られるようになりました。さらには、毒ガスの使用や戦闘機、飛行船の投入によって、戦争は短期間に巨大化していきました。 第一次世界大戦の死者数については諸説あって、推計に大きな開きがありますが、少なくとも900万人、多ければ1500万人の犠牲者が出ました。いずれの数値を採用するにせよ、人類がこれまでに経験したことのない規模です。 実は、こうした大量虐殺の技術や考え方には、大戦前からの積み重ねがあります。ドイツを例にとりますと、第一次世界大戦前にこの国は、ナミビアやタンザニアの植民地で起こった住民蜂起や、あるいは中国の義和団などに対して、数万人、数十万人という犠牲者を出す大規模な殺戮を行っています。無論、こうした殲滅戦や強制移住・収容といった暴力を行使したのはドイツだけではなく、列強各国の共通の犯罪行為と考えるべきです。第一次世界大戦は、それまでヨーロッパの外、「文明の外部」で実践されていた行為が、「文明世界」であるはずのヨーロッパの内部に還流してきた、そういう現象でした。 第一次世界大戦のグローバルな側面についても、ふれておく必要があります。この戦争において、例えばイギリスは植民地から250万人の兵士を搔き集めています。また、中国人もフランス軍などに20万人ほどが従軍しました。植民地が巻き込まれたことで、現在で言うと51の国が第一次世界大戦に参戦しました。 戦争のグローバル化をよく示しているもう一つの事例が、スペイン風邪の流行です。この病気は1918年3月にアメリカ・カンザス州の陸軍基地で最初に発生したとされますが、瞬く間に欧州戦線に拡大し、世界的なパンデミックになってしまいました。当時の世界人口は18億人から19億人程度ですが、そのうちの5億人くらいが感染しただろうと言われています。死者は5000万人から1億人ほど、戦闘での死者をはるかに上回る規模です。 日本もこの戦争に参加しました。日本の主たる戦役は、ドイツが中国に保持していた膠州湾租借地の攻略で、その時に4700人ほどのドイツ人捕虜が日本に連れて来られて、各地の収容所で終戦まで生活するようになります。一般的には、この時の俘虜に対する日本の対応はかなり人道的だったと言われます。文化的な交流もあって、日本でドイツ料理が普及するきっかけができたり、ベートーヴェンの第九が初めて日本で演奏されたのも、ドイツ人俘虜たちによってであることが知られています。 確かにそうしたことも大事ですが、ここでもう一つ注目したいのは、日本は第一次世界大戦に参戦したとはいえ、欧米各国よりはるかに少ない被害で戦争を乗り切ったという事実です。元老の井上馨は第一次世界大戦を「天祐」、恵みであるとすら言っています。戦争は経験しない方がよいに決まっていますが、ディーター・ランゲヴィーシェというドイツの歴史家は世界大戦を「乱暴な教師」と呼び、大変な犠牲を出しながらも、そこから学んだ、あるいは学び取らなければならない教訓があったとしています。ヨーロッパや世界の各国は第一次世界大戦という教師から何かを学んだはずなのですが、日本はそこを迂回してしまいました。 むしろ日本は、各国が大きな損失を出した時に、それを「天祐」として経済成長を遂げ、国際的地位を向上させ、中国への進出やシベリア出兵など、対外拡張に向かった、少なくとも諸外国からそういう目で見られてしまいました。戦後のパリ講和会議で、日本代表は人種的差別撤廃を提案します。考え方自体は正当だったはずですが、この提案は受け入れられませんでした。 話をヨーロッパに戻しますと、この戦争は人類史上初の総力戦でした。莫大な物資が消費され、砲弾だけでも日露戦争の300倍から500倍が使用されたと言われます。そのため、銃後の社会においても、政党を超えた挙国一致体制や徴兵制の導入、女性や青少年や児童の労働力の活用、食料物資や生活物資の統制、大規模なプロパガンダ、軍国教育や愛国教育の強化などが大々的に進められました。 定説では、それゆえ、多くの人びとが開戦を熱狂的に歓迎したとされます。宣戦布告があった日のベルリンの様子を写した写真を見ますと、たくさんの市民が目抜き通りに繰り出し、帽子を振り、歓声をあげ、笑顔で行進しています。 この写真からは、市民の熱狂を感じますが、そうした印象論も近年は批判的に検証されています。確かに写真には多くの市民が収まっているのですが、よく見ると特定の層に偏っていることに気づきます。まず、彼らの大半は男性です。そして、帽子や衣服の様子からすると中流以上の人たちばかりで、労働者風の人は少数です。また、年齢的にも青年や中年が圧倒的多数を占めています。こんにちでは、例えば多くの労働者は戦争に乗り気でなく、愛国心を声高に叫ぶ大学生や知識人に反発を抱いていたとか、農村住民も農繁期に働き手を戦争に取られるのを嫌がっていたなど、階級や性別、年齢、政治志向などによって、戦争に対する反応に大きな差があったことが明らかになっています。 宣戦布告の日のミュンヒェンを捉えた写真では、広場に群衆が集まっており、そこには有名人が一人います。青年時代のヒトラーです。しかし最近では、これは後から捏造されたプロパガンダなのではないかという説が出ています。ナチスの時代になって、総統は若い頃は皆と一緒になって愛国心に燃えていたのだと、アピールするためだったのではないかという説です。 さて、そろそろ第一次世界大戦がもたらしたものについて、整理したいと思います。第一に、4年に及ぶ激しい戦争を経て、国際的なパワーバランスが変わりました。ヨーロッパは、戦勝国であるイギリスやフランスも含めて疲弊し、代わってアメリカ、そして後にソ連が世界の頂点に立つようになります。また大戦を契機に、植民地の独立運動が高揚したことも無視できません。 第二に、戦争によって国家のあり方が大きく変わりました。それまでヨーロッパの広い地域を支配していたロシアやハプスブルク帝国は多宗教、多言語、多文化、他民族を緩やかに統合していましたが、そうした帝国が崩壊した後に登場したのはもっと小規模で凝集性の高い、民族自決を理念とするネイションステイトです。一つの民族が小さいながらも自立して一つの国家を成すという考えはもっともらしく聞こえますが、本当に実現するには、かなり無理のある発想です。実際、戦後の中欧や東欧に誕生したのは、単一の民族からなる国家などではなく、マルチエスニックな「小帝国」、言い換えれば旧帝国の縮小版でした。これらの国々は、敗戦国の後継国家として剥奪された「失地」の回復、そして民族的統一の完成を目指し、大戦終結後も数年間、血みどろの戦争を続けます。 国家のあり方の変化は、別の観点からも語ることができます。総力戦を経験したことで、国家が経済や社会に強力に介入するモデルが登場するのです。その代表例が共産主義国家ですが、ファシズムやナチズムもそうした新しいタイプの国家です。そして、軍国主義に進んだ日本や、世界恐慌後に国家の介入が強化されたアメリカについても、共通性を確認できるのでしょう。 第三に、政治文化や社会的風潮、大衆のメンタリティの変化があります。第一次世界大戦後のヨーロッパに関して、『敗北者たち』という研究書を書いた歴史家ローベルト・ゲルヴァルトは、1918年以降も東欧やロシア、あるいは中東で戦争や革命や内戦がずっと続いたことを重視し、第一次世界大戦は「終わり損ねた戦争」だったと言っています。ゲルヴァルトによれば、ヨーロッパでは大戦が終わった1918年から1920年までに400万人以上が死亡し、また1917年から1920年までの間に27回の政治体制の転換が起こっていて、不安定な時代がずっと続いています。そうしたなかで、社会に暴力が蔓延する。ナチ党が登場したドイツがまさにそうですが、選挙のたびに血みどろの市街戦が繰り広げられるのが常態化してしまう。こうした変化も第一次世界大戦を契機とするものです。 第四に、しかし戦争が社会的平等をもたらしたことにも注意しなければなりません。最も大きいのは、各国で女性の社会進出や参政権の付与が実現したことですが、労働運動の展開や社会保障制度の拡充、多様な生活スタイルや文化的表現の承認といった現象も、戦後に起こります。アメリカの歴史家ウォルター・シャイデルは、貧富の差というのは平和な時代には拡大していく一方である。これを縮小するのは戦争や革命であると主張しています。皮肉なことですが、戦争のおかげで平等が実現した側面は否定できません。 このように第一次世界大戦は世界のあり方、人々の意識や思考を大きく変えました。冒頭に述べたように、この戦争が現代の始まりと見なされる所以です。 確かにこの20年、30年のうちに、アメリカの覇権が終焉を迎えつつあり、ヨーロッパがEUというかたちでブロック化し、中国やロシアが存在感を強めています。つまり、かつてのような単独の超大国がなくなり、代わりに複数の勢力が対峙し合う状況になっています。そしてその反面で、中東、ウクライナ、コーカサス、中央アジア、アフガニスタン、そして北朝鮮や中台問題を抱える東アジア等々、かつてのバルカン半島さながらのホット・スポットが世界中に点在しています。こうした様子は、第一次世界大戦前のヨーロッパ情勢がより広域に、グローバルに再現されたもののように見えます。 しかし、今日お話ししましたように、第一次世界大戦前後のヨーロッパは各国が依存し合い、協調し合っていました。彼らは互いのことを良く知り、議論を積み重ねる場ももっていました。それに比べて現在の私たちは、例えばミサイルを飛ばしてくる隣国のことをどれほど知っているでしょうか。話し合う機会をどれだけ持っているでしょうか。私たちは100年前のヨーロッパ人よりも進歩しているとか、もっと安全な世界に生きていると言えるでしょうか。 第一次世界大戦で大きな被害を出したにもかかわらず、ヨーロッパはもう一回、大戦争をします。しかしその後の80年間、時に激論になりつつも、過去をめぐる対話を途切れることなく続けてきました。『夢遊病者たち』という本は、これまで主にドイツに帰せられてきた第一次世界大戦の開戦責任を、ヨーロッパ全体の共通の問題として考え直す契機を提供しました。膨大な史料を元にした冷徹な歴史研究のなかからこうした視点が示されたのは、各国の枠組みを超えてヨーロッパ史を描こうとする取り組みが、随分と蓄積されてきたからこそと思います。 翻って日本はどうでしょうか。日本や中国や韓国や北朝鮮といった枠組みに縛られない歴史を語ることができるでしょうか。そもそもそうした歴史をなぜ語ろうとするのかという点も含めて、私たちはヨーロッパの経験を教訓として、自らに問い続ける必要があると思います。 最後になりますが、現在、新型コロナウイルスの感染症問題というグローバルな試練に、世界中が直面しています。安易に戦争になぞらえるなとお叱りを受けるかもしれませんが、世界中が共通の試練、共通の異常事態と対峙しているこの数年は、どこか第一次世界大戦に似ているようにも思えます。最近は海外からのニュースを観るたびに、あれ、この国はこんなことをするのかとか、あの国の政治家はあんなことを言うのかという風に、今まである程度分かっていたつもりのドイツやヨーロッパのことがよく分からなくなった気がしています。こうして、世界や他者、そして自分が分からなくなった時代だからこそ、歴史に立ち戻って考えることの意味が増しているのではないかと、最後に申し上げておきます。 当初から朝鮮支配を意図し、計画的に大陸中国を侵略して、軍部の無謀な暴走の末に対米戦が不可避となった、というのは本当か? 日清・日露戦争から第一次大戦、満州・支那事変を経て、先の戦争に至るまで、当事者たちがどんな決断を下したのか、それぞれの開戦過程を各分野の第一人者が実証的に語る「近現代史」連続講義。
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