| 一 期 一 会 |
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私の禅の師である山口市宮野にある常栄僧堂の不昧庵(安田周山)老師が危篤状態とのお電話をいただき、3月25日(火)、急遽日帰りで山口日赤病院へ駆けつけました。
長島正博 私は前日夜8時頃山口市に着き、湯田温泉のビジネスホテルに泊まりました。 湯田温泉駅からホテルまで歩いて行く道中、ふと空を見上げると今まで見たこともないような大きな星が一つ輝いていました。 私には、その星がまるで周山老師のように感じました。 津送当日は薄曇りの寒空でしたが、タクシーで9時半頃常栄寺に着きました。 一般の方よりも僧侶の人数の方が多いくらいで、30人以上はおられたように思いました(約百名の僧侶がいました)。 普段は入れない本堂前の石庭から本堂に上がりました。ちょうど隣り合って座った方が、私のブログにコメントを寄せて頂いた仲野様でした。これも周山老師のお引き合わせかと感謝致しました。 先ず周山老師のご遺骨が輿で正面から運び込まれて、本堂のご本尊前に安置され、式がはじまりました。その開始を告げる大太鼓が打ち鳴らされると、私は周山老師と過ごした妙堪寺時代のことが走馬燈のように思い出され、涙が止まりませんでした。 ご本尊に相対して3人の老師方が玉座に腰掛けられました。真ん中におられる方は、たぶん本山東福寺の老師かと拝察致しました。両脇に腰掛けておられるのは、妙心寺の老師と方広寺管長の大井際断老師でした。三人の老師方は、それぞれ献茶の後、自作の漢詩を朗々と献じられました。 その後、老師を含めた全僧侶の方々が、陀羅尼を唱えながら経行(きんひん)される様は圧巻でした。 釈尊が入滅された時もこの様な光景だったのだろうかと想像しました。 11時頃終了し、小休止の後、新忌斎が営まれ、11時半頃散会となりました。 周山老師の妹さん母娘と義姉や妙堪寺檀家総代の原さんにもお会いでき、懐かしい思いをしました。 長島正博様 不昧庵老師の津送ではお世話になりました。 老師の津送の席で、三人の導師の方が印象に残りましたが、中でも車椅子の方が格別に印象に残り、気になって仕方がありませんでしたので常栄寺に電話してどなたであったのか聞きました。 山下様という檀家の方に電話をするようにと言われ、2月21日に山下様に電話をしました。 車椅子のお方は東福寺管長の福島慶道師とのことでした。 福島管長はパーキンソン病を患っているとのことです。 あの管長がと衝撃を受けて、涙が止まりませんでした。 仲野 生 仲野様 コメントをいただきまして誠に有り難うございました。 集中内観に行っていましたので、お礼が遅くなりまして申し訳ございません。 やはり福島慶道管長でしたか。以前、NHK教育TVの「こころの時代」で拝見したことがありましたが、今回は分かりませんでした。 長島 拝
2009年1月14日、不味庵老大師の津送の席で、たまたま隣に座ったのが富山県の長島正博様でした。長島様とはそれまでに何度かメールでは連絡していましたが直接お会いするのは始めてでした。しかし、私の左側に着座したその方の眼を見た瞬間に、この方は長島様だと直感しました。お互いにビックリしながら、老大師との思い出などを語り合い、長島様とのメールのやりとりなどを私のホームページに転載することをお許しいただきたいとお願いしました。 「老大師は後継者を誰に決めたのでしょうか」と長島様から聞かれて、ご自分の後継者は長島様の外には考えていなかったであろう事と、あとのことは本山に任せるつもりだったのでしょうと返答しました。 津送の終了後に長島様ともう少しお話ししたいと思いましたが、大勢の人に紛れてお会いすることができませんでした。ご縁があればまたお会いすることができるものと思っていましたが、幾ばくもなく長島様は病に倒れ、2010年5月に他界されたことを後日知りました。まことに人の世は一期一会です。
大正14年〜平成20年(1925〜2008) 道号は周山、法譚は定親。室号不昧庵。俗姓吉田、のち安田に改姓。大分県佐伯市百枝出身。23歳のとき、大分萬壽寺の奥大節老師について得度。昭和24年5月、奥山方広僧堂に掛搭、のち萬壽僧堂、常栄僧堂に転錫。昭和45年、山口県小郡町妙湛寺の住職となるが、常栄僧堂に通参し、安田天山老師(臨済宗東福寺派管長)の法を嗣ぐ。同53年10月、常栄僧堂師家に就任、同時に安田姓に改姓。臨済宗東福寺派管長に推されたが固辞して受けなかった。 平成20年11月27日 遷化 世寿83 *ご縁があって、常栄寺住職安田周山老大師の元に30年間通うことが出来ました。もとより私は宗教は門外漢ですから、宗教について話すことはなく、主に歴史の話をしました。その話の合間に、足利紫山老大師をはじめ、歴史上著名な禅僧のことが何度も出てきました。今となっては記録しなかったことが悔やまれます。 不昧庵老大師は、東福寺派管長に何度も推戴されましたが、決して受けることはありませんでした。 「わがままを言うが、自分は山口で生を終えたい。」と言われました。
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