海部と佐伯ー7
| 二 藤原純友の乱と伊予海賊の勃興 |
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(伊予海賊発達史)・・・・ |
序説 奈良時代を経て平安時代に入ると海賊はますます発展し、次第にその勢力圏を拡大したのみならず、集団的な組織を具有するようになった。従ってこの時代の海賊を単なる海盗の一部とのみ断じ去ることは早計である。これ等の海賊は、平安時代の社会の進展すると共に、次第に変形せられ、更に団体化せられたのであって、あらゆる意味において、重要なる社会の一分子を形成したのであった。 かかる海賊の発達史上に、重要なる意義を有するものは平安時代の朝野を震駭させた藤原純友の乱――平将門の乱と併せ、承平天慶の乱と言う。――であった。次に私は藤原純友の叛乱を中心として、伊予の海賊の活躍を述べるに当たり、まずこれと関係の深い当時の社会相について瞥見することにする。 平安時代の政権の推移 平安時代は実に大化改新などによって樹立せられた律令政治の崩壊する時期であった。かかる趨勢は、すでに奈良時代の頃より現れていたが、世の進展すると共に、ますます甚だしくなり、中央集権の制度は次第に弛緩し、民政もますます腐敗していった。 此の間にあって中央政府では、藤原氏一族の権力が台頭して、摂政関白の要職を壟断するに従い、朝廷の権威は衰え、遂に天下の政権は藤原一門の掌中に落ちた。 然し彼等一族の豪奢と専横による官紀の頽廃と政府の威令の衰微とは相まって地方の政治を紊乱の極に陥れたのであった。 地方政治の紊乱 かく藤原氏は日夜遊楽を事として栄華に浸り、敢えて政務を顧みなかったから、地方の秩序は次第に混乱した。此の情勢に乗じて、奸悪なる国司は私利私欲を営み、官物を貪り、租税の苛斂誅求のみを専らとした。従ってこの秕政に虐げられた貧窮なる農民は、或いは逃亡し、或いは浮浪の民となり、甚だしきは盗賊と化し、暴戻を企てるものさえ生じた。 更に、地方にあっては権門勢家或いは豪族が、恣に土地を開墾したのみならず、濫りに公有地の兼併を計り、以って己の勢力の拡大を企図した。かくて私有地――これ等を当時荘園と称し、国司の支配を受けず、且つ多くは租税及び課役を免除せられた治外法権の地――のますます増加するに従い、国庫の収入は激減し、政治的にも経済的にも、中央政府の政令を地方に及ぼすことは困難となったのである。 翻って当時の兵制を見るに、律令制度の空文と化すると共に、諸国の治安を維持すべき軍団の制は早くも破壊せられた。京都にあった衛府や検非違使などもすべからく実権を失った時代であるから、地方の治安の維持は不可能となり、後には無警察の状態となったのも当然の帰結といわなければならない。 豪族の興起と海賊 前述の如く地方官吏の秕政、荘園の増大、兵制の紊乱などによって、中央政府の権威は失墜し地方の民政は堕落した。此の時次第に地方の実権を獲得したのは、発展の素地を培いつつあった豪族であった。彼等は家の子、郎党等を養って武芸を練り、自衛の策を採るとともに、更に地方の治安を回復するために尽瘁した。かくて豪族は次第に集団化し、更に組織化せられて、遂に武士なる新興階級を形成し、茲に重要なる社会上の地位に進出したのであった。 かくして勃興した武士は全国に出現したが、西国殊に瀬戸内海においては、海上の武士即ち海賊なる武士団が生まれた。従って平安時代の海賊は――言うまでもなく、強盗を専らとし、暴戻を働く海賊もあったけれども――これを社会上から観察すれば、明らかに武士と同様なる性質をもったものが多く、周囲の環境から、一は武士と称せられ、他は海賊と呼ばれたものも少なくなかった。 かかる意味に於ける海賊の主として台頭した地方は、山陽道及び南海道の沿海であった。伊予の国において海賊として形態を保持したものは越智氏(後の河野氏)の部下の水師――その武将に村上氏があり、後には村上氏系統の海賊ともなったが――及び温泉郡の忽那島を中心とする忽那氏一族の水師、並びに北宇和郡の日振島を本拠として勢威を振るった佐伯部の水師等であった。 然るに、当時地方官吏は常に盗賊の横行に苦しんだが、官兵の尩弱無能なる為に、遂に剽悍なる佐伯部の海賊と和合して、これを追捕せしめた。故に佐伯部系統の海賊は勢力を得て、次第に跳梁を極め、遂に狼藉に及ぶようになった。ここに私は藤原純友の乱の遠因が存在するものと考える。 藤原純友の出自 藤原純友は藤原氏の中の偉大な人物であった良房の兄の長良の曾孫であった。良房の一門に立身出世したものが多かったのに比較すれば、長良の子の遠経(純友の祖父)の係累は同じ藤原氏とはいへ、甚だ不遇であって、純友の父の良範も僅かに太宰少弐に過ぎなかった。 その上、純友は背景に有力な後援者を持たなかった為に、さしたる出世の希望を抱くことが出来なかった。従って彼が当時の政界に対して、不平不満を感じていたことは、彼の性質が甚だ狼戻であったのによっても想像せられる。 此の頃、都において志を得ないものは、多く地方に下り、その地の実権を掌握し、所謂武門の棟梁となっていた。純友もこの例にもれず、地方の豪族となり、己の権力の拡張と一門の栄達を希っていたのであった。 純友の伊予下向と海賊の跳梁 かかる野心を抱いた純友は、始め伊予の掾(国司の三等官)となって下向し、国内の政務に参与する傍ら海賊(海盗)鎮圧の事業に従事した。然るに彼はほどなく官を免ぜられたが、京師に帰らずして、地方の豪族と連絡を取り、海賊の群れに身を投じ、異謀を遂げんとしたのであった。 当時伊予海賊の横暴は次第に激しく、政府は屡々、討伐を行ったけれども、未だ予期の効果を挙げることができなかった。その上、承平年間に入って、海賊は益々猛威を逞しくしたのであった。 その一例を挙げてみると、扶桑略記の承平五年正月九日の條に「頃年之間、海賊未レ随二捕一、去年之末盗運ニ伊予国喜多郡不動三千余石一」とあり、又承平六年六月の條に「南海道賊船千余艘浮ニ於海上一、強取ニ官物一、殺ニ害人命一、仍上下往来人物不レ通」とあるから、海賊の猖梁によって瀬戸内海の交通の途絶した有様を知ることができる。又日本紀略等によれば、朝廷にあっては屡々山陽道、南海道の海賊を追捕せしめられたり、或いは海賊討平の祈願をせしめられた記事がこの前後に散見する。これらの史料によって、如何に海賊が横行していたかを想起しなければならない。 純友の叛と佐伯部の海賊 ことに前に述べた如く佐伯部系統の海賊は、中央における官紀の紊乱と地方における政治の弛廃に乗じて、その本拠を日振島に置き、佐伯是基等を首領に戴き、跳梁を恣にしていた。これ等の海賊の勢力は、恐らく九州の豊後地方にまで及んでいたものと想像せられる。 純友はこの佐伯部系統の海賊と聯和して、権勢の拡大を計ったが、遂にその巨魁に戴かれるに至った。又諸海賊の方でも純友が名門の出であるから、これ等を統率すべき中心人物を得たことを喜んだに相違ない。此の頃伊予近海の海賊の雄者であった佐伯是基、小野氏彦、紀秋茂、津時成等は相議し、その謀将となって、純友を援助することになった。 因みに純友等の占拠した日振島は、伊予の北宇和郡に属し、三浦半島の西に位する小島であったが、中国、四国との連絡、航行には、重要なる一要框に当たっていた。従って一朝有事の際には西、南海道を遮断し、一挙にこれ等の地方の制海権を掌握することが出来た。故に日振島が、海賊の根拠地として絶好の位置を占めていたことは明瞭である。 紀淑人の伊予下向と海賊討伐 かくて純友は、兵船千有余艘を艤装するや、遂に叛旗を翻して豊後水道を往来する船を襲撃し官物、私財を横領した。日本紀略に従えば、純友の叛を承平六年の條に掲載しているけれども、前後の事情よりすれば、恐らく純友はこれ以前に準備を整えていたのみならず、既に諸海賊と提携し横暴なる挙動に出たものと考えられる。 朝廷においては紀淑人を伊予の守に任じ追捕南海道使として海賊の討伐に当たらしめた。淑人は寛大な政策を採り仁政を敷いたので賊徒もよくこれに懐つき首領の小野氏彦、紀秋茂を始め諸海賊は多く帰順した。茲に淑人は海賊に衣食及び田畠等を賑給して農業を勧めた。さしも猖獗を極めていた海賊もこの懐柔策によって一時鎮静の状態となっていたのである。 純友の再挙とその暴虐 恰も東国下総の猿島において平将門――予てから政令に従わず、悪辣無動なる行動を為し、地方の政治を攪乱していた――は天慶二年十一月に至って、遂に兵を挙げた。時に承平六年より三年後のことであった。同時に純友も再び諸海賊を糾合し、官兵の微弱なのに乗じて、南海、山陽の諸国まで抄掠せんとした。 かく東西ほとんど時を同じくして大騒乱が勃発したから朝臣の驚愕は想像以上のものがあった。この年の暮れに備前介(国の次官)であった藤原子高は内海の海賊の叛乱状態を政府に報告せんが為に陸路上京した。純友は部下をして小高を摂津の須岐駅に要撃し遂に惨殺せしめた(*実際には、子高は両耳を斬り取られ、鼻を割かれたが、命に別状はなかった。だが、子高の子息は殺され、奥方は凌辱されたという。生き延びた子高は急ぎ都に上り、委細を太政官に報告したという)。この事件は各地に喧伝せられたが、あたかも東国における将門の暴虐の報が聞こえた時であったから京師の人々は不安と恐怖に包まれ、まったく戦々恐々たる有様であった。 ここに朝廷では、左近衛少将小野好古を山陽道使に任じ海賊の鎮圧に従事せしめる(翌三年正月)と共に、更に純友を懐柔し且つ帰服せしめんとする温和的手段を採った。即ち彼を従五位の下に叙し、戒諭の官符を下されたのは、此の間の消息を伝えるものであった。 然し純友は政府の海軍の無力なことを知悉していたから、益々猛威を逞しうし、安芸、周防の両国は言うまでもなく、更に驥足を伸ばして、讃岐の国を席巻し、その国府を焼き払った。此の時、讃岐の介なる藤原国風は難を阿波に避けたので、海賊はさらに備後の船舶を焼却し、遠く紀伊国にも災害を及ぼす有様であった。従って、瀬戸内海の制海権は悉く純友の掌中に落ちんとするの形勢となった。 純友討伐と伊予海賊の向背 これより先、朝廷ではさらに小野好古を追捕使長官に、源経基を追捕海賊使次官に任じ、藤原慶光を同使判官に、大蔵春実を主典となし(同年三月)播磨、讃岐の両国に向かわしめたのみならず、船二百余艘を艤せしめ伊予に航行せしめた。 この追捕使の到着する以前、純友の部下の頭目なる藤綿恒利は意を決して藤原国風(讃岐の介)の下に投降し来った。国風は恒利を嚮導とし、これ等の諸海賊の勢力によって一挙に純友の軍を壊滅せんと期した。蓋し当時官軍では南海山陽の沿岸の諸豪族即ち海賊を説いて帰順を勧めたり、或いは官兵との協力を依頼したりした。 したがって此の時瀬戸内海の海賊は、悉く純友に帰属したのではなく、却って官軍のために力戦奮闘したものも少なくなかった。伊予において、河野、村上氏系統の海賊の如きはその雄なものであった。曩に伊予越智郡の押領使であった越智(後に河野氏)好方は勅命を蒙り、率先して討伐に従事し、又新居郡大島を根拠としていた村上氏一族は海上の勇者として知られ、共に伊予の海賊を統率して純友の攻撃に当たった。この間の事情は、豫章記並びに豫陽河野家譜に見え、略同様の記録を伝えているが、此処には前者の一節を掲げて置く。 純友と云う逆臣(中略)宣旨に背けり。仍て退治すべき由、好方に被仰付。朝敵退治は先例の上、綸命有りて赤地の錦の鎧直垂を賜間罷向う。被官奴田新藤次忠勝を差し遣わし、純友が頸を令取。其比村上と云うもの新居大島に流謫せられて年久しく住む故、海上案内者船上達者なれば好方勅許を申請て同道、其の外中国西国の武士を引率、彼此三百余艘にて九州地に押し渡り退治し畢。 純友の伊予出奔と太宰府侵略 かくて純友の勢力は部下に離反する者の出たことと、官軍が海賊と協力して苦心の末、総攻撃を敢行した為に、次第に衰微し初めたように考えられる。 やがて賊徒の根拠地であった日振島も陥落したので、純友は身を置くに余地なく、風波の難を冒して九州に渡った。更に彼は警備の兵を破って太宰府を陥れ、府庁を焼き財物を奪う等、狼藉の限りを尽くしたのであった(日本紀略等によれば天慶四年の五月頃)。 博多の津の戦と純友の敗北 この時、朝廷においては、純友の乱が容易に鎮定せられないために、右衛門督の藤原忠女を征西大将軍に任じ、諸将を指揮せしめられた。一方、純友の後を追うた好古は、海陸両路からこれを攻撃せんとし、遂に博多の津において賊軍との間に大激戦が展開せられた。 かくして両軍共に死力を尽くして戦ったが、殊に官軍の攻撃は甚だ急であった。この戦闘中、大蔵春実の如き、戒衣は敗れ、頭髪は乱れたまま、手兵を率いて賊の陣中に突入し、敵の心胆を寒からしめた。さらに官軍はこれに乗じ、賊船に火を放って焼いたので、賊兵は狼狽の極、遂に大敗した。その結果賊兵には降伏する者も非常に多く、賊船の捕獲せられたもの八百余艘に及んだと言われる。 この激戦に河野、村上両氏の海賊は大活躍を為し、武勇の威名を轟かしたが、なお豫陽河野家譜及び豫章記によれば、忝くも御感の綸旨を河野氏に賜ったと伝えている。 純友の敗走とその末路 大敗した純友はひそかに扁舟に乗じて伊予に逃げ帰ったが、やがて警固使橘遠保のために擒となり、遂に獄中に死した。(因みに本朝世紀、日本紀略等によれば、橘遠保等のために註せられたようにも考えられる) 又純友の終焉の地は不明瞭なる所から種々の憶説が生まれているが、恐らく日振島付近付近ではなかろうかと推察される。(これは天慶四年六月ごろであって、同年七月七日には遠保が純友等の首を朝廷に進めたのであった。) 純友の乱の伊予に与えた影響 さしもの西海の大乱も、純友の死によって、表面上終息を告げた。翻ってこの天慶の乱が、当時の地方の社会に如何に甚大なる影響を与えたかを考察しなければならない。 畢竟するに、承平・天慶の乱――純友の叛乱は、民政の紊乱と武士階級の勃興との過程に起こった事件であった。殊に純友を討伐するに当たって、官兵は尫弱で且つ海に慣れなかったために、その平定は海上の武士、即ち地方の豪族なる海賊の力に依頼しなければならなかった。従って乱後、最も功績を挙げた彼等の勢力が増大し更に地方の実権を掌握したのも当然の結果と謂わなければならない。 我が伊予において、この乱は河野・村上両氏の権力を確立する大なる礎石となったと共に、佐伯部系統の海賊の衰運の端緒となった。この後、河野、村上両氏は各諸海賊に益々集団的訓練を施し、これを水軍に組織化したのであって、このために両氏の勢力は室町時代に至るまで持続し、瀬戸内海において確固たる権威と覇権を獲得したのであった。かかる点から観察すれば、純友の乱は、伊予海賊発達史上、眞に重大なる事件であった。 (この項終わり) *「伊予海賊発達史」は、今から87年前の昭和13年に、松山市の出版社から刊行されています。佐伯是基は伊予の佐伯部であるとする説には考えさせられます(しかし、それでは豊後の佐伯の地名の由来がわからなくなる)。 豊後佐伯の地名の由来に関しては、豊後守佐伯久良麻呂、あるいは豊後大神氏庶流の佐伯惟基に因むのではないかともいわれている。 佐伯久良麻呂 天平宝字8年(764年)藤原仲麻呂の乱終結後に行われた叙位において従五位下に叙爵し、天平神護3年(767年)豊後守に任ぜられる。光仁朝に入り、宝亀2年(771年)民部少輔として京官に遷る。久良麻呂の血縁の者が当地に居ついて佐伯姓を名乗った? 佐伯惟基 豊後の大族大神氏の惟基五代の孫緒方三郎惟栄(惟義)が平氏に属したことから常陸に配流され、のち赦されて佐伯庄に住し、その子孫が佐伯氏を名乗ったとされているが、明らかに時代が違う。 豊後・伊予2国の界の戍(まもり) 「続日本紀」霊亀2年(716年)5月辛卯条には、大宰府の申請として、豊後・伊予2国の界に従来戍(まもり)が置かれていて往還を許さなかったが、以後五位以上の者が使を差して往還することだけは例外として認められたいとある。この戍(まもり)の設置がどこかは不明だが、豊後国海部郡の沿岸部か、伊予国側の島(日振島?)であったろうか。考えてみれば、日振島という島の名には古代の烽(とぶひ)を連想させるものがある(火振島?)。
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