秋月橘門と牛込神楽坂あたり




外堀通り交差点を渡った先を神楽坂という
 東京駅から中央線の各駅停車の電車に乗り、飯田橋駅で下車する。駅の西口から外へ出て駅前の早稲田通りを右に進むと外堀通りと交差する。その交差点を渡った先を神楽坂という。
 神楽坂は外掘通り交差点から大久保通り交差点あたりまでの坂のことで、この坂の部分を「神楽坂通り」といい、住居表示では、外掘通り側の神楽坂一丁目から、大久保通りを越えて東京メトロ東西線神楽坂駅がある六丁目までの約七百メートル程の狭い通りである。
 神楽坂付近は大正時代に最も賑わった花街で、坂の右手に残る花街特有の路地は、日本でもここにしかないといわれている。また関東大震災後には、焼け残った神楽坂に日本橋や銀座方面より商人が流入して東京でも指折りの繁華街になり「山の手銀座」と言われた。
 神楽坂は高層建築がないためだろうか、くつろいだ雰囲気を感じる。路地に入ると石畳の路面が独特の風情を漂わせ、住宅街のなかには料亭やフレンチレストランもあり外国人の姿も時折見かける。
 神楽坂という町名は昭和二十六年から使われ始めたが、それまでは牛込神楽町といわれており、現在の神楽坂一丁目は牛込神楽町一丁目といわれていた。
 牛込神楽町一丁目は神楽坂下から最初の小路である神楽小路までの狭い区域である。江戸時代、この地域には旗本屋敷が立ち並んでおり町の名前はなかったが、切絵図には善国寺の前に階段が描かれ「カグラザカ」と記されている。神楽坂の由来については、この坂に高田穴八幡のお旅所があり、神輿が通るときに神楽を奏したことに由来するとか、若宮八幡社の神楽の音がこの坂まで聞こえたとかの諸説がある。

牛込橋から見た牛込濠と、東京理科大学(右の大きいビル) 神楽坂 4丁目 居酒屋伊勢籘前の石畳


 秋月橘門(水筑龍、水筑大可、または水築小相)は、日向国国富村本庄で医を営んでいたが、天保十二年に日向国諸県郡大塚村(現宮崎市大塚)に移り住んで医を営んだ。天保十三年に延岡に移住、医を業として延岡藩から二人扶持を給された。二年後の弘化二年に豊後国佐伯藩(二万石)に招聘されて佐伯に移り住み、佐伯藩の藩校である四教堂の教授に就任した。
 慶応四年七月二十日、秋月橘門は新政府に徴(め)されて三河県知事に任じられた。しかし、赴任前の明治元年九月十九日付けで、「三河県知事被免鎮将府出仕被仰付早々東下可致候事」という行政官通達が届き、東京に赴いた。このころはまだ奥羽戦の最中であり、会津藩が降伏したのが九月二十二日、庄内藩が降伏して奥羽戦が終結したのは九月二十九日の事である
(慶応四年九月八日、元号を明治に改元)

徴 士(無定員)
 諸藩士及び都鄙(とひ)有才の者公議に執り抜擢せらる則徴士と命ず、参与職各局の判事に任ず。
 又其一官を命じて参与職に任ぜざる者あり、在職四年にして退く。廣く賢才に譲るを要とす。若
 し其人當器尚退くべからざる者は、又四年を延べて八年とす。衆議に執るべし。

貢 士
 大藩四十万石以上三員(三名)、中藩十万石以上三十九万石に至る二員、小藩一万石以上九万石に
 至る一員。諸藩士其主の撰に任(まか)せ、下の議事所へ差出す者を貢士とす。則議事官たり。
 輿論公議を執るを旨とす。貢士定員あって年限なし。其主の進退する処に任す。又其人才能に因っ
 て徴士に選挙すべし。


慶応日、新政府は下総国内の旧幕府領を管理するため熊本藩士の佐々布直武を下総知県事に、同じく熊本藩士の鹿子木弥左衛門を下総判県事に任じて、薬研堀(現中央区東日本橋)に仮事務所を設置、薬研堀御役所と称した(鎮将府日誌には8月8日 佐々布貞之丞 御雇ヲ以テ下総知県事被仰付候事 鹿子木弥左衛門 御雇ヲ以テ下総判県事被仰付候事とあるので任命されたのは8月8日か?)。
 明治元年十二月十八日、秋月橘門は下総知県事の佐々布直武からその職務を引き継いだ。明治十三日、下総知県事に代わる行政組織として葛飾県が設置され、県役所を葛飾郡加村(現千葉県流山市加一丁目)の旧駿河田中藩飛び地領の陣屋跡に置くことが定められた。江戸川沿いの加村は東京から舟で往来できる便利な場所である。
葛飾県役所は、二月末までは薬研堀で業務を行っていたことが分かっている。


官員録 (明治2年7月)より
 鹿子木弥左衛門(肥後藩士) 矢野程蔵(佐伯藩士) 竹中武之丞(佐伯藩士)

明治三年正月十二日、秋月橘門は高齢のために葛飾知県事を退任(後任の知県事は矢野程蔵)、その後は牛込神楽町一丁目三番地(現在の東京理科大学所在地、旧幕時代は旗本の中根九郎兵衛邸)に住して自適の生活を送った(水築から秋月に改姓したのは高鍋藩主の秋月家に遠慮のなくなった明治4年7月の廃藩以後と思われる)
 橘門の嫡子の新太郎は、佐伯藩に藩校助教として勤仕していたが明治四年七月の廃藩後に上京、兵部省に出仕して中録 陸軍中尉に任じられた。明治五年二月二十七日、兵部省が廃されて陸軍省と海軍省が置かれ、同年三月、秋月新太郎は大録(判任官八等)に、明治六年二月には陸軍歩兵大尉(奏任官七等)に任じられ、明治六年四月に陸軍歩兵少佐(奏任官六等)に昇進した。

 神楽町の秋月親子の住まいから外濠通りを市ヶ谷方向に百メートルほど進むと、町名が市ヶ谷船河原町になり、ここに咸宜園出身で秋月橘門・新太郎親子とは旧知の長三洲(=チョウ ヒカル)の住まいがあった(現在のレインボウビル所在地、旧幕時代は勘定吟味役設楽八三郎邸)(長三洲は明治3年6月に山口から上京、閏10月から船河原町に住んだと考える)
明治初年頃は禄を失った旗本や御家人の屋敷がたくさん放置されており、住む家を探すことはさほど難しくなかったという。
 さらに明治九年には「咸宜園」第三代塾主の 広瀬青邨 が牛込神楽町二丁目二十一番地に私塾「東宜園」を開き(*明治9年11月付けの入門者アリ)、神楽坂界隈は咸宜園で学んだ者たちの東京での交友の場になった。


 秋月橘門たちが住んでいた神楽坂付近の景観を特徴付けているのは、やはり牛込濠と飯田濠の存在だろう。この濠は元々、神田川の支流の谷だったが、堰を築き水を溜めて江戸城の外堀にしたもので、飯田橋から四谷方向へ行くほど水位が高くなっている。牛込御門の下にはかなりの落差があり、江戸湾から隅田川を経て神田川をさかのぼってきた舟の積荷は牛込揚場町の船着場で舟から降ろされ、軽子(軽籠で荷物を運ぶ人を軽子と言った)に背負われて軽子坂を登り、坂の途中にある倉庫や神楽坂上まで運ばれていた。
 安政三年(1856)の江戸切絵図によれば、神楽坂と軽子坂の間は武家地で、外濠通り沿いの角地には宮崎平之丞(林大学頭手附書物御用出役)の屋敷、同じくその隣りには土岐藤兵衛(小姓組十番組酒井肥前守組)の屋敷があった。




牛込御門と飯田濠 (江戸湾から隅田川・神田川を経て、飯田濠まで舟で遡る事が出来た)
 江戸時代の神楽坂周辺は、大名や旗本の屋敷と御持(持ち筒、持ち弓)組・徒士組などの組屋敷が立ち並んでいた。ほかにも多くの寺院があり、町人地は肴町や寺町の周りと神楽坂左手の狭い地域に限られていた。
 神楽坂は「江戸名所図絵」にも掲載された名所であったが、名所図絵にみるように綺麗に整備されたのは、坂を登り切ったところに若狭小浜藩酒井家の広大な下屋敷(三万九千坪)があったためである。
 小浜藩の下屋敷は、寛永五年(1628)に藩主の酒井忠勝が三代将軍家光から同所を拝領して下屋敷としたのが始まりで、家光は酒井忠勝を「予の右腕」と言うほど信頼しており、同所を百四十回以上も訪れたという。このため、神楽坂は「将軍の御成り道」にふさわしく整備された。小浜藩の下屋敷跡は明治時代に牛込矢来町となり、現在は新宿区矢来町になっている(小浜藩下屋敷は塀のかわりに竹矢来が組まれていたのに因んで矢来町といわれた)。
 神楽坂の中ほどにある善国寺毘沙門天の縁日には、おびただしい参詣人が押し寄せて界隈は歩行もままならなかったという。

牛込揚場町

牛込揚場町(安藤広重画)

 安藤広重の手になる牛込揚場町の団扇絵である。左奥に牛込御門が見える。画面右の「茗荷屋」という舟宿から、赤い扇子をもったお大尽がお供の女性を引き連れて川舟に乗り込もうとしている。
 
堀端の道路と堀の水面には、高低差が少ししか無いように描かれているが、実際の堀端の道路は土手の斜面の上にあり、船着き場には石の階段を下りるようになっていた。広重は、船着場の石段を省き、土手の上にあった外濠り通りを低い位置に描くことで『牛込揚場町』を広がりのある情感豊かな絵に仕上げている。
 時代は下って明治の初め、田安門外に屋敷を構えていた木戸孝允と、市ヶ谷船河原町に住んでいた長三洲は、牛込揚場町から川舟に乗り、神田川を下って柳橋の料亭に出かけていたという。木戸や長たちの川舟での柳橋通いにも、広重の絵と相通ずるものがありそうである。なお、揚場町の船着場は、木戸邸から約700m、船河原町の長三洲邸から500m程の距離にある。


牛込神楽坂(江戸名所図絵)



秋月橘門・長三洲と「玉川吟社」


 九段坂下、俎(まないた)橋近くの「玉川堂」は、文政年間に創業した老舗の筆屋だが、明治の初め頃に九段中坂から九段坂下に店舗を移転した。明治時代の玉川堂は店の裏に大小の部屋があり、文人墨客が当時流行の書画会を開いていた。

玉川亭図 長三洲筆

明治4年、秋月橘門と長三洲は友人知人等と「玉川吟社」という文芸サークルを作り、毎月16日に玉川亭に集まって、漢詩を賦して楽しんでいた。明治十三年三月に刊行された「玉川吟社小稿」によると、社友は秋月橘門・長三洲・広瀬青邨・堤静斎などの咸宜園に学んだ者と、大阪の広瀬旭荘の塾で学んだ者のほかに、南摩綱紀、青木可笑、水谷弓雄など三十七名となっている。その顔ぶれを見ると、単に詩を賦すためだけの親睦団体ではなく、情報交換や求職活動なども社友の目的の一つであったものと考えられる。

玉川吟社名簿(明治13年発刊の玉川吟社小稿より)

氏 名

   備  考

 氏 名

   備  考

秋月 橘門

元葛飾知県事 咸宜園

宮崎 蘇庵

元小城藩医 

長 梅 外

長三洲の父親 咸宜園

吉雄 菊瀕

元小倉藩医  咸宜園

長 古 雪

長三洲の弟  咸宜園

冨谷 潤谷

廣瀬 青邨

東宜園主催  咸宜園

浅沼 巨眼

長 三 洲

元修史官    咸宜園

棚橋 松村

美濃の人 広瀬旭荘門

那珂 梧楼

出羽の人 大蔵省官吏

棚橋 梅巷

棚橋松村夫人

廣瀬 雪堂

近江の人 元修史官

後藤 柳処

石井 南橋

豊前の人   咸宜園 

香阪 雲山

長三洲の門人

片山 猶存

栃木県大書記官

後藤 銕耕

美濃の人 

池上 泰川

備前の人   咸宜園 

綾部 葛里

元小城藩士  咸宜園

清川 揚川

水谷 奥嶺

美濃の人 漢詩人

橋詰 朴斎

土佐の人

田代 潤卿

久留米藩儒  咸宜園

有馬 天然

元丸岡藩(越前)家老

倉富 篤堂

久留米藩士   咸宜園

城井 錦原

小倉の人 長三洲の知人

遠田 木堂

元幕府奥医師

南摩 羽峯

東大教授 漢学者

松本 白華

真宗僧侶    咸宜園

森 春 濤

尾張一の宮出身

青木 可笑

大蔵省官吏

大郷 学橋

旧鯖江藩士

関 雪 江

東京の人

浦田 改亭

元伊勢神宮少宮司

藤田 呉江

画家・書家

堤  正勝

伊予の人   咸宜園



 玉川吟社の社友から、棚橋松村・絢子夫妻について記す。

 棚橋松村(たなはし しょうそん)

  漢学者・漢詩人 名は嘉忠 通称は大作


 美濃国伊自良郡松尾村(現山県市松尾)の代官 棚橋真吾右衛門の嫡男として文政十年に生まれた。二十五歳で失明した後、大阪に出て広瀬旭荘に学んだ。安政四年に友人の奥野小山の世話で、牛尾田庄右衛門の娘の貞(絢子と改名)と結婚した。程なくして棚橋の実家が零落したため生活に窮したが、妻の絢子が懸命に働いて生計を維持した。後、東京に出て牛込市ヶ谷仲之町に住した。明治二十六年死去 享年六十七歳。


 棚橋絢子 (たなはし あやこ)

  教育者 幼名は貞 号は梅香 ほかに梅巷・梅庵

 天保十年、大阪の酒造業者 牛尾田庄右衛門の長女として生まれた。奥野小山に漢学を、三瓶信庵に書を学んだ。安政四年、十九歳のときに美濃の代官の息子で漢学者の棚橋大作と結婚して、名を絢子と改めた。
盲目の漢学者である夫のために、絢子は書を代読し詩文の筆記に努めていたが、五年ほどして棚橋家が没落したため手習いの師匠や裁縫を教えるなどして一家の生活を支えた。明治五年、名古屋の十番小学校の教員となり、明治八年に上京して東京女子師範の訓導を勤めていたが、知り合いになった福沢諭吉の勧めで、諭吉や華族の娘の家庭教師をしながら東京女子師範学校・学習院女子部などで教鞭を執った。
 明治十九年から私立金声小学校を経営したが、同校は明治二十三年に閉校。明治二十七年、成立学舎女子部教頭。明治二十九年、名古屋高等女学校校長を経て、明治三十三年、愛敬女学校校長に就任。
 明治三十六年、息子の棚橋一郎(東京大学法学部卒)らが、高等女学校令による府下最初の四年制女子学校である私立東京高等女学校を創立、その初代校長に迎えられた。昭和十三年、百歳まで教壇に立ったが高齢のために校長を辞した。
昭和十四年死去 享年百一歳 訃報はニューヨークタイムズにも掲載されたという。



哭橘門翁 棚橋絢子
 (玉川吟社小稿)





 橘門は牛込神楽坂の地で詩書三昧の余生を楽しんでいたが、在る時、日高頼長の家を訪ねて午餐を求め、特に酒一合梅干三顆豆腐一丁と附言したところ、供せられた食膳には珍味佳肴が盛られてあったので、橘門忽ち色をなして家人を呼び、先に求めた品を乞い、更に筆紙を命じて下記の文字を書き記し、之を壁間に掲げて独酌歡飽陶然として辞去したという。

・・ 強飯俗強酒最俗賓主自由謂之清適

 日高秩父は原籍本庄町大字六日町(現宮崎県東諸県郡国富町本庄大字六日町)の人であるが、その父頼長の頃東京に移住した。その旧邸は現に六日町日高順二氏の所有となって存して居る。頼長は幼時より学を好み高妻騰雲に師事して、漢書の素読と書道の練習を重ねたが、後志を立てて東京に出で、その子秩父に依って初志を貫徹したのである。頼長が将に東都に向って出発せんとする時、恩師騰雲の門を叩いて別辞を述べた。その時騰雲は秘蔵の書数巻を贈って餞としたが、頼長は喜びの余り、傍らに置いた路銀の包をさへ忘れて立ち去ろうとした。騰雲は之を見て深く感じ「頼長は必ず為す処あるべし」とその後人に語ったと謂う。   「本庄郷土史摘要」本庄史談会 昭和3年4月29日発行 非売品



秋月橘門

 秋月龍字は伯起字を以て行わる。姓は劉、高祖父西信その兄と宗家高鍋侯に事う。共に讒に遭て国を去る。後冤白して召還せらる。兄復仕ふ西信はいさぎよしとせず、躬耕以終わる。考逍遥慨然家を興すの志しあり、諸子に書若しくは剣を学ばしむ。橘門其の第二子なり、年甫て十六豊後日田に赴き広瀬淡窓の門に学ぶ。貧甚だし傭書自ら給す。県令塩谷某その才あるを聞きて窃かに以侍史とせんとす。其の師をして意を致さしむ。辞して曰く、龍の学ぶ所以のもの志ざし豈人に役たるにあらんや、且県令なにする者ぞと、某之を聞きて怒り命じて之を逐はしむ。時に天大に雪降る、而して橘門意気益々壮んなり。飄然剣に杖り佐伯に至り中島子玉の家に寓す。復潜かに日田に入り教を奉じ筑前に遊び亀井昭陽に従って学ぶ。年二十三肥前島原に如き帷を下し教授す。既にして備前に遊び医を学ぶもの三年、去りて三都に遊ぶ、名一時に高し。国に帰り業を開く業大に售る。延岡内藤侯之にを贈る。然れども橘門医を以て顕るヽを欲せず。偶々佐伯侯の為に聘せられ藩の文学となる。其の子弟を教える諄々法あり、少過も亦寛暇せず衆皆畏愛す。侯薨じ世子立ち侍講に任ず。蹇諤忌諱を避けず。明治元年徴されて三河県の知事となる。未だ任に赴かず、更に鎮守府に属し又弁事に参す。十二月、葛飾県に知たり、時に年六十、政繁苛を除き民物を愛養す。俸禄の余り悉く郷党親戚の貧者及び少時恩を受くるの家に頒つ。三年正月老を以て致仕す。嚢に遺財なしと云う。橘門人となり厳毅鬚髭美なり。眉目軒爽音吐朗暢、見るもの粛然敬を起さざるなし。父母に仕えて孝婉備に至る。家を治むる厳粛にして平居和易喜笑以て楽しむ。晩年深く心を仏理に潜む、尤も殺生を戒しむ。藩廃して後、東京牛込門外に家し諸名流と遊ぶ。詩酒徴逐絶えて世事を言はず。著書数種あり。十三年四月病みて歿す。壽七十二。男新太郎嗣ぐ、天放と号し文学を以て世に知らる。(続先哲百家伝) 


秋月橘門

 秋月橘門は、日向高鍋藩主秋月氏の支族なり。高祖父兄弟故ありて高鍋を去り、日州下庄の野を耕ししに、程なく帰参の命ありて、兄は帰り仕えたるも、弟は帰らざりしが、其の四代の孫こそ即橘門の父なり。
 橘門名は龍字は伯起、小相と称す。橘門はその号なり。文化六年を以って生まれぬ。年甫めて十六、豊後日田に至り、広瀬淡窓に師事し業を受けぬ。居ること幾ばくならずして学資全く尽きて如何とも為す能はざるに至りたれば、事情を師に告げ筆耕して自ら給し僅かに飢餓を免るることを得たり。時の郡代塩谷代四郎之を聞き召して侍吏たらしめんと欲し、淡窓を介して意を至らしめけるに、橘門辞して曰く「士の文学に志すは、豈に人に使役せらるゝが為めならんや」と。郡代大いに怒り、淡窓に命じて之を放逐せしめき。天適ま大に雪降り寒威凛冽たり。然れども意気壮烈、劒に仗り飄然として去り、佐伯に至りて中島子玉の家に寓しぬ。後復た潜に日田に入りたるも再び去りて筑前に往き亀井照陽に学べり。年二十三帷を肥州島原に下して子弟を教授し、又去りて備前に遊び医を学ぶこと三年、業成るや去りて三都に遊ぶ。後、郷里に帰り医を業とししに、治を請うもの頗る多かりき。延岡侯其の名を聞き、招致せんと欲して之を通じせしめたるも、橘門の意、医にあらざれば辞して就かざりき。會ま佐伯藩主毛利高雲侯、学を好み士を愛し、聘して藩学の教授に任ぜざりき。橘門の子弟を誨ふるや諄々として法に適えり。然れば門生皆畏服し其の教に違うものなかりき。温良侯の時侍講に任じ時事を諮問せられしに蹇諤にして忌諱を避けず裨益する所多かりき。
 明治元年、徴されて三河県の知事に任ぜられたるも、未だ任に赴かずして鎮守府に属し辯事に参し同年十二月葛飾県の知事に転ぜり。橘門任に就くや繁苛を除き民物を愛養し俸禄の余は悉く郷党親戚の貧窮者、及び其の恩人に頒てり。故に同三年、致士して襄に遺財なかりきと云ふ。同十三年病んで歿せり 享年七十二歳。
橘門の人となりは厳毅方正、見る者粛然として畏敬せざるものなかったという。又、父母に至孝、家を治ること厳粛、而して平居和易、喜笑を以って楽しんだ。又、心を仏理に潜めて尤も殺生を戒めたという。
   (大分県偉人伝 大分県教育会 明治四十年八月十六日発行)


  広瀬青邨 明治17年死去 享年66歳

  長 三 洲 明治28年死去 享年62歳


 玉川堂は筆墨専門の老舗で今も九段坂下で営業しており、長三洲揮毫の『玉川堂』看板が現存する。

玉川堂の看板
矢野光儀と竹中寛
秋 月 新 太 郎 
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